「まほろば」とは
「大和は国のまほろば」。
「まほろば」という言葉は「真秀+らま」の転訛で、景観が本当に美しい、住みやすい素晴らしい場所という意味に用いられてきました。
山々に囲まれ、古事記、日本書紀の時代から「国のまほろば」と評された奈良大和路。今回から大和路を中心に、錦秋の奈良を歩いた三日間13万8,000歩越えの記録を三回に分けてお届けします。
古事記収録 日本武尊 野煩野にて詠んだ歌
まずは古事記に収められている日本武尊(ヤマトタケル)が「野煩野(のぼの)」(現在の三重県鈴鹿市)で亡くなる直前に、故郷を偲んで詠んだ歌、文字をじっくり眺め、声に出して味わってみます。
原文 | 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 |
訓読 | やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるはし |
かな | やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし |
鑑賞のポイント
故郷=大和を離れ、東征の長い旅路から戻る最中に、故郷を目前としながら病に倒れ、その重さを自覚したヤマトタケルノミコトがこの歌に望郷の念を詠みこんだと解釈できます。
いくえにも重なる青々とした垣根のような山々、その山に囲まれたうるわしい大和の国を思い起こすヤマトタケルノミコトの思いが声に出して読むことでより深く理解できるような気がします。
この歌が詠まれてから1,900年の時を超え、夜明け前。
「春日山から飛火野辺り」を望み、JR奈良駅越しに一枚。
東京のように林立する高層建築によって、景観が遮られていないからでしょう。いつも奈良の空は高く、美しい。
それではヤマトタケルからはじまり、万葉集(奈良時代成立)、古今和歌集(平安時代成立)、新古今和歌集(鎌倉時代成立)、連綿と歌人たちが詠み、いまもなお放ち続ける光芒を感じながら、秋の大和路を歩いてみましょう。
菅原道真(所載歌集:古今和歌集/百人一首24)
詞書:朱雀院の奈良におはしましたりける時に、手向山にて詠みける
このたびは ぬさもとりあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに
鑑賞のポイント
朱雀院こと宇多上皇が帝位を退いたあと、それまで重用していた菅原道真をはじめ、多くの歌人たちも随行させ、大和地方への大旅行を実施します。その時に詠まれた歌です。
当時の旅行では幣(ぬさ)=木綿や錦の切れ端で作られた捧げものを道々の道祖神に捧げて、旅の無事を祈りました。
峠の語源も「たむけ」から出た言葉で、仏教伝来以前から行われていた自然に対する畏敬の念を神様に幣(ぬさ)を手向けるというところからきています。
紅葉を錦織に見立てた「紅葉の錦」という表現も間接的に着物の錦織を浮かび上がるように連想させ、幣(ぬさ)、錦、紅葉(モミジ)を知的で華麗な言葉の連想でつないだ「二句切れ、見立て」という技巧が駆使されています。
「小倉百人一首」にも採られているこの和歌。山全体の紅葉を幣(ぬさ)に見立て、旅の神様と向かい合う壮大なスケールで詠まれています。
御幸のお供とはいえ、一臣下の詠むスケールではないように感じますが、この歌からは王者の風格、感覚、そして菅公の生真面目さが同時に見て取れます。
菅原道真絶頂期から太宰府左遷
それもそのはず、このとき道真公54歳、藤原摂関政治全盛期にあって、臣下として望むべき地位の最高峰である右大臣まで上り詰める前年のことだったのです。
詩人、そして優秀な学者として穏やかに人生の幕を閉じることが出来れば良かったのでしょうが、政界に進出し、朱雀院に重用されたばかりに、この歌が詠まれたわずか三年後、藤原家からの嫉妬、他氏排斥の陰謀から大宰府左遷の憂き目に遭います。
菅原道真一家は離れ離れとなり、無実の罪を晴らす術もなく、配所で淋しく59年の生涯を終えます。
没後宮廷では策謀の主である藤原時平一族を相次いで葬り去り、宮中に雷を落とした日本史上屈指の怨霊として怖れられます。後の世で天神様として尊崇を受ける菅原道真公が「人間時代」に味わった栄華、その極みがこの歌にあります。
石ノ森章太郎「日本の歴史 第九巻 延喜の治と菅原道真の怨霊」
事の顛末、人間ドラマ、時代背景などに興味があれば、↑の石ノ森章太郎先生の「萬画(MANGA)」で描かれた日本の歴史をぜひ読んでみてください。
老若男女を問わずおススメの傑作です。名立たる歴史研究家たちと偉大な漫画家の手による協演、活字と漫画の麗しきコラボレーション、「本当に素晴らしい」その一言に尽きます、この作品は「日本の宝」だと私は思っています。
春日山原始林
春日山原始林は、1,100年以上前に狩猟と伐採が禁止されて以来、春日大社の聖域として守られてきました。現在は国の特別天然記念物に指定されています。
また、自然に対する原始的な信仰が発生して以来、日本人の伝統的な自然観と深く結びついて、今日まで伝えられてきた景観であることから、世界自然遺産ではなく文化遺産の一要素として指定されています。
有名な朝日観音、夕日観音、首切り地蔵をはじめ数多くの石仏、常緑樹の堂々たる木立、文字通り錦織りなす紅葉、馬酔木をはじめ1,000種類以上の植物が自生する森の呼吸をたっぷり味わうハイキングコースとしてもおススメの全長9.2kmの遊歩道です。
寂蓮法師(所載歌集:新古今和歌集491/小倉百人一首87)
村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に
霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
鑑賞のポイント
まず「村雨」とは小西甚一著基本古語辞典(大修館書店)の語釈では
にわかに降って間もなくやむ雨。驟雨(しゅうう)。
とあります。
「真木」とは、ベネッセ古語辞典によると、『りっぱな木。杉、檜などをいう』。
また小西甚一先生の基本古語辞典には『「ま」は接頭語。檜、杉、松、槇などの総称』
とあります。
にわか雨の露もまだ乾かない葉の上の露から、深い静寂の中、谷間から山全体を包み込むように広がる霧と視点を移動させていき、景色も広がっていく動きのある表現。
この歌の命は誰が何と言ってもやはり「霧立ちのぼる」でしょう。秋から冬へ、この何ともいえぬ寂寥感と肌寒さがひたひたと迫ってきます。
色彩豊かな美しい秋の夕暮れではなく、奥深い杉木立の巨木が立ち並ぶ山林、常緑樹の暗緑色にグレーや白の濃淡をしみじみと詠みこんだ渋い、渋すぎる叙景歌です。
日本文化史を彩る屈指の天才歌人、スーパースター藤原定家のいとこ、寂蓮法師。
秋の夕暮を好んで詠んだ、新古今時代の代表的歌人が表現した独特の静寂感に触発され、春日大社前でこんな一枚を撮ってみました。「本歌撮り」でございます(苦笑)。
法相宗大本山興福寺公式ウェブサイト
http://www.kohfukuji.com/
文字通り由緒正しき歴史のあるお寺です。しかもその歴史は日本史上でも屈指の隆盛と災禍を繰り返した激動そのものといえるでしょう。公式サイトでじっくり確認してみましょう。
興福寺、激動の歴史
創建から中世までは南都六宗のひとつ法相宗の本山として、仏教教義の研究を志す学問僧を集める一種の大学であり、国家の手厚い保護を受けつつ研究機関の役割を果たしていました。
平安時代に入ると「王法と仏法は車の両輪」、摂関家として絶大な権力と財力を誇った藤原北家の氏寺として、大和国一国を支配権さえ掌握する一大荘園領主に成長した時代もありました。
藤原氏の繁栄とともに寺領を拡大して、堂塔伽藍が百数十棟、僧侶4,000人。「南都北嶺」と呼ばれ多くの僧兵を抱え、武力も蓄えたことが結果的に仇となります。
平氏の台頭により、治承四年(1180)平重衡の焼き討ちを受け、東大寺、春日大社とともに、堂塔伽藍や仏像などその大半を失います。「平家物語」にあまりにもリアルに描かれたあの有名な残酷絵巻が物語る歴史です。
1185年に壇ノ浦の戦いで平家が破れ、鎌倉時代に設立された武家政権によってふたたび庇護を受け、復興します。
能・狂言などの学術や芸能、運慶に始まる慶派彫刻などの芸術分野、また豆腐や味噌や清酒などの食文化などにも大きな影響を与えますが、織田信長の徹底した政教分離政策以後、豊臣秀吉による文禄4年(1595)の太閤検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においても、政治権力からは遠ざけられますが、経済的基盤は維持されることになったのです。
それでも災禍は繰り返されます。享保年間の大火災、明治政府による神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺はほとんど廃寺といえる状態まで追い込まれます。
しかし明治政府による過度の廃仏毀釈運動による弊害への反省から、政策が変更され、寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し、現在では新たな興福寺としてその歴史を刻み続けています。
ということで今回はここまで。次回も奈良大和路を巡る旅をお届けします。
本日のBGM
さだまさし「まほろば」
1979年アルバム「夢供養」から。この曲がきっかけで奈良への興味が倍加し、
奈良・大和路 「まほろば」さだまさし
奈良思い出の三冊
和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、堀辰雄「大和路・信濃路」を読み耽った高校時代を思い出します。
和辻哲郎「古寺巡礼」
「BOOKS」データベースより引用
法華寺十一面観音や、薬師寺吉祥天女、百済観音、法隆寺金堂壁画など、仏教美術の至宝を紹介し、多くの読者を魅了し続ける永遠の名著『古寺巡礼』。
亀井勝一郎「大和古寺風物詩」
1300年の昔、新しく渡来した信仰をめぐる飛鳥・白鳳の昏迷と苦悩と法悦に満ちた祈りから、やがて天平の光まどかなる開花にいたるまで、三時代にわたる仏教文化の跡をたずねる著者の、大和への旅、斑鳩の里の遍歴の折々に書かれた随想集。傷ついた自我再生の願いをこめた祈りの書として、日本古代の歴史、宗教、美術の道標として、また趣味の旅行記として広く愛読される名著である。
追記(2019年6月3日)「夫婦写真散歩のススメ/うるわしの奈良へ行く」
奈良三部作残りの2エントリーは長谷寺と東大寺について歩いて撮ったものです。神代の時代にさかのぼり、日本人の美意識の原点をたどり、そしてその変遷にも思いをめぐらせながら、6年ぶりに改稿してみました。ぜひこちらもご覧ください。
目次:本記事の振り返り