夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

国土安穏寺・炎天寺(東京都足立区)宇都宮釣天井事件の真実を探り、小林一茶ゆかりの寺を訪ねる旧日光街道歴史散歩

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歴史を学ぶ目的とは?

前回江戸城(皇居東御苑)散歩をご紹介したことで、頭の中は現在の日本、そして東京の基礎となった江戸幕府開闢から三代将軍徳川家光の治世までの歴史への興味・関心がよみがえり、あれやこれや書籍を引っ張り出してきては読むことにかなり時間を割いております。

高校時代の恩師から教えられた言葉、「歴史を学ぶ目的とは何ぞや、それはいまを生きるためである」を思い出しながら…。

江戸幕府大事典

江戸幕府大事典

その学びの過程で、そういえばと、かつて早春散歩で歩いた徳川家ゆかりのお寺さん巡りのことを思い出し、今日はそのなかから東京都足立区島根、六月に点在する寺社巡りの記録をご紹介します。

旧日光街道歴史散歩

旧日光街道を北に進むと、足立区には島根(しまね)、六月(ろくがつ)、花畑(はなはた)といった地名があります。東武スカイツリー線と改名した東武電車で出掛けると梅島、西新井駅、竹ノ塚などが最寄駅です。

東武スカイツリー線堀切駅

この日は東武スカイツリー線堀切駅を起点に、北へ向かいました。

昭和を代表するテレビドラマのひとつTBS「3年B組金八先生」の舞台としても有名で、出演者の集合場所でもあった堀切駅。

たまたま自動改札機と券売機が同時に故障するというたいへん珍しいトラブルに遭遇。駅員さんはトラブル解決中だったため、珍しいこんな切符を渡されました。昭和の香りがして、ちょっとほっこりした気分に。

梅島駅(旧島根村)

梅島駅を降り、旧日光街道を歩きます。江戸時代、日光東照宮へのお詣りに歴代将軍も通った道。

日光東照宮 隠された真実―三人の天才が演出した絢爛たる謎 日本史の旅 (祥伝社黄金文庫)

日光東照宮 隠された真実―三人の天才が演出した絢爛たる謎 日本史の旅 (祥伝社黄金文庫)

旧島根村桐田家

立派な民家の前にこんな説明板があり、

旧嶋根村の旧家前にある「松」。見事に手入れが行き届いたそれはそれは立派な松でございます。

口をぽっかり開けて見惚れたあと、しばらく歩くとこんな石碑に遭遇。

将軍家御成道石碑

国土安穏寺

国土安穏寺仁王門


ここは国土安穏寺。新編武蔵風土記稿によると、「日蓮宗、下総國葛飾郡中山村法華経寺末、長久山と號す」と記載されています。

室町時代、応永17年(1410年)、日通聖人による開山の古刹です。江戸時代には二代将軍徳川秀忠・三代将軍徳川家光がこの地を訪れたときの御膳所となった由緒あるお寺で、徳川家祈願所および位牌安置所でした。そのため葵紋の使用を許され、堂々とした構えを見せる朱塗りの仁王門や屋根瓦など、あちこちに葵のご紋を見ることができます。

国土安穏寺旧本堂鬼瓦

国土安穏寺由緒(足立区教育委員会)

※写真はクリックするとオリジナルサイズでもご覧いただけます。

このなかに記載されている有名な「宇都宮釣天井事件」。のちに講談や歌舞伎の題材にも取り上げられた謎多きこの事件、実際はどうだったのでしょう。このお寺の上人がどう関わったか、真偽のほどは不明です。

宇都宮釣天井事件の真実

現在までに分かっている史実をもとに解説しますと、元和8年(1622年)徳川家康の腹心中の腹心、老中本多正信の長男、下野国宇都宮藩主で、江戸幕府年寄、本多正純が居城としていた宇都宮城に釣天井を仕掛けて、二代将軍徳川秀忠の暗殺を図ろうとしたなどの嫌疑を掛けられます。

結果、本多家は改易、幕閣として権力もあり、重要な地位を占めていた本多正純が流罪となった事件を「宇都宮釣天井事件」といいます。

元和8年、徳川家康の七回忌に徳川秀忠が日光東照宮を参拝した後、宇都宮城に一泊する予定であったため、本多正純は城の普請や御成り御殿の造営を行います。4月16日に秀忠が日光へ赴くと、家康の長女で奥平家(美濃国加納)に嫁いだ姉の加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴があり、秀忠はその内容の真偽を確かめるのは後日とし、4月19日「御台所が病気である」との知らせが来たとして、予定を変更して宇都宮城を通過して壬生城に宿泊し、21日に江戸城へ帰還したと伝えられています。

ところが本多正純謀反の証拠は何も無く、徳川秀忠も宇都宮城に不審点が無い事を、元和8年(1622年)4月19日に井上正就に行なわせた調査で確認します。

しかし、本多正純は次々とさまざまな嫌疑を掛けられ、失意のうちに江戸を追われますが、実のところ真相は本多正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、加納御前の恨みによるものとも言われています。

嫉妬が引き起こした宇都宮釣天井事件以降の本多家バッシングと江戸幕府初期の権力闘争

加納御前は本多正純が宇都宮に栄転したのに伴って、当時、格下と評価されていた下総古河への転封を命じられた大久保忠昌の祖母であり、しかも加納御前の娘は、本多正信・正純親子の陰謀で改易させられた大久保忠隣の嫡子大久保忠常の正室でした。また、徳川秀忠自身も父家康の代から幕閣の中で影響力を大きく持ち、自らの意に沿わない本多正純を疎ましく思っていたという説もあります。

真偽のほどはさておき、このとき二代将軍徳川秀忠は本多正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取ったという記録が残っています。通常このような場合、諸大名を江戸城に集めて申渡すのが慣例でした。

その説明を聞かされた当時の小倉藩藩主細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく」という理由であったと父の細川忠興に書き送っていることからも、どうやら真実は徳川家康=大権現に親友とまで言わしめた最重要幕閣だった本多家へのさまざまな嫉妬が引き起こした権力闘争のすえの事件であったといえるでしょう。

国土安穏寺境内

寺号は当初「長久山妙覚寺」と称していましたが、寛永元年(1624年)に現寺号の「天下長久山国土安穏寺」を賜り、改称しています。寺宝として、日蓮聖人の断簡、将軍家が使った膳椀一式、将軍家光・慶喜や加藤清正の書軸などを所蔵。境内には将軍家光お手植えの松などもあり、将軍家からの崇敬が厚かったことを物語っています。

日蓮上人像


小説 日蓮〈上〉

小説 日蓮〈上〉

国土安穏寺本堂

三大将軍徳川家光お手植えの松

島根歌舞伎発祥の地

嶋根歌舞伎発祥地でもある国土安穏寺境内にはなかなかチャーミングな石像もあり、

歴史的な保存樹木も多く、歴史好きには魅力的なお寺です。

その国土安穏寺を出て、続いて春日造といってもいいような荘厳な構えを見せる立派な神社、鷲(わし)神社を参拝し、

鷲神社

鷲神社案内版

正岡子規も美しい田園風景が広がる景勝地として有名だったこの地を訪れ、句会を開いたようで、発句を詠んだと言われています。
発句(ほっく)とは第一句目の長句(五七五)のことで、季語や発句が独立性を保つため句中で切れる働きをする語(字)=切れ字を必須とします。発句は客人が担当することが多く、挨拶の心を込めます。

鷲神社歴史解説

小林一茶ゆかりの寺「炎天寺」

小林一茶ゆかりのお寺、その名も「炎天寺」を目指します。

炎天寺


このときは春まだ浅き、歴史散歩。参道でこんなチャーミングな梅の花が出迎えてくれました。

炎天寺の歴史


由緒にもある源頼義、八幡太郎義家父子が奥州征伐へ向かう途中、この地で炎天続きの旧暦六月野武士との激しい戦いに苦戦。
この戦いの月、六月がこの地の地名にもなっています。

小林一茶句碑、史跡

またここは小林一茶ゆかりの寺として有名で

小林一茶は、俳句の友人宅を訪問する際、六月村の炎天寺を訪れたといわれ、

「やせ蛙負けるな一茶是にあり」や

「蝉鳴くや六月村の炎天寺」の句を残しています。

小林一茶―時代をよむ俳諧師 (日本史リブレット人)

小林一茶―時代をよむ俳諧師 (日本史リブレット人)

一茶まつり


一茶まつりは、俳句を楽しみながら小林一茶をしのび、子どもたちの健全育成と教育・文化の向上を目的として、昭和37年から毎年11月23日に行われています。

当日は東武スカイツリー線、竹ノ塚駅からお寺までの賑やかな一茶行列に続き、境内では、小林一茶が詠んだ「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」にちなみ、カエルに扮した2人による名物の大蛙とやせ蛙の「奉納蛙相撲」が行われます。

炎天寺境内では野点、お琴、おでん、かん酒の接待があり、俳句一色の賑やかなお祭が催され、終日賑わっている一大イベントです。 

また子供たちに俳句の素晴らしさを知ってもらおうと「全国小中学生俳句大会」が行なわれることでも有名で、海外からの作品も含め、全国小中学校の生徒から投稿された数十万点の中から選ばれた秀句の表彰式が行われます。

福蛙

気になるところを撫でて、ご利益を。

それではバーチャル撫で撫でをどうぞ!

足立区六月、島根を歩いた寺社巡り、このあと西新井大師を目指したのですが、本日はこの辺で。

追記:2019年6月4日

松尾芭蕉&足立区散歩関連記事をご紹介します。

本記事で紹介した小林一茶といえば、思い出すのは松尾芭蕉。奥の細道に出発する際に有名な句を残した史跡が足立区にあります。ぜひご覧ください。

松尾芭蕉「奥の細道」史跡と句碑を撮った写真散歩の記録もあわせてどうぞ。


本日のBGM

西村由紀江「明日を信じて」


Beautiful Morning

Beautiful Morning

今日の名言

「超訳ニーチェの言葉」

超訳 ニーチェの言葉

超訳 ニーチェの言葉

PART2も発売されましたが、平成の大ベストセラー「超訳ニーチェの言葉」より引用
フリードリッヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」より白取春彦訳

「喜び方がまだ足りない」

もっと喜ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、うんと喜ぼう。喜ぶことは気持ちいいし、体の免疫力だって上がる。
恥ずかしがらず、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。笑おう。にこにこしよう。素直な気持ちになって、子供のように喜ぼう。
喜べば、くだらないことを忘れることができる。他人への嫌悪や憎しみも薄くなっていく。周囲の人々も嬉しくなるほど喜ぼう。
喜ぼう。この人生。もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう。

超訳ニーチェの言葉II

超訳ニーチェの言葉II

目次:本日の記事を振り返ります