夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

翠雨の山寺(宝珠山立石寺)

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初夏、色鮮やかな青葉をよりつややかに見せる雨を言い表す日本語に「翠雨」「若葉雨」「緑雨」「青時雨」という言葉=雨の名前があります。

風や雨、空、雲、さまざまな自然現象に祈りを込めて、名前を付ける…そんな美しい日本語を育んできた先人たちの繊細な感性ってほんとうに素晴らしい。

島国日本の春夏秋冬=四季がある風土のなか、日本古来の伝統文化、人々の暮らしを「農業」が支えつづけてきました。だからこそ、自然に対する畏敬の念を抱き、自然とともに生き、日本人はさまざまな言葉を生み、育んできたのです。

それでは農耕民族としての長い長い歴史があるのだと改めて強く感じた旅の記憶から…。

今回は夏に降る雨の名前、文字通り「翠雨(すいう)」のなか、7月中旬、山形市にある立石寺(りっしゃくじ)=通称「山寺」を歩いた記録をお届けします。

7月中旬ですから、俳聖松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」にも書かれ、かつて芭蕉が門人の河合曽良とこの地を訪れた時期とほぼ同時期にあたります。

おくのほそ道(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

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山寺駅

宮城県仙台市青葉区の仙台駅から山形県山形市の羽前千歳駅を結ぶJR仙山線にあるこの駅。秋には車窓から見える紅葉が美しい路線です。

私たちが到着すると雨も止み、駅の構内には「一陣の雨」にぬれた擬宝珠(ぎぼうし)がまさに花開かんとしていました。

擬宝珠(ぎぼうし)

紫陽花(あじさい)

雨に濡れ、紫陽花も生き生きとしています。

駅を出るとすぐにこんな光景に出合います。

山寺ホテル

立谷川

対面石

慈覚大師円仁が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司馨三郎とこの大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられ、円仁との対話によって狩人たちが狩りをやめたことを喜んだ動物たちが磐司に感謝して踊ったという伝説があります。

道案内

山寺


宝珠山立石寺は貞観2年(860)清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開いた、天台宗のお山です。このお寺は52万坪に及ぶ広大な敷地を有し、この地方の宗派を越え、広く信仰を集めているとのことです。まず正面登山口から階段を上がると見えてくるのが国指定重要文化財の根元中堂です。

根本中堂


延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・五間四面の建物です。ブナ材を使った建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がしっかりと保存されています。堂内には、慈覚大師円仁作と伝える木造薬師如来坐像が安置され、伝教大師最澄が比叡山に灯した明かりを立石寺に分けたものがあります。千数百年のあいだ、途切れることなく燈されてきた不滅の法灯を拝することができます。戦国時代織田信長によって焼き打ちにあった延暦寺を再建したときには逆に立石寺からそのともし火を分けたといいます。

清和天皇御宝塔

奥に見える宝塔は、山寺を勅願寺とした清和天皇の供養塔で、立石寺のなかでも最も古い石塔です。

芭蕉句碑

閑さや巌にしみ入蝉の聲
元禄2年(1689)「おくのほそ道」をたどり、太陽暦でいうと現在の7月13日に山寺を訪れた松尾芭蕉の有名な句です。門人たちが嘉永6年(1853)にたてた古い句碑があります。説明板とともにご覧ください。

建てられてから159年という時間が経過していますので、さすがに読みにくいのですが、望遠レンズで引き寄せてみました。

松尾芭蕉と河合曽良

蝉論争

ご存知の方も多いとは思いますが、ここで、かつて文壇を騒がせた蝉論争について、少々解説を。

松尾芭蕉が立石寺で詠んだ「閑さや巌にしみ入蝉の聲」の「蝉」が、どんな蝉なのか、単数かそれとも複数かなどについて多くの議論がありました。昭和の初期に、歌人で精神科医の斎藤茂吉(1882〜1953)と、夏目漱石門下で芭蕉研究家の小宮豊隆(1884〜1966)との間で激しい論戦が繰り広げられました。

議論の発端は1926年、歌人の斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の9月号に書いた「童馬山房漫筆」に発表したことから始まります。

1927年、岩波書店の岩波茂雄氏は、この件について議論すべく、神田にある小料理屋「末花」にて一席を設け、斎藤茂吉をはじめ安倍能成、小宮豊隆、中勘助、河野与一、茅野蕭々、野上豊一郎といった文人を集めます。

茂吉はジィージィーと大きな声で鳴くアブラゼミであると主張し、小宮はチィーチィーと小さく鳴くニイニイゼミであると主張します。山形県出身の斎藤茂吉は、山寺のことだけに一歩も譲ることができずアブラゼミで押し通しました。

ならば、これらのセミの活動時期を調べ、この論戦に決着をつけようということになり、実際に山寺に入って現地調査が行われました。その結果、芭蕉が山寺を訪れた7月13日(新暦=太陽歴。旧暦では5月27日)ごろ鳴き出しているのはニイニイゼミで、山寺界隈ではこのころまだアブラゼミは鳴かないという結果を得て、斎藤茂吉が敗れた形で蝉論争は終結したという話です。

今回私たちが訪れた7月中旬では蝉の鳴き声は聞くことができず、残念ながら蝉論争の結論を確認することはできませんでした。

日枝神社

慈覚大師円仁が立石寺一山の守護神として比叡山延暦寺から山王権現を勧請して祭ったものです。

鐘楼堂

大晦日、NHK紅白歌合戦の華やかなステージがフィナーレを迎え、番組終了後暗闇と静寂のなか始まる「ゆく年くる年」に登場する除夜の鐘で放映されたことも多い有名な鐘楼堂です。

山門

ここで拝観料を納め、入山します。高低差160メートル、千十五段の石段を上りますので、かなりしっかり整備されているとはいえ、靴は滑りにくいトレッキングシューズなどで歩かれることをおススメします。一つ一つの石段を登ることによって、欲望や穢れを消滅させ、明るく正しく生きようと古の人々が昇った1,015段です。慌てず、騒がず、こころ静かに歩を進めましょう。

仏像と登山道

文字通り偏りなく老若男女、多くの入山者で混雑していましたが、驚くほど多くの外国人とかなりご高齢の方ともすれ違い、小さなお子さんも坂道に不平を言う子も少なく、新緑のなかゆっくり歩きます。

石塔、仏像


こんなところにまで、と思うほど数多くの石仏に感嘆の声も上がります。

これぞまさに宗派を超えたこのお寺が育んできた千数百年の祈りの歴史でしょう。


空也塔

弥陀洞




岩に刻み込まれているのは岩卒塔婆です。長い長い歴史と祈りの深さに敬服。

せみ塚


歩を進め、やがて見えてくるのが仁王門です。

仁王門(阿吽像)

納経堂と開山堂

百丈岩の頂に建つ納経堂は経文を安置する堂として山内で最も古い建物だそうです。開山堂は慈覚大師円仁の廟所。



納経堂

胎内堂

山内支院と名残の菖蒲

仁王門から奥の院へ続く参道には観明院、性相院、金乗院、中性院等数多くの院が点在しています。見どころの多い場所なので、ゆっくり回ります。

五大堂

正徳4年(1714年)に再建された舞台造りの御堂です。慈覚大師が五大明王を安置し仏法の隆盛と天下泰平を祈った道場で、五大堂は山寺随一の展望台として多くの参拝客はここを目指します。

五大堂からの眺望


JR仙山線、山寺駅が眼下に見えます。

サントリーの缶コーヒーBOSS、そのCMロケ地としても有名な場所です。

奇岩の数々

国宝三重小塔




初夏の参拝ですから適度な水分補給とマイナスイオンを全身で浴びて、汗もサラサラに、体内の毒素が出切ったような気がしました。

撫で仏「おびんずるさま}

長寿、病気平癒、ぼけ封じにご利益があるという仏像をしっかり撫てで、下山します。


すべりやすいかと思いきや、歩きやすい参道です。しかし油断は禁物。
人生も登山も上りより「下りをどう降りるか」が重要なのであります。
それでは皆さん、ここからゆっくりバーチャル下山をお楽しみください。




降りるとすっかり雨もあがり、体中から毒素が抜けきったような爽快感に包まれ、立葵をメモ。

立葵(たちあおい)


山寺駅へ戻る道も敢えて遠回り。そこで出合った凛として野に咲くアザミを。

アザミ


振り返ると五大堂が。高低差160メートルを実感します。

上り下りも写真を撮り、石仏や案内板を読みながら、のんびり歩いた今回はデトックス散歩となりました。それではまた。

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本日のBGM

西村由紀江「空へと続く道」


優しさの意味

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