夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

建勲神社・信長公記に学ぶ人間五十年の真実と本能寺の変以降の織田家(山形県天童市歴史写真散歩)

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前回ご紹介した山寺(宝珠山立石寺)に続き、初夏、山形を歩いた記録から。

山形県天童市

将棋の駒、温泉の街として有名で、サッカーJリーグ、モンテディオ山形の本拠地、天童市。サクランボ、ラ・フランス、リンゴ、ブドウ、そばなど名産品も数多く、芋煮、ナスを塩・唐辛子で漬けた辛い漬物「ぺちょら漬け」や「だし」と呼ばれる郷土料理も楽しみな場所です。

街を歩けば、郵便ポストも将棋駒の街らしく…

視線を足元に落とせば、歩道も将棋盤に。

さらに大山康晴第十五世名人の達筆による駒も威風堂々。

広重美術館(天童市)

天童広重と呼ばれ、歌川広重ファン、愛好家には特に有名な「広重美術館」もございます。

この日は天童市内のほぼ中央にある舞鶴山を歩きます。

まずは美しい蓮の花から。

「永井荷風」雅号の由来

穏やかな初夏の風、風の名前に「荷風」という言葉があります。

蓮の上を吹き渡る初夏の風を指す美しい日本語です。

「荷」という文字は大きな花が咲く草、すなわち蓮の意味であります。

あまりに美しい蓮の花とこの日の風の爽やかさに、そんな「風の名前」を思い出しました。


そうです、この言葉こそ、作家永井荷風が雅号、ペンネームに使用した「荷風」です。

余談になりますが、永井荷風、本名永井壮吉は明治27年(1894年)、高等師範学校の付属中学に在学中、リンパ腺の治療のために帝国大学第二病院に入院、たまたまその病棟にいた「お蓮」という看護婦を見初めました。15歳の恋心を忘れず、その人の名から雅号を採るとはいかにも永井荷風さんらしい逸話です。

天童市内写真散歩

話を天童市散歩に戻しましょう。

天童市公式ホームページ

山形県天童市/天童公園(舞鶴山)

天童市の中心部にある舞鶴山は、まちのシンボルとして市民に親しまれています。一帯は市民の憩いの公園になっていて、山頂の展望広場(平成21年度に再整備)からは、月山や朝日連峰、最上川などが一望できます。

また、舞鶴山は桜の名所としても知られています。4月中旬の土・日にはおよそ2000本の桜の下で、天童桜まつり「人間将棋」が行われます。

まずはふもとの案内板を眺めてから。

ゆるやかな舗装された坂道を上ります。地元の方はほとんど車で一気に、のようですが、歩くことが目的のわが家は写真散歩。まずは大きなお地蔵様をメモ。

大聖不動明王(身がわり大地蔵尊)

おだやかな表情ですが、大きなお姿のお地蔵様でした。

しばらく歩くと、緑に囲まれ、心地よい散歩コースです。

合歓(ねむ)の花

烏瓜(からすうり)の花

ヨツバヒヨドリ(キク科フジバカマ属)

藤袴によく似ていますが、藤袴は絶滅危惧種。
見分けるのが大変難しい、キク科フジバカマ属です。
七月中旬に開花を迎え、葉が四つに分かれているところで見分けます。

ナワシロイチゴ(苗代苺)

ヤブカンゾウ

洋種山牛蒡(やまごぼう)


心地よい風も流れる初夏の天童、歩く速さで感じる空気と自然。

紫陽花も東京より元気そうで力強い姿です。


ゆるやかな坂道を歩き続けると、程なく舞鶴山にある神社の案内と


展望スペースにたどりつきました。あいにくの曇り空で、時折小雨の降る天気模様でしたが、緑濃き舞鶴山から天童市内を一望します。

田山花袋碑(舞鶴山)

舞鶴山には田山花袋の碑や

志賀直哉碑(舞鶴山)

志賀直哉の碑もありました。

さて、今回お届けする歴史散歩の本題は近世の扉を開くことになる織田信長という武将について。

歴史の大転換期に現れた織田信長

日本の歴史を振り返ると、大きな転換期があります。

  1. 源氏と平家による争乱の結果として起こった古代王朝の崩壊と中世の開幕
  2. 戦国乱世に「天下布武」のスローガンを掲げ、中世までに確立されていたあらゆる権力を否定し、近世の扉を開いた織田信長の登場
  3. 徳川家の治世で確立した近世封建制度、幕藩体制を崩壊させ、近代化、富国強兵を目指した明治維新
  4. 大東亜戦争敗戦と廃虚からの復興

歴史の転換期には洋の東西、古今を問わず、血なまぐさい戦いと背筋も凍るような思いがする殺りくが常に見受けられます。

戦国時代とは何だったのか?

応仁の乱に始まった争いが長引いたことで、政治的混乱が長く続く京都を中心とした近畿から離れた地域では守護・守護代・国人などさまざまな階層出身の武士たちが自力で分国(領国)をつくりあげ、独自の支配を行う地方政権が数多く誕生します。

こうした戦国大名は次々と分国法を整備し、新たに征服した土地などで「検地」を行います。農民の耕作する土地面積と収入額などが「検地帳」に登録され、大名による知行地に対する直接支配が強化されていきます。

いまでいう課税対象者への基本台帳であり、この時代の検知帳は軍役の基本台帳でもあったのです。

しばしば誤解されている方もお見受けしますが、戦国時代は戦乱で人心や国土、経済が疲弊しきっていたわけではなく、むしろ逆で、経済は右肩上がりで上昇し、新しい社会的枠組みを作り上げようと機運が沸き上がってきた時期でもあります。

地方自治の確立、城下町の形成による「都市」が生まれ、農村手工業の発達、商品経済の発展、流通交通網の整備によって農村では市場や町も飛躍的に増加していたことが分かっています。

鉄砲伝来や金・銀の鋳造技術の飛躍的向上もあり、新たな生産と流通の力はみなぎってきたといえるのです。

この時代、最も平和で自由な都市として成長した港町や宿場町も貿易・交易の拡大によって、市政運営はさらに整備されていくのです。

また大寺社はもちろんのこと、新しく造られた中小寺院の門前町も発展し、門徒が集住し、戦国大名の城下町とよく似た構造を持っていました。

祈りによって人々に安心と喜びをもたらす「仏法の徒」たる僧侶たちのなかには、平安時代末期から武器をとって「僧兵」と化し、内部抗争を繰り返し、やがては合戦を引き起こし、暴力と当時の言葉である「仏法」という絶対的権威を背景に人々に恐怖を与えるものも現れます。

鎌倉、室町と中世以降長い年月を経て世俗権力化し、武装化した寺院ではこの時代にその権力はひとつのピークを迎え、あまりにも強大になっていました。

こうした時代背景、歴史的事実をあらためて確認したうえで、建勲神社へ向かうことといたしましょう。

建勲神社

歴史散歩の目的地、建勲神社の幟(のぼり)を発見。

ここは織田信長を祀った神社です。

読み方は二種類あって、「けんくん神社」と「たけいさお神社」いずれでも良いそうです。

建勲神社拝殿



運よく宮司さんにもお会いでき、神社の由緒やら拝殿内について、いろいろ案内していただきました。



まずは参拝から。

建勲神社由緒

建勲神社は、天童織田藩の始祖である織田信長を祀った神社です。明治3年、天童藩の知事であった織田信敏(おだ・のぶとし)が城山(しろやま=現在の舞鶴山)山頂に社殿を造営しました。最初は建織田(たけしおりた)神の神号でしたが、のちに建勲社(たけいさお)と改称されました。そのあと県社となって、1884年(明治17年)に現在の場所に移りました(階段そばの案内文を要約)。建勲神社を取り囲むアカマツの林は建勲神社社叢(けんくんじんじゃ・しゃそう)として天童市指定天然記念物になっています。

信長がポルトガル人宣教師から献上されて以来、終生大好物だったといわれる金平糖(建勲神社、社名入りの袋に入った)も頂戴し、もちろん丁寧な説明にも感激しました。

拝殿内の撮影もお許しいただき、

信長ファンからの寄贈品や

画家ジョバンニ・ニコラオによる織田信長肖像画

イエズス会から日本に派遣された画家ジョバンニ・ニコラオ(Giovanni Nicolao)が描いたとされる織田信長の肖像画を写真で撮影したものを見せていただきました。

織田信長の肖像画といえば、教科書にもある、↓が有名ですが

皆さん、ご存じでしたか、信長のこの肖像画。
凛々しくもあり、生々しくもあり、しばらく見入っておりました。

津本陽著「下天は夢か」

津本陽著「下天は夢か」のあとがきのなかで、津本さんは

信長はヨーロッパより百年はやく政教分離を実現し、中世社会の陋習、偶像を破壊する一生であったが、彼の足跡にはにぎやかな気配はなく、明晰な認識者の孤独感ともいうような、虚無のにおいがただよっている。

と評しています。「虚無の匂い」、津本さんらしい素晴らしい表現です。

本居宣長碑文

境内には江戸時代の国学者、本居宣長の碑や

<碑文は要約すると「織田信長は国内を平らげ精勤の大臣(おおおみ)であることよ」という意味です>。

松尾芭蕉句碑

「原中や物にもつかず鳴く雲雀」という松尾芭蕉の句碑もあります。

貞享(じょうきょう)四年(1687年)の作と伝えられています。何事にも束縛されない雲雀の気高さを表すと同時に、力強さを感じる句です。空高く舞い上がったひばり、ただただ青く澄んだ春の空だけがどこまでも続く。何ものにも束縛されない自由な姿と擬人化された孤独を表現している句であると解釈できるのではないでしょうか。

下卒一統手水舎

天下布武を目指した信長公を祀る神社らしい手水舎もあります。

中世から近世へ、大きな時代の転換期を駆け抜けた英傑、織田信長。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑に仕え、信長研究、第一級の資料して名高い「信長公記」を残した太田牛一の言葉をもとに、津本陽氏は「信長は勇敢で、天下統一の目的を達成するために、全力をついやし、事にあたっては真率であった。日常の暮らしむきも、酒は飲まず、睡眠はみじかく、贅沢な食事は好まず、女色に溺れない。信長に従う家来たちは、彼の叡智明察を信頼していた。信長には部下の才幹を的確に理解し、適材を置く能力がそなわっていた」と表現しています。

織田信長について第一級の歴史資料「信長公記」を読む。

一読後、この本を熟読玩味せずに「織田信長」について考えることは止めにしようと思った史料です。著者の太田牛一についてはWikipediaの記述が珍しく(苦笑)簡潔に書かれていますので、リンクを記載しておきます。
太田牛一 - Wikipedia
「安土宗論」について、私は歴史参考書の記述をうのみにしていましたが、「信長公記」の記載を読んで、大きな誤解があることに気づきました。

信長公記で知る「安土宗論」の真実

天正7年(1579)5月に安土の町で法談していた浄土宗の長老、霊誉に対し、法華宗の建部紹智と塩売りの商人であった大脇伝介が宗論を仕掛けます。実はこの大脇伝介という人物は町人=商人でありながら織田家臣であるという曖昧な存在でした。

一度は信長本人によって「宗論を避けるように」という仲裁を受けたにも関わらず、その彼が法華宗の一員として、あくまでも宗論での決着を求めたことが悲劇のはじまりでした。宗論ではお粗末な負けを喫することになり、処刑の対象になってしまったのです。

信長の家臣でありながら、塩売りの商人として財を成し、法華宗の一員であるという存在は信長という為政者からみれば、秩序に反する人物ということになったのでしょう。この史実も太田牛一によって信長公記では淡々と語られています。

暦の統一、ユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦を採用

朝廷は昔から日食は不吉の兆とのみ考え、『廃朝』として門を閉じ、休むだけでござった。何事にも好奇心の強い信長さまはこのような朝廷の姑息さにあきれ果て、この国をもとから変えようとなされたお方だった

イエズス会の宣教師との交流から天文観測などの知識を積極的に得ようとしていた信長にとって、当時の朝廷にいた暦博士たちは無能、無策であったと考えていたことの証左になるでしょう。当時の日本の暦は季節感がどうしようもなくずれていたのです。

「是非に及ばず」

また本能寺の変においても、森蘭丸の報告を受け「是非に及ばず」と語ったといわれる逸話は太田牛一が信長によって避難するように命じられた侍女に取材して聞き及んだ事実として記載されていることも確認できます。

「信長公記」の価値

岡山藩池田家文庫本第十三帖(岡山大学所蔵)にある太田牛一自筆の奥書にはこうあります。現代文にして要約すると、

わが寿命はすでに尽きようとしているが、かすむ眼をこすりつつ書き続けた。この書物はかつて記しておいたものが、おのずと集まったもので、断じて主観による作品や評論ではない。あったことを除かず、無かったことは付け加えていない。もし一カ所でも虚偽があるならば、天は許し給わぬであろう。

と宣言しています。

イギリスの著名な歴史学者、Edward Hallett Carrはこう言います。

歴史とは、歴史家と事実との相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。

太田牛一の残した「信長公記」やルイス・フロイスの「日本史」は織田信長を理解するうえで史料的価値の高さにおいて、この二冊が双璧です。ぜひこれを読んでから、数ある信長に関する小説を読んでみてください。現代の「あと知恵」からのみ判断するではなく、織田信長という人間の不思議さが見えてくると思います。

織田信長の名言

彼の残した言葉から、現代文に直したものを3点。

  • 生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠る、うぬぼれる。しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと日々努力する。心構えがまるで違う。これが大事だ。
  • 人は心と気を働かすことをもって良しとするものだ。用を言いつけられなかったからといって、そのまま退出するようでは役に立たない。その点、お前は塵に気付いて拾った。なかなか感心である。
  • 必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。

兵農分離、楽市楽座など革新的な政策を執り、中世を生きる人間の行動を支配していた「地縁、血縁、宗教縁」を切り裂くように破壊し、戦い続けた信長、新しい時代の構築に向け、全速力で駆け抜けた49年。

彼が好んで舞った幸若舞いの敦盛「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎」を信長が好んだ理由が少し理解できたような気がする歴史散歩でした。

本能寺の変以降、織田家はどうなったのか?

最後に織田家と天童市の関係について、天童市立旧東村山郡役所資料館発行資料による説明を引用し、ご紹介します。信長没後、どんな縁で織田家は天童藩主となったのか、またどのような道をたどったのかがよく分かります。

天童市の舞鶴山に織田信長をまつる建勳神社がある。信長は尾張の国に生まれ、18歳で那古野城を継ぎ上総介と称した。引治元年(1555)には清洲城を本拠として尾張の国を平定した。 また今川義元を桶狭間で破ったり、延暦寺の僧徒を討つため一山を焼き払った事などが有名である。天正4年(1576)には豪華な安土城を築いて居城とし、戦乱の世を統一しようとしたが、同10年(1582)京都の本能寺において明智光秀の襲撃を受け自害してなくなった。このような英雄が天童市の舞鶴山にある建勳神社にまつられているのは不思議な気もするが、それは天童に織田家の子孫が天童織田藩主として居住していたからである。
 
天童織田藩は、信長の次男信雄にはじまる。信長が本能寺の変で非業の死を遂げ、長男信忠も死亡した。それで信雄が宗家を継ぐことになった。はじめ、尾張・伊勢・伊賀、100万石の領主となったが、豊臣秀吉と抗争し、結局5万石(大和国3万石・上野国2万石)になった。

信雄の嫡男信良が、信雄から上野国(現、群馬県)甘楽・多胡・碓氷3郡、2万石が与えられ、小幡織田藩の藩主となり、宗家を継いだ。以後、信昌・信久・信就・信石・信富・信邦が藩主となり、およそ150年甘楽郡などを支配した。
 
しかし明和4年(1767)8代藩主信邦は、幕府を倒そうとする計画(山県大弐事件)に関係したというので蟄居を命ぜられ、9代藩主となった養子(信邦の弟)信浮は高畠に移された。山県大弐事件は要するに天下にかかわる重大な問題を幕府に報告しなかったという不適切な処置を咎められたものである。
 
2万石の領地は陸奥国信夫郡(福島県)・出羽国置賜郡(山形県)および村山郡の3カ所に分けられ、その後信夫郡の領地は村山郡内に替え地された。そして文政13年(1830)10代藩主信美が館や藩役所を高畠から天童に移したので天童織田藩が成立したのである。ついで嘉永元年(1848)10月高畠以下の置賜郡内の領地を取りあげられ、そのかわりを村山郡内に与えられたので、領地は村山郡内にまとめられた。
 
山県大弐事件による織田家への処分は高畠に移されただけではなかった。これまで信長以来の立派な家柄を考えて与えられてきた一切の特権や待遇を奪われたのである。織田家は国持ち、城持ち大名ではないが、歴代藩主の官位は従四位下、侍従に待遇されていた。この事件のあとは江戸城においても 大広間詰から柳の間におとされ、諸大夫の家格として、ほかの織田支族と同格になった。

なお、鍛冶橋門内の上屋敷も没収された。さらに信邦の実父織田対島信栄までまきぞえをくって、高家職を奪われ一定期間外出禁止を命ぜられている。織田家にとってはまことに厳しい処分であった。それ以後の織田藩ではこれらの特権や家格の回復と関東方面への国替えが藩を上げての念願であった。

慶応3年(1867)10月、15代将軍徳川慶喜が大政奉還をした。同4年(1868)9月明治と改元され、時勢は明治維新の新政府に移っていった。
 
明治2年(1869)6月寿重丸は天童藩知事に任命されたが、幼少のためやめさせられ、代わって信敏が天童藩知事に任命された。明治4年(1871)7月廃藩置県によって天童県となり、藩知事は免職され同5年(1872)東京邸に引き上げられたのである。