夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

盛岡城、盛岡八幡宮、櫻山神社

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イーハトーブの森を歩く、撮る

イーハトーブの森を歩いた三日間の旅。
三ツ石山登山、松川の森を九時間以上歩き続けた疲労も
松川温泉のおかげで翌朝にはすっかり癒え、
最終日も朝6時からブナ・ミズナラ・カエデの原生林を歩きます。

宮澤賢治没後「雨ニモマケズ」手帳と名付けられた黒い革の手帳に書かれた詩が思い浮かびます。

宮沢賢治「きみにならびて野にたてば」

きみにならびて野にたてば、風きららかに吹ききたり、
柏ばやしをとゞろかし、枯葉を雪にまろばしぬ。
げにもひかりの群青や、山のけむりのこなたにも、
鳥はその巣やつくろはん、ちぎれの艸(くさ)をついばみぬ。

宮沢賢治「きみにならびて野にたてば」

八幡平市松川の森

ミヤマシシウド

まさに名残のシシウド、花火のように儚げで美しいその姿。

色づき始める八幡平市松川の森。
錦絵のような美しい紅葉に染まる八幡平の秋を想像しつつ、

松川地熱発電所

自然と地元住民との見事な調和、松川地熱発電所を再度メモ。

名残惜しいイーハトーブの森を後にして、
路線バスに乗り、二時間弱の行程。盛岡駅へ向かいます。

盛岡市内写真散歩

豊かな森に囲まれ、岩手山のすそ野に広がる盛岡市。

盛岡市役所の説明によると、
www.city.morioka.iwate.jp

雄大な岩手山の裾野に広がるこの土地は,旧石器時代から人々が暮らし,生活の跡を残しています。縄文時代にはいくつもの集落が点在し,森や野原の恵みと海からの恵みが交わる交易地としてにぎわいが生まれました。

人々の暮らしに大きな変化が起きたのは平安時代です。803年(延暦22年),征夷大将軍坂上田村麻呂が北上川西岸に志波城を築き,新たな開拓の歴史は始まり,朝廷による東北経営の拠点となりました。

やがて,戦国時代になると,志和郡(紫波町)を拠点とする斯波氏と三戸(青森県三戸町)を拠点とする南部氏の二大勢力が覇権を争い,この戦いに勝利した南部家26代南部信直が,豊臣秀吉から岩手郡を含む7郡の本領を安堵され,盛岡藩が誕生しました。盛岡藩の2代藩主利直の時代に城下町の建設が大きく進展します。

町割りは,城の周りに二重の外堀を巡らせ,上方や江戸から迎え入れた商人や職人が町を囲み,その外側に三戸から移ってきた武士の屋敷や寺院を配置したもので,新しい時代の軍事や商業,交通などに対応する環状市街地が形成されました。これが,現在でも盛岡の中心市街地の基本的な骨格となり,城下町の情緒と風格が「盛岡らしさ」として残っています。

その後,明治時代の廃藩置県により,盛岡藩は,盛岡県から岩手県に変わりました。

北緯40度の文化的脈動

歴史、文化の香り高い街、盛岡市内を今回は歩きます。

そこで思い起こすのが、山折哲雄先生がかつておっしゃっていた「北緯40度の文化的脈動」。

山折哲雄、最新刊と宮沢賢治関連書籍

ニッポンの負けじ魂 「パクス・ヤポニカ」と「軸の時代」の思想 (朝日選書)

ニッポンの負けじ魂 「パクス・ヤポニカ」と「軸の時代」の思想 (朝日選書)

髑髏となってもかまわない (新潮選書)

髑髏となってもかまわない (新潮選書)

デクノボーになりたい 私の宮沢賢治

デクノボーになりたい 私の宮沢賢治

北緯40度。

日本でいえば、秋田県男鹿半島と、ここ岩手県盛岡市。周辺の花巻、平泉を含め、独自の歴史と文化が形成され、いまもなおその文化的脈動が息づいています。

北緯40度付近にある世界の都市

世界地図を俯瞰で眺めると、ギリシャ(エーゲ海)、ポルト(ポルトガル)、マドリッド(スペイン)、ナポリ(イタリア)、ニューヨーク、アンカラ(トルコ)、シルクロード要衝の地「楼蘭」、敦煌の莫高窟、大同の雲崗千仏洞。

さらに北京、平壌が「北緯40度の文化的脈動」の範疇に入ると考えると、世界史、地理、文化を考えるうえでもまた一段と面白くなってきます。

プラスマイナス1ないし2度程度を許容範囲とすれば、ローマ、バチカンも入ってきますので、想像するだけでもワクワクします。

盛岡市・歴史・観光

別の盛岡市について書かれた説明『岩手県の町並みと歴史的建築物>盛岡市・歴史・観光』によると、

盛岡市の古代には蝦夷が独自の文化圏を有していたと思われ、上田蝦夷森古墳群からは「衝角付冑」や「蕨手刀」などが見つかり大和朝廷とは異なる生活形態がなされていました。岩手県南部で繰り広げられたアテルイやモレなどの俘囚(蝦夷)と大和朝廷側の坂上田村麻呂の戦いが終わると、旧蝦夷勢力を一掃するため延暦22年(803)に盛岡市の南西部に志波城を造営します。志波城の規模は当時の国府だった多賀城(宮城県多賀城市)や鎮守府の胆沢城よりも大きく、城柵を廻すなどの防衛施設も充実していた為、対蝦夷の最重要拠点と考えられていたようです。

しかし、10年後には河川の氾濫、あるいは蝦夷の抵抗などで戦線が維持できなくなり盛岡市より南方にある徳丹城へ機能を移しました。その後、俘囚の長である安倍氏の勢力が強大になり、盛岡市西部に厨川柵・嫗戸柵の両柵を設け一大拠点を築き周囲を支配します。朝廷側は源頼義を鎮守府将軍として安倍氏を追討を画策し前九年合戦が始まります。当初は安倍氏が優位に推移していましたが出羽(秋田県)の俘囚の長清原氏が朝廷側に付くと、戦局は一転し安倍氏の敗戦が目立ち始めます。盛岡市周辺が最終決戦の場となり安倍貞任は厨川で討死にしたと伝わっています。

次に支配権を握ったのが清原氏でしたが、内紛が起こり後三年合戦へと発展し、結果的に勝利を収めた清原清衡は藤原氏の祖となり奥州を支配します。その後、鎌倉幕府は源義経を自刃に追い込み「奥州合戦」では源頼義が安倍氏を討った故事にならい盛岡市の厨川まで進軍し、藤原氏を滅亡させます。盛岡市を含めた岩手郡周辺は戦功があった工藤氏が厨川館で支配する事となり、戦国時代後期まで続きますが、南部氏の南下を支えきれず、南部氏の家臣団に組み込まれていきます。

当初、南部氏は三戸城や九戸城を本拠としていましたが、小田原の陣に参陣や「奥州仕置」、「九戸の乱」などに随行した為、10万石が安堵され、領土が大きく南側へ移ります。九戸城では北側へ偏り過ぎた為、蒲生氏郷や浅野長政の助言もあり本城を盛岡へ移す事になります。盛岡開府は現在の盛岡市に繋がり、現在でもその当時の城下町の風情が色濃く残り小京都と称されています。

とあります。

さあ、新幹線予約時刻との兼ね合いで、盛岡市内散歩の制限時間は約4時間。

日本における「北緯40度の文化的脈動」を探る散歩、盛岡市内をどう歩くか?

まずは作戦会議を開きます(笑)。

盛岡グルメ

盛岡といえば、シコシコ麺にコクのあるスープが特徴の『盛岡冷麺』。
平麺と肉みそが調和する『じゃじゃ麺』。
仲間と一緒に次々とおわんのそばをたいらげる『わんこそば』=盛岡三大麺をはじめ、豊かな食文化の華が咲く街ですが、昭和生まれの「喫茶店」好きにはたまらない、魅力的な素晴らしい喫茶店がいくつもあります。

本日はここ「カプチーノ詩季」さんにて。

落ち着いた雰囲気、椅子をはじめとした居心地の良さ、香り高く味わい深い珈琲、トースト類もおいしい…と、私が理想とする喫茶店のひとつであります。

けっして嫌いではありませんが、日本でのチェーン展開に大成功したシアトルモデルを代表とする、いわゆる最近流行の「カフェ」ではなく、昭和という時代の麗しき文化「喫茶店」をこよなく愛するものとしては、ここ「カプチーノ詩季」さんは表彰したい名店です。

ここで教わったのは珈琲にレモンを少々絞って飲むという「目から鱗」の味わい方。

この名店で供されるレモンの量がまた絶妙!苦味が抑えられ、スキっとした味わいになります。

深煎りの珈琲にごく少量ですがレモンを加えること、あくまでも個人的感想ですが(苦笑)それが特に良くあうのではないかと思います。

ほぼ一年365日、毎日飲むコーヒー。

そんな珈琲好きの我が家に新たな味わい方を教えてくれた「カプチーノ詩季」さんに感謝感謝。

これも「北緯40度の文化的脈動」、その恩恵と解釈しております。

あとで調べてみるとイタリア南部、北緯40度付近にこの習慣があるそうです。

恐るべし、「北緯40度の文化的脈動」。

盛岡市「カプチーノ詩季」(食べログ)

カプチーノ詩季 (カプチーノ シキ) - 盛岡/コーヒー専門店 [食べログ]

カプチーノ詩季さんでの作戦会議の結果、まずは盛岡城を目指すことに。

岩手県、そして県庁所在地、盛岡観光の参考になる優良ウェブサイトいえば、ここ↓

盛岡市の観光と歴史的建造物 by「いわたびネット」

岩手県へご旅行の際はぜひご覧ください。豊富な写真とツボを押さえた分かりやすい説明、とても参考になりました。おススメです。
www.iwatabi.net

その説明によると、

盛岡城は鶴ヶ城(福島県会津若松市)、小峰城(福島県白河市)と並び東北三名城と呼ばれています。特に土塁が多用された東北の城の中では異例ともいえる花崗岩を積み上げた高い石垣を誇り、近世城郭の威容を誇っています。盛岡城の城主南部氏は戦国時代後期、三戸城や九戸城を本拠としていましたが小田原の役に豊臣側に散陣し、その後の「奥州仕置」や「九戸の乱」などに随行した為、津軽三郡は大浦氏の手に落ちますが、その分南三郡を手に入れ、10万石が安堵されます。その為、領土が大きく南側へ移り、九戸城では北側へ偏り過ぎた為、蒲生氏郷や浅野長政の助言もあり居城を盛岡城へ移します。

慶長3年(1598)から盛岡城の築城を開始し慶長14年(1609)に第一期工事が完成し、実際完成したのが寛永10年(1633)と言われています。盛岡城は本丸を中心に北側に二の丸、三の丸と配し、東側に淡路丸、南側に腰曲輪、西側に榊山曲輪で取り囲み、北上川と中津川を天然の要害としました。主な施設としては本丸の天守台に三階櫓が築かれ、百足橋や三重の廊下橋などがあったとされ、規模はさほど大きくありませんが様々な工夫があったと思われます。

明治維新後、盛岡城は廃城となり様々な建物が取り壊しあるいは移築され、城内の施設はなくなりましたが、元々あった土蔵が再び城内に移築されています。現在の盛岡城は本丸、二の丸を中心に石垣や水堀の一部など保存状態も良く国指定史跡に指定されています。又、盛岡城は日本100名城に選定されています。




つづいて、

旧岩手銀行旧本店本館



復原工事完成、今話題の「東京駅」によく似ていますが、それもそのはず設計者は辰野金吾博士です。

ガス燈


イングリッド・バーグマン主演、映画「ガス燈」を思い出させる優雅な雰囲気があるガス燈です。

ガス燈 [DVD]

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旧九十銀行本店本館(もりおか啄木・賢治青春館)

構造は煉瓦造2階建(一部地下1階)、建物面積264.61m2、正面から見て左右非対象の建物で、屋根はマンサード型を基本とし、正面左側は棟を直交させて飾り棟をのせ、ドーマー窓を飾り、天然スレート板及び銅板で葺かれています。建物の荒削りな隅石や入口・窓のアーチなどの石材は市内川目産の花崗岩が使用されています。外観は重厚感のあるロマネスク・リヴァイヴァル様式、内部は直線的で平明かつ簡潔なゼツェッシオン式の影響がみられ、19世紀末の欧州での建築運動をいち早く反映させたものとして、我が国の近代建築史上重要な建造物と言えます。

という説明があります。この建物は国重要文化財に指定され、現在は「もりおか啄木・賢治青春館」として利用されています。

ここで、『盛岡啄木手帳』という一冊の本(文庫サイズより一回り大きめ)を購入。
石川啄木が盛岡について書いた日記、書簡、エッセイなどの文献を集めた資料的価値の高い一冊です。

紺屋町番屋

消防番屋として建てられたもので、消防施設の変遷を知る貴重な建物です。

肴町


肴町というネーミングの街にふさわしい「たぬき」を発見。

盛岡八幡宮


境内、社殿とも立派で広大な敷地に鎮座。

盛岡八幡宮の歴史

盛岡八幡宮の創建は康平5年(1062)に前九年合戦の時、源頼義が戦勝祈願した事が始まりとされています。当初は鳩森八幡宮と称し日戸氏が崇敬していましたが、南部氏が拠点を移し、盛岡城を築く際、鎮守社として再建しました。延宝8年(1680)には青森から南部氏の崇敬社であった櫛引八幡を盛岡城下である現在地に遷座させ「新八幡」と称しました。

明治維新になると盛岡城が廃城となり、城内にあった鳩森八幡宮が櫛引八幡と合祀する形で遷座し、さらに明治22年(1889)に白山神社を合祀しました。現在の社殿は平成9年に造営された比較的新しいものですが、境内には文化9年(1812)に藤田善兵衛秀彭と善蔵情有が造った青銅灯篭(盛岡指定文化財)や神明社、笠森稲荷神社、岩手護国神社などがあり、歴史を感じる事が出来ます。又、盛岡八幡宮にはチャグチャグ馬コや流鏑馬などの神事が受け継がれており盛岡総鎮守として広く信仰の対象となっています。



盛岡総鎮守の八幡さまです。災厄除けにバーチャル参拝をどうぞ。

広大な境内、狛犬も立派です。

狛犬


社殿から参道を振り返ってみると、見晴らしも良く、清々しい光景です。

高層建築全盛の時代が訪れる前は盛岡市内を見晴らすことが出来る場所でもあったでしょう。

岩手護国神社

八幡様のとなりには護国神社が鎮座。

さらに数分の距離には住吉神社も。

住吉神社

ご神木の欅

御神木のケヤキが見事です。

木漏れ日と風が心地よい境内を後にして、さらに歩きます。

中津川に掛かる橋の風情と刻まれた歴史に感動しつつ、

盛岡が生んだ偉大な国際人、「武士道」の著者でもあり、女性教育とその発展にも大きく貢献した「新渡戸稲造」先生の胸像を拝見。思わず手を合わせておりました。

新渡戸稲造

5,000円札のお姿とはちょっと雰囲気が違いますが、東京女子大学初代学長となり設立に尽力し、国際連盟事務次長をはじめとする要職を歴任。「西洋の文明を日本へ、日本の文化を西洋へ」という彼の願いを象徴した、「われ太平洋橋の橋とならん」という言葉は有名です。

「北緯40度の文化的脈動」は新渡戸稲造、石川啄木、宮沢賢治、金田一京助と盛岡という町の人材輩出力、育成パワーにもあると思いますが、いかがでしょう。

武士道と修養

武士道と修養

逆境を越えてゆく者へ

逆境を越えてゆく者へ

武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

武士道 (PHP文庫)

武士道 (PHP文庫)

中津川と岩手山

美しき岩手山を盛岡市内から望みます。

石川啄木の岩手山を詠んだ名句三題。
  • ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
  • 岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる虫を何と聴くらむ
  • 神無月 岩手の山の初雪の 眉に迫りし朝を思ひぬ

原敬

新聞記者などを経て1918(大正7)年に首相となり、歴代の士族出身の首相に代わる、日本初の平民宰相として国民に歓迎された原敬も盛岡出身。
おだやかな良い表情の銅像です。

岩手県公会堂

この建物を設計したのは佐藤功一博士。早稲田大学大隈講堂や日比谷公会堂・市政会館、津田塾大学、鳥取県旧米子市庁舎(現:山陰歴史館)などを手がけ、早稲田大学に建築科を設置した立役者です。

櫻山神社

櫻山神社の歴史

桜山神社の創建は寛延2年(1749)に当時の藩主利視が初代南部信直の功績を称え社殿を建立したのが始まりとされています。当初は盛岡城の淡路丸にあった事から淡路丸大明神と称していましたが、文化9年(1812)に神社付近にあった桜の木にちなみ桜山神社に改名しています。明治維新後、盛岡城が廃城となり桜山神社は妙泉寺山に遷座し、戦後になって現在地(藩政時代には八幡神社が鎮座)に再び遷座しました。

現在は初代信直の他、藩祖:光行、二代:利直、十一代:利敬の4人の藩主が祀られ、例祭や裸祭りなどが行われています。又、本殿背後には大きな奇岩が鎮座し、案内板によると「盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。 桜山神社社務所」

とあります。

名勝「烏帽子岩」

岩手日報社前、風に揺れる柳

盛岡城石垣

見事な石垣と周辺の光景を最後に盛岡駅へ向かいます。




まだまだ見るべきところ、訪ねたい場所はたくさんありますが、また来年、必ず。そう心に誓った旅でした。

しかし大事なことを忘れていました。新幹線に乗ってから気付いた。「しまったぁ、冷麺食べるの、忘れたぁ〜」と叫んでも後の祭り(苦笑)。

本日はこの辺で。