江戸文化発祥の地、浅草。
前回、前々回と浅草寺寺域をゆっくり歩き、ご紹介しました。
浅草名所(などころ)七福神めぐり
今回は江戸時代末期に始まった浅草名所(などころ)七福神めぐりとまいりましょう。
浅草名所七福神公式サイト
http://www.asakusa7.jp/index.html
関東大震災以後と大東亜戦争の戦時中、さらに戦後と何度も中断し、一時は廃れていた浅草の七福神巡りも昭和52年(1977)に復活します。
他の七福神とは違い、現在九社寺、十カ所をめぐる「浅草名所七福神めぐり」。
迷わず、寄り道せず、最短距離を歩いたとしても、全行程8kmを超えます。
浅草名所七福神、九社寺・十カ所をどうまわるか?
境内散策、ご朱印や御札の授与や参拝時間を入れずに考えても、健脚でも三時間は掛かると見た方が良いでしょう。
また九社寺、十カ所ともなると、ゆっくり境内散策や休憩の時間を入れると、その倍=六時間はじっくり時間を掛けて歩く価値のあるコースでもあります。
なぜ九社寺になったのか、さまざまな事情があったようですが、公式には「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来したという説明がなされています。
ここ夫婦写真散歩でおススメするのは「ゆっくり歩いて、観てまわる」が基本ですが、どうしても時間短縮をという方にはレンタサイクルを利用するのもひとつの手です。
しかし注意点もございます。レンタサイクルをはじめて利用する方や浅草の地理に詳しくない方にとって、安全に、かつ他の参詣客の迷惑にならない場所に駐輪スペースを捜すことがかなり面倒です。
駐輪禁止場所も多々ありますし、境内自転車乗り入れ禁止の場所も多く、さらに交通事情や昨今の混雑を考えると、地元にお住まいの方や土地勘もあり、周辺事情に詳しい方以外にはあまりおススメはしません。
台東区循環バス「めぐりん」
そこでおすすめなのが、名所旧跡をめぐるバスの利用です。お正月には「はとバス」のツアーも企画されますが、行程の自由度を重視する方には台東区を巡回するバス「めぐりん」や東京都交通局の通称「都バス」の利用もご検討ください。
http://www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/kotsu/megurin/
冬の散歩は防寒対策だけでなく、おろそかにしがちな水分補給もお忘れなく。
浅草名所七福神受付時間/AM9:00〜PM4:00
各社寺の受付時間は午前九時から午後四時まで。
これをまず頭に入れて、ゆっくり境内を散策したいという健脚の方は、スタート時間を早めにしてください。
初詣に浅草名所七福神めぐりの場合、混雑も計算にいれておかないと時間切れということにもなります。
スタート・ゴールをどこにするか、またどう巡るかなど、計画の段階から楽しんでみましょう。
田原町駅を起点に浅草名所七福神めぐりと立ち寄ってみたい観光スポット
今回は東京メトロ銀座線「田原町駅」を起点に歩いてみました。
田原町駅を出ると、すぐに東京本願寺(浄土真宗大谷派・東本願寺)の参道が見えてきます。
堂々たる本堂が見事で、開放的な境内です。
浅草名所七福神巡りの前に、ちょっと寄ってみましょう。
東京本願寺(浅草本願寺/東本願寺)
天正19年(1591)徳川家康は顕如の長男・教如に現在の神田淡路町二丁目付近の土地を与え、江戸御坊光端寺を創建させます。
これが京都の輪番所として江戸に教線を広める拠点となり、東京本願寺の端緒となります。
その後、江戸城の拡張により、神田明神下に移りますが、明暦の大火以後、浅草の地に移転してきた歴史を持ちます。
本堂にご挨拶してから、
今回の浅草名所(などころ)七福神めぐりをはじめることとしました。
かっぱ橋道具街
東京本願寺を出て、最近は世界各地からお客さんを集める「かっぱ橋道具街」通りを歩きます。
菊屋橋交差点に立つと、有名なモニュメント?が見えてきます。
これです。
矢先稲荷神社(福禄寿)
- 住所:台東区松が谷2-14-1
都バス・菊屋橋停留所にて下車徒歩3分の距離にあります。
我が家は三が日、松の内の混雑を避け、三連休に歩きましたが、午前九時すぎにはかなりの参拝客の姿が。
まずは大鳥居をくぐります。
寛永19年(1642)11月23日、江戸幕府三代将軍徳川家光が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立しました。その歴史を物語る掲示板もございます。
旧浅草三十三間堂跡
三十三間堂は元禄11年(1698)の大火後に深川へ移転しましたが、稲荷大明神は当地に残り、三十三間堂(弓矢の練成道場)の由来から、矢先稲荷神社と称したといいます。
江戸時代の周辺地図もあり、往時を偲ぶこともできます。
鷲神社(寿老人)
- 台東区千束3-20-2(都バス・千束停留所下車)
かつては大鳥大明神社と呼ばれていた鷲神社。
榎本(宝井)其角の句に
「春をまつ ことのはじめや 酉の市」
とあるように陰暦11月酉の日に鷲神社で行われる祭礼に立つ市が「酉の市」です。
鷲(おおとり)神社御由緒
公式サイトからの引用で、ご紹介しますと、
鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社です。現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の例祭も現在は「酉の市(とりのいち)」として広く知られています。
社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました。
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。
後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となりました。
江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られていますが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日です。
大鳥居に飾られた大きな熊手が見事です。じっくりご覧ください。
夜も鮮やかにライトアップされていますので、別の機会に訪れてみるのも一興かと存じます。
樋口一葉「たけくらべ」で描かれた鷲神社のにぎわい
浅草鷲神社に開かれる酉の市は樋口一葉の「たけくらべ」に
此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき・・・
とあるのをはじめ、文学作品に表された酉の市も多く、広津柳浪「今戸心中」、久保田万太郎「三の酉」、沢村貞子「私の浅草」などなど枚挙にいとまがありません。
鷲神社酉の市を題材にした俳句三選
酉の市が冬の季語になる俳句にも
人並に押されてくるや酉の市 高浜虚子
一葉忌ある年酉にあたりけり 久保田万太郎
雑閙や熊手押あふ酉の市 正岡子規
など優れた句が数多くあります。
吉原神社(弁財天)
- 台東区千束3-20-2
吉原神社は台東区千束にある神社です。吉原神社は新吉原遊郭の四隅に祀られていた四稲荷社と地主神である玄徳稲荷社を合祀して明治5年(1872)に創建、昭和10年(1935)吉原弁財天を合祀したといいます。
ご朱印、ご利益グッズなどは吉原神社でお求めください。
吉原弁財天
ここで注意していただきたいのは、ここは吉原神社の一部といわれますが、同じ地番とはいえ、花園公園内に吉原弁財天はあります。
鳥居も立っていますし、祠もありますが、正式には神社ではなく、あくまでも遺構です。端正に整備されていますが、無人です。
吉原神社と吉原弁財天(遺構)は少し離れた場所の別区画にありますので、くれぐれもお間違いないようにお詣りください。
各種掲示版による解説が充実していますので、長い時間読み込んでいる方も多くお見かけします。
𠮷原神社の歴史解説
台東区教育委員会の掲示によると、
江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。(台東区教育委員会)
夜も参詣客がある弁財天、何ともいえない切なさ、儚さを感じますが、そんな中にも、風雅で、煌びやかな往時の輝きを感じさせる雰囲気があります。
この二カ所をめぐると、吉原仲之町通りを東へ歩いて、吉原大門交差点にある見返り柳の遺構を見に行きます。
見返り柳
樋口一葉の代表作ともいわれる「たけくらべ」の冒頭部分にも見返り柳は登場します。
台東区教育委員会の掲示によると廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯黒溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて…
アサヒ商店街、山谷地区の歴史と移り変わり
吉原大門からさらに東へと歩を進め、アサヒ会商店街へ。
東浅草二丁目交差点から、隅田川へと伸びる道沿いに商店街があります。
商店街とはいえ静かな佇まいで、現在は外国人バックパッカーが利用する格安料金で泊まれる宿も多く見掛けます。
実はこのあたり、江戸時代から明治中期にかけては高級別荘地でした。
また平賀源内の墓所がある総泉寺や松吟寺のお化け地蔵、以前ご紹介した謡曲「隅田川」で描かれた梅若伝説の妙亀塚や江戸六地蔵のひとつ、東禅寺の地蔵菩薩坐像、新吉原、三浦屋の大名跡・高尾太夫の墓所もある春慶院など数多くの寺がある「寺町」でもあります。
長いスパンで歴史を眺めると、江戸時代には隅田川を東に望む大名の高級別荘地であり、大火を経験した後に寺町が形成され、江戸後期から明治にかけては日光街道、奥州街道への道行を支える宿場町として木賃宿が増えます。
そして、明治末年の大火、関東大震災、東京大空襲によって明治・大正・昭和と三度も焼け野原となり、特に戦後は被災者のテント村が設営され、それがそのまま簡易宿に変化していきます。
さらに昭和・高度成長期には1960年代には労働需要の高まりに対応し、日本有数の人寄せ場として発展します。
ドヤ街から外国人旅行客・バックパッカー宿泊施設の街へ
簡易旅館(俗称:ドヤ)が増え、一世を風靡した漫画「あしたのジョー」に描かれた舞台となり、都市スラム化した「山谷」地区の南東部でもありました。
1980年代後半のバブル期には15,000人近い土木作業などに従事する日雇い労働者が集まる街でした。いまでも都市スラム化の印象をお持ちの方もおられることでしょう。ところがバブル崩壊から21世紀初頭にかけ、労働者の高齢化が一気に進み、高度成長期からバブル期を支えた簡易旅館の顧客も激減、大きな時代の変化にあわせ、その多くは廃業もしくはビジネス旅館に変わります。
さらに2002年のFIFAワールドカップ日韓大会の頃から増えた外国人観光客を積極的に受け入れる宿へと変わり、東京スカイツリー開業後はその勢いは急加速しています。
平成も26年目ともなると、長期化するデフレの影響もあり、休みを利用した都内に旅行やイベントに来る国内外の若者が簡易宿泊施設を利用するケースも多く見られるようになりました。
もはや1960年代の高度成長期から1980年代後半のバブル期と比較すると、まるで別世界のように治安が良くなっています。
安全な街になったこともあり、古い建造物等を撮影するアマチュアカメラマンで賑わっています。街の様相も、歩く人の姿も劇的に変化しています。
かつて岡林信康が歌った山谷ブルースの世界は遠い過去の記憶、さまざまな偏見や差別を助長した江戸時代の身分制度に関する歴史の誤読による偏狭な社会通念も、近い将来過去のものとして正しく相対化されていくことでしょう。そう期待しています。
東都はスクラップ&ビルドを繰り返す。どんな街の記憶も歴史の一部として相対化され冷静に語られていく。
そんな感慨と明日への希望を抱きながら東へ30分ほど歩くと隅田川が近づいてきます。
橋場不動尊(布袋尊)
- 台東区橋場2-14-19
天台宗寺院の不動院は、砂尾山橋場寺と号し、不動院は天平宝字四年(760)に創建、寂法相宗昇和尚が宝亀四年(774)に当寺住職となり開山したといいます。寛元年間(1243〜46)に砂尾長者が開基となり、天台宗に改めたといいます。浅草七福神の布袋尊が祀られています。
清廉度量、家庭円満の神様が祀られている橋場不動尊は、かつて明治の大火、関東大震災、第二次大戦の戦災でも、周辺を災禍から守った「火伏せの不動尊」として、多くの信仰を集めています。
祀られている布袋尊像は江戸時代から伝わるもので、肩に袋がなくお腹が袋代わりの形をしている珍しい姿で、古くから江戸庶民に尊信されています。
橋場不動院公式サイト
見事な出来栄えの公式サイトは一見の価値ありです。ぜひお出掛け前にその歴史をご確認ください。
布袋尊をお祀りしている不動院(橋場不動尊)は、天平宝字四年(760)奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟・寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。
当初は法相宗でしたが、長寛元年(1163)に時の住職教円(一説には長円)によって天台宗に宗派を改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となりましたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。周辺に別荘としての邸宅を構えていた三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信を集め、明治末年の大火、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍を免れたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されています。
現在の本堂は、弘化二年(1845)建立のもので、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素な佇まいを示しています。
石浜神社(寿老神)
- 荒川区南千住3-28
今戸神社(福禄寿)
- 台東区今戸1-5-22
今戸神社は、康平6年(1063)源頼義、義家父子が奥州征伐の折、京都の岩清水八幡宮を鎌倉鶴ヶ岡八幡宮と共に当地に八幡宮を勧請し創建、後三年の役の後祈願成就を感謝して再建、江戸時代に至っても今戸八幡宮と称して武家の尊崇が篤かったといいます。浅草七福神のひとつ福禄寿が祀られている他、下町八社巡りの一社です。
今戸神社公式サイト
今戸神社御由緒
創建は康平六年(1063)、時の奥州鎮守府将軍源頼義、義家父子が、安倍貞任、宗任討伐のみぎり、篤く祈願をかけて、京都の石清水八幡宮を鎌倉の鶴ケ岡と当浅草今之津(現在の今戸)とに勧請したのによる。その後、永保元年(1081)、義家は社殿を整備し、文治五年(1189)源頼義が奥州守護役の木戸太郎・伊達治郎の叛乱平定の折の必勝祈原による成功を深く感謝して建久元年(1190)、社殿の修復整備をはかり、また、文治五年(1189)藤原泰衡討伐にあたり当社に使いをたて、供物を献じあわせて神田を寄進し、建久年中(1190〜99)には、再度社殿の修復造営をなした。下って室町時代には、戦乱兵火のため一時の空白をみたが、寛永十三年(1636)将軍家光より官材を賜わり、舟越伊豫守、八木但馬守に命じて社殿と境内の造営に尽力。以来、江戸末期から明治におよぶまで水と花の名所にふさわしい神社として知られたが、その後、関東大震災、戦災の禍を経て、社殿とその周辺は昔日の姿を失ったが、その社運いよいよ増して今日に至っている。
とあります。
いまや婚活女子の絶大な人気を集める東都のパワースポット今戸神社。
「今戸焼き」「招き猫」の発祥の地ということでも有名です(諸説はありますが)。
待乳山聖天(毘沙門天)
- 台東区浅草7-4-1
待乳山聖天公式サイト
http://www.matsuchiyama.jp/
待乳山は真土山とも書きます。この寺は隅田川べりの小高い丘=待乳山にありますが、この丘は595年(推古天皇3年)9月に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられています。正式名称は待乳山本龍院。聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつです。
山号は待乳山。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音です。601年(推古天皇9年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられています。待乳山は江戸時代から明治、大正、昭和初期まで周囲が見渡せる丘=山であり、文人墨客が数多くこの地を訪れています。
過去記事エントリー「待乳山聖天」
海抜10mの丘に鬱蒼とした樹木に包まれた緑豊かな境内は驚くほど静かで、浅草寺、浅草神社周辺の喧騒から離れ、落ち着いた雰囲気にホッとします。例年1月に行われる「大根まつり」でも知られ、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られています。
かつては江戸一番の賑わいがこの地にありました。それは江戸時代後期、江戸三座=中村座・市村座・森田座(または河原崎座)が待乳山の目と鼻の先である猿若町に移転したことによります。
浅草猿若町(現在の浅草七丁目付近)では江戸歌舞伎を代表する三座が軒を連ねたことで役者や作者の貸し借りが容易になり、芝居の演目が充実します。
また千代田のご城下=江戸城下で常に頭を悩まされていた火災類焼による被害も大川(隅田川)に近いこの町ではきわめて稀で、相次ぐ修理や建て直しによる莫大な損失も激減し、収益も大幅に向上しました。
浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地に足を運ぶようになった結果、江戸歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになります。浅草界隈はこうして江戸随一の娯楽の場へと発展していったのです。
歌川広重「真乳山山谷堀夜景」
遠景の小高い丘が待乳山です。堀は現在暗渠となっている山谷堀、堀に架かる橋は今戸橋です。この絵は大川(隅田川)対岸の向島、長命寺あたりで描かれたものです。絵の女性はつぶし島田で、右褄をとっています。
芸者と推測される女性に右褄をとらせているのはどうやら広重の描き癖のようです。提灯には「のぞき紋」という遊びが隠されています。この浮世絵は「ヒロシゲコード」が数多く埋め込まれている謎多き作品としても有名です。
待乳山を静かに参拝するなら、初夏がおススメです。
浅草神社(三社様):恵比寿
本日のBGM「時代」
徳永英明ライブバージョン
中島みゆきライブバージョン
圧巻です、ゆっくりと歌の力を感じ取ってください。
<2019年9月24日改稿>