前回に引き続き、江戸・東京随一の古刹「金龍山浅草寺」寺域を歩きます。
浅草寺ご本尊示現の地「駒形堂」
浅草寺のご本尊は隅田川から示現され…、という縁起は前回も詳述しましたが、まずはご本尊示現の地、現在の駒形橋近くに立つ「駒形堂」からご紹介してまいりましょう。
寛永三名妓、高尾太夫の名句と「伊達騒動」の真実
「君はいま駒形あたりほととぎす」
これは吉原の花魁、高尾太夫が仙台藩主・伊達綱宗におくったと世俗に伝わった句です。
高尾太夫とは吉原のなかで最も有名な花魁で、その名にふさわしい遊女が現れると代々襲名された名前です。吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれています。吉原三浦屋に伝わる大名跡でした。
世に名高い「伊達騒動」を題材にした読本や芝居で伝わった高尾太夫と伊達綱宗公の有名なエピソードとは、陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意=身請けに従わなかったために、高尾太夫が三叉の船中で惨殺されたというものです。
後の世では俗説、作り話だといわれていますが、実は高尾太夫の身請け話やつるし斬りの話に関する真偽のほどはいまもって不明といった方が良いようです。
この句に触発されたのでしょうか?歌川広重は「名所江戸百景」のなかで、駒形堂とホトトギスを斬新な構図で描いています。
浅草寺駒形堂(浅草寺縁起)
『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が江戸浦(現隅田川)にて漁撈中、1躰の仏像を感得した。郷司土師中知(はじの なかとも)はこれを拝して、聖観世音菩薩さまのご尊像と知り、自ら出家、屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。
駒形堂は、観音さまが上陸された、浅草寺の草創ゆかりの地に建つお堂で、本尊は馬頭観世音菩薩。別名「こまんどう」とも呼ばれる。毎月19日にお開扉され、参拝できる。午前10時より法楽があり、4月19日は大祭。
はじめは川に面して東向きに建てられたが、たびたび焼失の憂き目にあった。寛保2年(1742)の再建から、川を背にして西向きに建てられるようになった。現在のお堂は平成15年(2003)11月に建立されたもので、境内は日ごろ、地元町会の方々の手で整備されている。
水の都・江戸の町にあって、大川(隅田川)を船で渡り、この浅草の地に上陸するとき、現在の駒形橋近くには船着き場があり、賑わっておりました。
まずは駒形堂でご本尊を拝み、それから観音堂に向かったり、奥州道中へ向かうというコースが江戸時代は一般的であったようです。その生き生きとした姿は現在大英博物館所有の「江戸風俗図鑑」にも描かれています。
浅草寺鎮護堂
浅草寺の本坊にあたる「伝法院」は通常非公開なので、その鎮守である「鎮護堂」をご紹介します。
通称伝法院通りを西へ歩くと右手にまず伝法院の閉ざされた通用門、その門扉がみえてきます。
さらに歩を進めると鎮護堂がみえてきます。
浅草寺鎮護堂公式ウェブページ
http://www.senso-ji.jp/guide/chingodo.html
ここは通称「お狸さま」と呼ばれています。
「お狸さま」江戸時代末期、幕末の狸塚・狸穴に関する伝承
大江戸八百八町には当時、狸塚・狸穴といった地名が数多く存在していました。そのことからもうかがえるように狸の棲家が各地に存在していたのです。
江戸城無血接収のあと、彰義隊が上野に立てこもり、徹底抗戦の構えを見せ、荒れていたころ、上野の山に棲んでいた狸が浅草奥山に逃げてきて棲みつき、境内各所でいたずらをして寺僧を悩ませていました。
ある日、時の住職・唯我韶舜(しょうしゅん)僧正の夢枕に狸が立って、自分たちを保護してくれたら、伝法院を火災から守りましょうと言ったので、明治16年(1883)鎮護大使者として祀ったことがはじまりだといいます。
火防・盗難にご利益があり、商売繁盛を祈る人も多く、特に落語家や歌舞伎役者からの信仰が篤いことで知られています。
また鎮護堂にはさまざまなお地蔵さまもあり、
伝法院にある小堀遠州作庭と伝わる日本庭園もほんの少しだけ見ることができます。
寺門静軒『江戸繁盛記』に描かれた浅草寺の繁栄
天保三年(1832)寺門静軒が記した『江戸繁盛記』によると「都下香火の地、浅草寺を以て第一となす(中略)人の賽詣すること一刻の間も絶へざるなり」と浅草寺繁栄の様子を伝えています。
また江戸時代の半ばころから明治初年までに奉納された「大絵馬」を含む二百余枚の絵馬の多くには見事な歴史画が描かれていました。
浅草寺は多くの人がその画を鑑賞できる美術館的な役割も果たし、市井の話題をさらったといいます。
浅草猿若町「江戸三座」
また浅草猿若町に江戸三座(中村座・市村座・森田座)と呼ばれた歌舞伎の殿堂である芝居小屋が移ってきてからというもの、浅草の街はさらに繁栄し、浅草寺への参詣、境内での大道芸などの娯楽、仲見世での買い物と江戸詰の大名から、ありとあらゆる階層の人々が集まります。
そんななか「江戸っ子」文化が生まれ、のちにいわゆる下町情緒を形成することになるのです。
明治維新と浅草寺(神仏分離令、廃仏毀釈運動の影響)
江戸幕府が滅び、明治新政府が発足すると、政府は祭政一致の立場をとり、明治元年(1868)神仏分離令が出されます。
神道による国民教化と仏教の排斥を目的としたこの政令によって寺・仏像・仏具・経典などが破壊されたり、焼かれたりという廃仏毀釈運動が起こります。
浅草寺にも当然この嵐は押し寄せます。
浅草寺のご本尊を感得した檜前浜成・竹成兄弟と土師中知を祀るところから、三社様の名で親しまれていた「三社権現社」では江戸時代まで神前で浅草寺の僧侶が読経していましたし、かつて境内にあった浅草東照宮に祀られていた徳川家康の像もありました。
三社祭りも「弥生の花浅草祭り」という江戸歌舞伎の題目になるほどで、天保三年(1832)四代目坂東三津五郎、四代目中村歌右衛門によって初演されています。
千数百年続いた神仏習合の歴史のなかで愛され、ありとあらゆる人を受け入れ、親しまれた三社様の名前をこの明治新政府の出した神仏分離令によって「浅草神社」と改称させられ、境内東側の「随身門」も名称を「二天門」に変えざるを得ませんでした。
明治初年秘仏拝観秘話
明治初年に発令された神仏分離令の下、その年の秋に入ったころに起きた事件をご紹介しましょう。
暮れ七ツ(午後四時)頃、烏帽子・直垂を付けて、駕籠に乗った明治新政府の太政官が20人近い従者を引き連れ、浅草寺に現れます。
いきなり観音堂に上がり、「秘仏を臨検するのだッ」と叫んで、参詣者を追い出し、四方の大扉を密閉し、大蝋燭を灯して、内陣へと進みます。
高さ八尺もある須弥壇に足をかけ、役僧の渡した鍵でお厨子の海老錠を捻じあけようとしたのです。
大化元年(645)勝海(しょうかい)上人が観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定め、この伝法の掟によって、隅田川で檜前兄弟の網に掛かった一寸八分の仏像は千数百年以上も誰一人、ご本尊の姿を拝見したものはないとされていました。源頼朝や徳川家康でさえ、拝んだことがないといわれています。
お前立の像は観音像は平安時代に慈覚大師円仁が彫ったもので、それは23年毎に開帳されています。
江戸時代に入ると徳川将軍家のお成りに際し、何度も開帳されていますが、秘仏については「拝見すれば目がつぶれる」という言い伝えもありました。
これを明治新政府の役人が「秘仏臨検役」と称して、敬虔の態度は微塵もみせず、スリの懐でも検めるような手つきで観音様のお厨子に手を掛けようとしました。
当時の住職、惟雅僧正をはじめ役僧も、恐怖と憤懣とで、顔が蒼ざめていたといいます。
太政官の従者が彼らを隔てて、臨検役の太政官のそばへ寄せ付けません。
そして観音様(秘仏)のお前立像=開帳仏がおさめられているお厨子に太政官が手を掛けたその時です。臨検役はもんどりうって内陣の畳の上に転落し、悶絶したのです。
一同唖然。これを実見した人は多く、役人はまるで投げ出されたようであったといいます。
さしもの秘仏臨検はこの騒ぎで中止となり、太政官吏の一行20名は、ほうほうのていで退出したといいます。
明治政府はお前立の開帳仏に手を掛けようとしただけで、役人を投げ出すほどの威力があったという「事実」は明治政府を怖気づかせ、本尊仏の威力はもっと凄いのではないかと、千年の秘仏に怖れかしこみ秘仏臨検を諦めることにしました。
ところが一生涯秘仏のご本尊を拝むことはできないと諦めていた惟雅僧正はこの騒動に刺激されたのか、いやしくも浅草寺の住職として、本尊仏の有無を明治政府の居丈高な役人に聞かれて即答出来ず、「さあ、それは伝法の掟なので…」などと言い訳をしていたのではあまりに気が利かないし、情けないと感じたようです。
ならば眼玉などつぶれてもかまわない、つぶれる前にひと目ご本尊を拝んでみせるぞ、と穏やかならざるも、殊勝な望みをおこし、密かに役僧の何人かにその思いを漏らします。
誰しも伝法の掟を破り、視力を失うかもしれないと怖気づくなか、当時奥山の念仏堂をあずかっていた僧侶と、後々に伝えるための証左として、目付の筆頭を務めた役人が立ち会うことになりました。
仏罰の恐ろしさにめげず、壮挙か、あるいは暴挙かと悩んだ末に挑んだ僧俗が目にしたものは閻浮檀金(えんぶだごん)、おそらく白金ではなかろうかと推測される金仏様で上品に赫奕たる光を放つ一寸八分の観世音菩薩像だったといいます。
うやうやしく観世音を眺めたあと、ご本尊を布で巻き納めて、立像のお腹の中へ戻しますが、その際巻き方がやや膨れてもとの通り納まりかねた部分の布片を切り取ります。
切り取った布は自分たちのものにしてよいと観音様のお告げがあったような気がしたとのことで、その布片は現に当事者の家に秘蔵されているそうです。
これが現在まで伝わる秘仏拝観記です。
それでは境内の散策に戻ることにしましょう。旧名:三社権現社(三社様)の境内へ。
三社様(浅草神社)
前回もご紹介しましたが、由緒は公式サイトでご確認ください。
http://www.asakusajinja.jp/asakusajinja/yuisyo.html
平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀ったものであろうと推定されます。
奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。
境内にはさまざまな句碑、石碑があります。時間の許す限り、ゆっくり穏やかな気持ちで見て回られることをおススメします。
三社様境内句碑・石碑コレクション
浅草神社(三社様)の紋
被官稲荷神社
安政五年(1858)町火消十番組の組頭・新門辰五郎の妻が重病に罹りますが、京都の伏見稲荷に祈願したところ回復しました。そこでご分身を勧請したのがこの稲荷社です。官位を授かる=被官ということで出世祈願に訪れる人が多いようです。
前後編と二回に分けてご紹介した浅草寺大特集いかがでしたでしょうか?
女優・沢村貞子さんのエッセイ「私の浅草」に収録された「新装版に寄せて」のなかで作家・森まゆみさんは浅草を中心に形成された下町文化・情緒とは何かを見事に表現しています。それを最後に引用してご紹介します。
往年の名女優にして、優れたエッセイを数多く残した沢村貞子さんの作品はどれも素晴らしいもので、下町文化・情緒とは何か、そして私たち日本人が忘れてはいけないこととは何かを優しく教えてくれます。沢村貞子著『私の浅草』収録/「新装版に寄せて」文:森まゆみ(作家)
稼ぐに追いつく貧乏なし。
お天道様が見ているよ。
困っている人がいたら助け合わなくちゃね。
人様には迷惑かけないように。
がんばって正直に働いていればきっといいことがある。
下町の哲学といえばこれくらい単純。
それでじゅうぶんやっていけた。
『私の浅草』に出てくる人はみなそうである。
「どうか今年も元気に暮らせますように」。
神仏へのお願いごとはこれくらいがちょうどいい。
そんな気がします。
それではまた。
本日のBGM
「Waterfall (Jon Schmidt Original) 」/ThePianoGuys
目次:本日の記事を振り返ります