夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

金龍山浅草寺(聖観音宗総本山)

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東京都内最古の歴史を持つ浅草寺。今回は国内最大級の年間参拝客数を誇り、別名「浅草観音」とも呼ばれる浅草寺をご紹介します。

観光都市「浅草」は東京スカイツリーの開業にあわせ進められた周辺地域再開発によって、さらに国内外の観光客を集め、経済効果を中心に注目が集まることでさらなる投資を引き出すという好循環を生み、黄金時代を迎えています。

東京スカイツリーの経済効果と萬人の浅草

2012年5月に開業した東京スカイツリータウン・ソラマチへの来場者数が当初の予想を遥かに超え、事業計画も四半期毎に上方修正を繰り返し、開業一周年で5,080万人を突破しています。

こうした経済効果は

  1. 東京都内の主要ホテル19の客室稼働率が13カ月連続で前年同月を上回る
  2. はとバスが運行するスカイツリーの展望台入場券付きツアーの年間平均乗車率は90%を超える
  3. 少子高齢化で人口減少が叫ばれる中、周辺地域への人口流入も増え、5%増


をはじめ、交通・レジャー・観光を中心に首都経済への波及効果も日を追うごとに広がってきています。

地元に暮らす人間にしてみると、それまで人通りもなく、寂しかった場所に忽然と「おとぎの国」が現れ、次々と人材や新しいアイディアと資本を引き寄せ、ドンドン活気が溢れてきているというのが正直な実感です。

国内外からの多くの観光客が浅草観光をセットにし、健脚なら十分徒歩圏内ということもあり、新たに生まれた人の流れに合わせ、個性的なお店も増えています。

老舗で元々集客力のあった飲食店には行列が出来る時間帯が増え、数年前には見られなかった「○分待ち」などの看板や行列整理の人の声も活気に拍車を掛けています。もちろん優勝劣敗という資本主義の原則=競争原理には支配されますが。

川端康成、谷崎潤一郎が語った昭和初期の浅草

かつて川端康成が「浅草は萬人の浅草である。ここは人間の市場である。生きてゐる東京の見本である。歓楽の百貨店である」と昭和五年に書いています。

谷崎潤一郎も「浅草は何十何百種類の要素が激しく流動し発酵しつつあることが特徴で、その蠢動を軽蔑するものは民衆を軽蔑するものである」と言っています。もちろん、こうした文豪の描写で表現された昭和初期の浅草と世相も異なる現代を単純比較するわけにはいきません。

ところが平成の再開発によって清潔で瀟洒な建物が増えても、いまもなお、ありとあらゆる年齢層、外見も異なる人が雑踏し、さまざまな国籍の人々を集め、聖と俗、さらに清濁あわせて呑み込むように存在しつづける街、現代の浅草。

そう考えると川端や谷崎が観察し、文章で表現した「浅草」という街の空気や様子は変貌を遂げ続ける現代にも当てはまり、不思議と符合しているような気がします。

徹底取材:聖観音宗総本山、金龍山浅草寺(通称:浅草観音)のすべて

それでは浅草のみならず東都の文化的象徴として、存在する「浅草寺」の草創と沿革についてみていくことにしましょう。

浅草寺縁起


浅草寺公式サイトから引用しますと、

時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司・土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。


大化元年(645)、勝海(しょうかい)上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。


広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794〜864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。


鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。


かくして都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3,000万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。

古事記・日本書紀(記紀)以前の浅草寺

考古学の進歩によって、古事記や日本書紀の神話に関する記述も考古学的に実証されることもあって、あながち夢物語や絵空事ではないことが増えました。

この浅草寺縁起は『記紀』の成立よりもさらに古い話になります。

土師中知が自宅に設けた草堂は十人の草刈童子によって藜で作られたと伝わっています。当時の浅草は漁村と農村の二重構造で地域開発が進められ、観音信仰を郷土全体で共有する形で受け入れ、秩序が整っていたようです。

ちなみに草創期の伝承で紹介した檜前兄弟と土師中知の三人を祀ったのが「三社権現社」、現在の三社様こと「浅草神社」です。

平安時代から鎌倉時代の浅草寺

時代が進み平安時代初期になると、浅草寺中興開山として崇められている慈覚大師円仁が秘仏を模して開帳仏=前立像を作り、あわせて観音像の版木を彫ったことからもこの頃は延暦寺系の天台宗に属していたと考えられています。

天慶五年(942)武蔵国の国守に任ぜられた平公雅が祈願のおかげと七堂伽藍を造営し、八幡太郎源義家や源義朝の参詣やさらに時代が進んで源頼朝の平家討伐祈願など武家の信仰を得て、寺勢は次第に発展していきます。

浅草および浅草寺が歴史文献に出てくるようになったのはいまのところ「吾妻鏡」の1181年の記述が初見と考えられています。

鎌倉の鶴岡八幡宮を建立する際、浅草から宮大工を招いたという記述です。

吾妻鏡には1192年後白河法皇の四十九日法要のため、鎌倉まで浅草寺の僧が出仕したという記述も残っています。

正応二年(1289)御深草院二条の自伝「とわずがたり」にも浅草寺の霊名が遠く京都のみならず四隣に届いていたことを表していますし、室町時代には足利尊氏が寺領を安堵し、足利持氏は経蔵を建立しています。

その後、浅草寺は何度も火災に遭い、1378年、1462年、1493年、1535年、1572年と浅草寺の略年表に「炎上」の文字が見られます。

室町時代~江戸時代の浅草寺

それでも室町時代の小田原城主北条氏綱によって天文八年(1539)堂塔が再建され、家臣で江戸城代家老遠山直景の子を別当職にあてます。この人こそ浅草寺中興第一世忠豪上人で、衆徒12カ寺、寺僧22カ寺を制定、浅草寺運営の基礎、財政基盤を築き堅固なものにします。

天正18年(1590)戦国時代末期に徳川家康が江戸入府したあとは天海僧正の進言で浅草寺は徳川家の祈願寺となり、寺領五百石が与えられ、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに出陣する際には戦勝祈願も行われました。
そしてこの天下分け目の戦いを前に観音堂で武運を祈念し、その結果勝利を得たことで天下に広くその霊験が行き渡ったのです。

明和八年(1771)刊行の『坂東霊場記』には「天正年中より堂社僧院湧く如く起り、坂東無双の巨藍となる」と隆昌のさまを伝えています。

江戸時代の儒学者・林羅山によると「男女の群集すること京の清水より多く見えけり」と著書「丙辰紀行」のなかで述べていますが、徳川家の帰依によって大寺に発展した浅草寺の殷賑振りが分かります。

とはいえ寛永年間(1624〜44)には二度の大火に見舞われ、その都度再建されてきた浅草寺は焼失と再建を繰り返しながら寺勢を発展させてきたともいえます。文字通り波乱万丈の歴史です。

慶安二年(1649)は徳川家光によって堂塔伽藍がすべて再建された頃には、浅草の町も江戸随一の盛り場として、独立した浅草文化圏を形成し、唯一無二の存在になっていました。

しかし江戸幕府五代将軍徳川綱吉の治世下では当時の浅草寺別当忠運が綱吉に忌避されて罷免されるという大事件が起こります。このことで浅草寺は上野寛永寺の輪王寺門跡の支配するところとなり、それは明治時代まで続くこととなりました。

上野寛永寺の支配を受けるようになったことと、江戸幕府第八代将軍徳川吉宗による「享保の改革」によって、徳川幕府からの援助・助成が得られなくなったことで、浅草寺は堂塔伽藍の修繕、普請を自らの手で行うことになります。

超格差社会、士農工商という言葉に代表されるように住む場所や人々の衣服や髪型まで厳格な身分制度による規定が定着した江戸時代中期にあって、普請(工事)に必要な資金はありとあらゆる階層からの浄財で賄われてきたといいます。

このことで浅草寺はいっそう庶民信仰の霊場として親しまれるようになりました。

寺域内外の行楽地としての浅草は江戸の昔以前から人が絶えることはなかったといいますが、全国至るところからありとあらゆる階層の人が江戸に集まり、やがて定住し、東洋の島国に世界一の巨大都市が形成され、「江戸庶民」の熱狂的な観音信仰と観光・娯楽の場所として、浅草の街は浅草寺を中核にしてさらに発展していきます。

明和六年(1769)刊行の大田南畝が記した随筆『半日閑話』によると、この頃の浅草寺境内には楊枝店・水茶屋などが出店するだけでなく、大道芸人が参詣者の人気を博し、信仰の場所であると同時に巨大娯楽センターでもあったと書かれています。

特に観音堂西側の「奥山」と呼ばれるところでは小屋掛けの見世物や松井源水の曲独楽などの興行や講釈、居合抜、手妻と呼ばれた手品などが参詣人を熱狂させます。
享保の改革で浅草寺への助成を打ち切った八代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りに浅草寺に立ち寄り、境内で松井源水の独楽回しを見て、随喜したといいます。その後大奥に数回招き独楽回しの曲芸を公方様の台覧に供したと記録に残っています。
また境内の清掃を賦役として営業していた仲見世では「二十軒茶屋」と呼ばれた店子が湯茶の給仕に器量の良い美人の看板娘を競うようにして置いたこともあり、賑わいにも一層彩りを添えていたといいます。

文政三年と記録に残る浅草寺図には人々の往来も細かく描写され、賑わいを感じとることができます。

東都金龍山浅草寺図:文政三年(1820)

この絵が描かれたあとの天保年間には、江戸時代を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成し、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した官許の江戸三座(中村座・市村座・森田座)が浅草猿若町に移転し、いよいよ浅草は大衆娯楽の殿堂が立ち並ぶ、巨大なアミューズメント・ゾーンとして不夜城のごとく輝いていたといいます。その様子を文人墨客たちは競うように活写した作品を残していくことになるのです。

またこの絵に描かれた伽藍も昭和20年(1945)東京大空襲で焼失、当時国宝でもあった江戸幕府第三代将軍徳川家光建立の旧本堂をはじめとする堂塔伽藍は300年の歴史を閉じます。

国宝であった旧本堂と同形のものは昭和33年(1958)に再建されますが、1,380年以上にわたるこうした変遷の歴史を支え、発展してきたのは観音様のおかげ、御導きなのでしょう。現在金龍山浅草寺は聖観音宗の総本山となっています。

それでは2013年11月に新装された雷門の大提灯から仲見世を歩いてみましょう。

風雷神門(通称:雷門)

雷門は慶應元年(1865)に焼失して以来、明治・大正・昭和初期にかけて「名のあって実のないもの」の典型ともいわれていました。また風神と雷神が総門に立って共に寺域を護っているにも関わらず、雷門と呼ばれていることから「門の名で見りゃ風神は居候」と冷やかされることもあったといいます。

平成25年11月に新調された大提灯がある雷門は昭和35年(1960)松下幸之助氏個人の寄進により再建されたことはあまりにも有名です。

当時松下電器産業株式会社の社長であった松下幸之助氏が膝関節に突然強い痛みを覚え、さまざまな治療の甲斐なく苦しんでいたそうです。

それを聞いた浅草寺の清水谷恭順貫首がご本尊に祈ったところ、幸之助氏の痛みはひき、本復したといいます。その御礼として個人の寄進で雷門は95年ぶりに再建されたのです。

落慶式の当日に松下幸之助氏は「私に寄進させていただいたことをありがたく思います」と挨拶され、出席者に感動を与えたと伝わっています。

雷門と大提灯

総重量700㎏の大提灯です。高さは3m90cm、直径3m30㎝と堂々たる姿です。

大提灯は三社祭りの際にたたまれることもあります。たいへん珍しい姿です。

台風など災害級の強風が吹くときも稀にたたまれることもあるそうです。

なお風雷二神像は雷おこし常盤堂社長穂刈恒一氏の懇志を得て、修復されたものです。これによって風雷神門の結構が整うことになったのです。

平成の世にあって浅草の象徴でもある雷門が今日の姿にあるのは松下幸之助翁と穂刈恒一氏のおかげなのです。

仲見世

参道を挟んで80近い店が軒を並べる仲見世。東京スカイツリー開業後は人通りも夜まで絶えず、賑やかそのもの。

雨の日でもたくさんの傘の花が咲いています。

古くは参道の両側には天照大神宮、秋葉権現、妙見堂、金毘羅宮、鹿島明神など12の子院が立ち並んでいたと伝わっています。その門前を借りて、毎日掃除をするかわりに小屋掛けの商い店を出したことが仲見世のはじまりなのです。

浅草寺聖域

宝蔵門

仲見世が途切れるといよいよ「聖域」となりますが、その前に堂々とそびえるのが浅草寺の宝物をおさめる「宝蔵門」です。総高22.7m、幅21m、奥行8mの重層門は昭和39年の再建で、大谷重工業、ホテルニューオータニの創業者・大谷米太郎氏の寄進で再建されたことを知る人も少なくないことでしょう。

宝蔵門の裏には山形県村山市から奉納された長さ4.5m、幅1.5mの大草鞋が掲げられています。

常香爐

観音堂に上がる前に、立ち上る香煙を身体の痛む部分などに薫じて撫でてさすってみてください。

手水舎

高村光雲作の沙竭羅(さから)龍王像にはいつも見惚れます。

浅草寺観音堂(本堂)

冬期(10月〜3月)は朝6時半に開扉されますが、混雑していないときであれば、天井絵が見事なのでじっくり眺めてみてください。

東京大空襲で焼け落ちますが昭和33年(1958)によみがえり、平成の大修復を経て、現在があります。堂々たるその威容はスクラップ&ビルドを繰り返す現在の東京にあって、とても貴重な歴史的建造物です。



浅草寺境内西域

浅草寺の境内は日本全国各地のさまざまな神仏が祀られており、文字通り神仏習合、浅草には何でもあるという街の歴史のあらわれです。

迷子しるべ石

観音堂を正面にみて左側西域を歩いてみると、「迷子しるべ石」という珍しい石碑があります。

影向堂

慈覚大師円仁の生誕1200年を記念した影向堂では浅草寺のご朱印を受けることができます。

橋本薬師堂

江戸幕府三代将軍徳川家光によって再建された「方三間」のお堂を今に残す橋本薬師堂、

六角堂

その北に建つ六角堂は境内最古の建物で室町時代に建てられたものです。

淡島堂

女性の守り神で婦人病に霊験があるとされる和歌山・加太神社の俗称でもある淡島明神は元禄年間(1688〜1704)にこの地に勧請され、

毎年二月八日には「針供養」で賑やかとなります。

浅草寺境内西域鎮守社、石碑、露坐仏コレクション

聖観世音菩薩像:享保三年(1718)造立

阿弥陀如来坐像

西仏板碑解説

西仏板碑

一言不動尊堂


それでは願い事をひとつに絞ってしっかりバーチャル参拝をどうぞ。

めぐみ地蔵尊

出世地蔵尊

仏調尊勝陀羅尼碑

力石

金龍権現社・九頭龍権現社

宝篋印塔

三峰神社


これでもまだ網羅しておりません、供養塔を含めると、浅草寺境内は文字通り日本全国から信心が集まる場所といえるでしょう。

銭塚地蔵

さらに淡島堂の北には銭塚地蔵があります。


「お金に振り回されない人生を」と思い切り気合いを入れてお願いしてきました。
みなさまもバーチャル参拝をどうぞ。

カンカン地蔵

拝殿の脇には珍しい通称カンカン地蔵さんもいらっしゃいます。

お地蔵さまの石の粉をお財布になすりつけておくとお金が貯まるといわれています。

ここから本堂の裏手に回りますと、市川團十郎「暫」の像が見えてきます。

市川團十郎「暫」の像

見事の一言。九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」を演じている姿をじっくりご覧ください。


本堂裏手にもさまざまな供養塔、石碑、石像が並んでいます。参道の混雑とは対照的に静かに見て回ることが出来ます。

一葉観音像(唐銅造)

釘供養碑

浅草寺境内東域仏像、石碑、遺構コレクション

二尊仏

まずは二尊仏からご紹介しましょう。この観音・勢至二菩薩の金銅坐像は一般には「濡れ仏」の名で知られています。蓮台を含め4.5mの像高、基壇の組石は長さ12m、幅6mと江戸初期を代表する仏像です。

貞享四年(1687)現在の群馬県館林市に住んでいた高瀬善兵衛氏が願主となって建立されたものです。

日本橋の米問屋に奉公していた高瀬善兵衛は独力で主家への報恩と菩提を願って造立しますが、東京大空襲の猛火のなかにあって仏像の御身体は焼け爛れず尊容を維持していました。
ちなみに高瀬家からは外務官僚をのちに輩出し、昭和41年(1966)仏舎利をスリランカから拝受するために尽力したのは当時のスリランカ駐在大使の高瀬侍郎氏です。仏縁ですね。

久米平内堂

久米平内は江戸時代剣の道に優れたものの、多くの人を斬り殺したため、その罪を償うために日頃修めていた「仁王坐禅」の姿を石に刻ませ、人通りの多い当時の仁王門近くに埋めて、参詣客に踏みつけさせたといいます。
踏みつけが転じて「文付け」となり、のちに恋の仲立ち役の神様「平内さま」となって崇拝されたという経緯があります。

焼け公孫樹

東京大空襲の際、猛火に焼かれますが、旺盛な生命力で現在も生きています。

旧五重塔跡

旧仁王門跡


この二つの遺構は江戸後期に歌川広重が浮世絵で描いた風景で、現在とは異なる位置にあったことが分かります。

歌川広重「名所江戸百景」浅草金龍山


現在とは逆の位置に五重塔が見えますね。

弁天堂

関東三弁天としての霊名が高く、巳の日には弁天堂で法要が営まれます。小高い丘は弁天山と呼ばれています。

時の鐘

鐘楼の鐘は刻まれた銘によると元禄五年(1692)江戸幕府第五代将軍徳川綱吉の命によって改鋳されたもので、江戸時代の時の鐘のひとつでした。


松尾芭蕉の名句「花の雲 鐘は上野か浅草か」に詠まれたのはこの鐘のことです。

松尾芭蕉句碑


浅草寺境内東域、露坐仏、石碑コレクション

平和地蔵像

阿弥陀如来像

添田啞蝉坊の碑、解説

二天門

東域には2010年に大修復を終えた二天門があります。


本来は浅草「東照宮」の随身門で、切妻造り、八脚門です。
二天門の扁額は幕末から明治の歴史にその名を残す公卿・政治家、三条実美の書です。

日光東照宮と同時期に建てられた浅草東照宮は寛永19年(1642)に焼失したあとは再建を許されず、現在はこの随身門であった「二天門」と境内西域にある石橋だけが歴史の遺構を残すことになりました。

江戸時代は随身門と呼ばれていましたが、明治政府の神仏分離政策によって吹き荒れた廃仏毀釈の影響を受け、「二天門」と改称します。鎌倉鶴岡八幡宮の「経蔵」にあった「四天王」のうち二天を奉安しましたが、大東亜戦争の戦時下、修理先で焼失してしまいます。
現在の増長天・持国天の二天像は上野寛永寺にある江戸幕府第四代将軍徳川家綱の霊廟である巖有院から拝領したものだそうです。


二天門脇で冬に咲く不断桜は寿命も長く、可憐な花をつけ、参拝客を見守ってくれているようです。

浅草寺五重塔の歴史


浅草の文化的象徴でもある五重塔。塔の創建は天慶五年(942)平公雅といわれていますが、創建後いくたびか炎上し、江戸時代に入って慶安元年(1648)再建された塔は昭和20年の東京大空襲で焼失するまで、江戸庶民に深く親しまれていました。

歌川広重、歌川国芳による浮世絵で全国津々浦々、広くあまねく知られた存在であった五重塔は安政の大地震(1855)、関東大震災(1923)にも大きな破損もなく乗り越えてきましたが、東京大空襲の猛火でついに焼け落ちてしまうのです。

昭和48年(1972)に再建された「仏舎利」奉安の塔院は基壇内に霊牌殿・回向室・信徒休憩室・寺務所が設けられ、最上層の奉安室にはスリランカのイスルムニア王立寺院から奉戴した「聖仏舎利」が納められています。

ライトアップした姿は美しく、威厳もあります。


ここまでご紹介してきて、再生の象徴ともいえる浅草寺の歴史と遺構を何度も見て歩き、改めて東都最強のパワースポットであることを感じます。

観音堂(本堂)御参拝の際には「南無観世音菩薩」とお唱えすることを浅草寺では推奨しています。公式サイトからの引用を以下に記します。

慈悲の仏さま
浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま

観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。


特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで1,400年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われご加護なさってきました。


観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。


※ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えいたしましょう。

また年中行事は公式サイトでご確認ください。

浅草寺年中行事スケジュール

http://www.senso-ji.jp/

いかがでしたでしょうか?

伝法院や鎮護堂もご紹介しないままでは不十分で、江戸・東京文化の象徴として浅草の街ともに歩んできた浅草寺の歴史や遺構、建築物はまだまだ語り尽くせませんが、この記事エントリーは都度写真を加え、加筆しながら残したいと思っています。

長時間お付き合いいただきありがとうございます。

お付き合いいただいた方すべてに観音様のご慈悲とご加護がありますように。

それではまた。

本日のBGM「糸」

多くのミュージシャン・アーティストもカバーしている中島みゆきさん名曲中の名曲です。

中島みゆき「糸」植村花菜バージョン


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目次:本日の記事を振り返ります
<2019年9月23日改稿>