東京都庁、超高層ビルの林立、都内有数の歓楽街と巨大商圏を形成する「新宿」。
新宿山ノ手七福神めぐりの魅力
今回は新宿区内に七福神巡りが設定された「新宿山ノ手七福神」と新宿総鎮守「花園神社」を歩く写真散歩です。
新宿山ノ手七福神は歩く距離も約6kmと比較的短く、新宿御苑駅近くから神楽坂まで、大久保通り沿いに設定されています。
いまや日本各地に設定されている七福神巡りですが、お正月だけ盛り上がる七福神巡りが多いなか、新宿山ノ手七福神では、お正月に限らず年間を通じて、ご朱印・宝船・ご尊像、七福神専用の色紙が用意されています。
新宿山ノ手七福神公式ブログ
http://blog.shinjuku7fukujin.net/
ご参拝・御朱印受付時間:午前9時〜午後5時
厳嶋神社でのご朱印等の受付は正月7日迄。以降は西向天神社へ。ご開帳について
毘沙門天|鎮護山善国寺:1・5・9月の寅の日(5・9月は最初の寅の日のみ)。
大黒天|大乗山経王寺:1月1日〜7日と年6回の甲子の日のみ。
辨財天|厳嶋神社と恵比寿神|稲荷鬼王神社では、ご開帳はありません。
他、各寺社ごとに異なっておりますのでお問合わせください。ご朱印
各神社・仏閣にて、ご朱印がいただけます。ご朱印帳をお持ちでない方も特製色紙をご用意しております。
今回は新宿御苑に近い太宗寺からスタートし、神楽坂の毘沙門天・善国寺へと向かうコースをご紹介します。
地名の由来「新宿」と信濃高遠藩・内藤家の関わり
23区のなかでも歴史を伝える伝統のある地名をよく残してくれている新宿区。その「新宿」の由来から振り返ってみましょう。
慶長8年(1603)江戸開府の翌年に、江戸・日本橋を起点として五街道が定められました。東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道で、各街道にはそれぞれ一定数の宿が置かれ、宿は伝馬を提供する義務が課せられます。
甲州街道はお江戸日本橋から現在の山梨県甲府市に至る幹線道路で、甲府から中山道の下諏訪まで連絡していました。
しかし当初甲州街道は、日本橋から最初の宿場である高井戸までの距離が約16kmとあまりに遠く、往来が増えると共に、その中間地点に新しい宿場の建設を求める声が大きくなります。
当時日本橋と高井戸の中間地点に位置する広大な土地は信濃高遠藩の領主・内藤氏の拝領地でした。内藤家二代目当主・内藤清成は徳川家康の関東移封に先立ち、江戸に居城を構えるために伊賀組百人鉄砲隊を率いて、国府道(後の甲州街道)と鎌倉街道の交差点となっていた現在の新宿二丁目を中心として陣屋を敷き、警備にあたることになります。
徳川家康が江戸入城の後、長年の功績に対し、内藤氏が布陣していた場所をそのまま与えます。これは石高以上の処遇といわれ、内藤家の拝領地は実に広大で、その屋敷地が現在の新宿御苑となっています。
浅草安倍川町の名主・高松喜六を筆頭に同志四名が5,600両という現在の貨幣価値に直すと、少なく見積もっても18億円以上にも相当する巨額の金を上納することを条件に、日本橋と高井戸の中間でもあるこの一帯に新しい宿場町を開設することを幕府に願い出ます。
徒歩で移動する当時としては、日本橋から2里弱という距離は江戸市中の玄関口としても適当な場所でした。そこで青梅街道との分岐点でもある現在の新宿二丁目付近に宿場が設けられることとなります。
宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などが存在していましたが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地としたのです。
内藤氏が幕府に返上した屋敷地に置かれたことと、江戸市中への玄関口として造られた新しい宿の意味から「内藤新宿」と呼ばれ、これが現在の「新宿」の地名の起源です。
内藤新宿は宿場町として、江戸四宿(千住・品川・板橋)の一つとして賑わい、官許の遊里以外で私娼のいた場所=「岡場所」としても知られるようになります。
こうした歴史を確認してから、それでは新宿山ノ手七福神めぐり、スタートです。
新宿山ノ手七福神めぐり+新宿鎮座花園神社を歩く
浄土宗太宗寺(布袋尊):新宿区新宿2−9−2
新宿総鎮守花園神社:新宿区新宿5-17-3
http://www.hanazono-jinja.or.jp/mt/top/
学生時代、唐十郎さんが主催する状況劇場の赤テントが花園神社でしばしば公演を行っていて、李麗仙さんや四谷シモンさんの妖艶な演技に感動したことを思い出します。
花園神社の縁起、歴史は公式ホームページから引用します。
花園神社縁起
花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされています。
花園神社は寛永年代(1624〜1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近にありました。しかし、寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまったのです。
そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになりました。その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。
初めて史料に花園神社の名が登場するのは、享和3年(1803)のこと。大火に遭った社殿復興を願って内藤新宿町より奉納された額面に「花園社」と記されていました。「花園」という名称が正式なものになるのはずっと後代のことで、稲荷神社または三光院稲荷とも呼ばれ、さらに江戸時代には地名にちなんで四谷追分稲荷とも呼ばれていたようです。
三光院稲荷と呼ばれたのは、明治維新以前には神仏習合により神社と仏教寺院が同時に祀られることが多く、花園神社も真義真言宗豊山派愛染院の別院である三光院が合祀され、住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしだったためであるといわれています。
しかし、その三光院は明治元年 (1868)3月に維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏分離令を発布し、廃仏毀釈が進む中で花園神社と分離され、本尊は愛染院に納めて廃絶となりました。
明治に入ると、「村社稲荷神社」が正式名称とされました。これは神名帳を提出した際に、誤って花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしてしまったからだそうです。
しかし、江戸時代から当神社は「花園社」と呼ばれており、単に「稲荷神社」といえば総本山である伏見稲荷神社を指すのが一般的で紛らわしいことから、大正5年1月25日、当時の社掌・鳥居成功と氏子総代・坂田寅三郎ら13人が東京府知事に対し社号の改名願を提出しました。この社号改名願は同年2月26日に許可され、「花園稲荷神社」となったのです。
さらに昭和40年に、それまで末社だった大鳥神社を御社殿建替えと共に本社に合祀したことから、ようやく「花園神社」が正式名称となりました。
新宿総鎮守のひとつとも称される花園神社。
ひっきりなしに参詣客が拝殿へと向かう姿が見られました。
歴史を感じさせる狛犬をメモしてから、
稲荷鬼王神社(恵比寿神):新宿区歌舞伎町2-17-5
鬼というと一般的には悪いイメージを持つ方も多いでしょう。しかし古来「鬼」は神であり、力の象徴でした。「鬼は悪魔を払う」といわれ、すべての災禍を祓う力があると考えられていました。
鬼の王様という意味になる「鬼王神社」は地図でみると新宿のほぼ中央に位置します。旧大久保村の聖地とされていました。
西向天神社(弁財天):新宿区新宿6-21-1
日蓮宗春時山法善寺(寿老人):新宿区新宿6-20-16
建治年間(1275〜1278)頃のこと、身延山に居た日蓮上人の草庵に妙齢の美女が法話を聴きに訪れます。日蓮がその美女に尋ねると「七面山の天女」だといい、日蓮上人の法話で「悪道の苦しみから逃れることができました。未来永劫、身延山を護ります」と誓って姿を消したという逸話があります。
曹洞宗大久保山永福寺(福禄寿):新宿区新宿7-11-2
もとは大窪山と号したそうですが、大きな窪地であったことから大久保という名前の由来となったことからも納得の山号です。
新編武蔵風土記稿によると、開基の貴雲尊悦は慶長15年(1610)入寂、開山の桂屋瑞漱は万治2年(1659)入寂ということなので、それ以前の創建ではないかと推測されます。
厳嶋神社(抜弁天)/弁財天:新宿区余丁町8-5
厳嶋神社は古くから「抜弁天」という名で知られ、通りの名前「抜弁天通り」をはじめ、さまざまな商店の屋号や店名、病院の名前にまで使われています。
厳島神社の歴史と主祭神
応徳3年(1086)、鎮守府将軍・源義家(八幡太郎)が後三年の役(1083〜1087)で奥州平定に向かう途中ここに宿営しました。この地はこの地域で最も高い場所であり、かつては富士山もよく見えたようで、この時、義家も遠く富士山を望み、さらにその先、安芸に鎮座する厳島神社に戦勝を祈願したそうです。
その後八幡太郎義家は奥州平定を成し遂げ、その帰途、戦勝のお礼のためこの地に神社を建立し、厳嶋神社を勧請したと伝えられています。
江戸時代には稲荷神社もあり、徳川綱吉による生類憐れみの令により付近に野犬のための二万五千坪の犬小屋が設置されていました。
主祭神は市杵島姫命(仏教の弁財天と習合)です。
池の水が濁りなど無く見事に透き通っていて、往来の激しい通りの三角地ながらキレイに整えられた境内には心地よいパワーを感じます。
源義家がこの地に立ち寄り祈願して苦難を切り抜けたという伝説と、また境内参道が南北に通り抜けできることから「抜弁天」ともいわれ、江戸の六弁天に数えられます。
日蓮宗大乗山経王寺(大黒天):新宿区原町1-14
開運大黒天の赤い幟旗がはためく石垣にはさまれた階段を上がると、正面に本堂の扉が開かれ、厨子の中では大黒天を拝することができます。
この大黒天像は日蓮上人の高弟、日法の作といわれ、身延山久遠寺から12cmの木像を慶長三年(1598)にこのお寺の開山、日静が移したと伝えられています。
日蓮宗鎮護山善国寺(毘沙門天):新宿区神楽坂5-36
http://www.kagurazaka-bishamonten.com/
神楽坂毘沙門天として知られる善国寺。このお寺の毘沙門天像は文禄4年(1595)の創立以来祀られていて、多くの方から信仰され、開運厄除けの福運を日々授けて下さっているとのこと。
善国寺(毘沙門天)沿革
公式サイトの沿革によると
初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方である。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正十八(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となられた。ここに毘沙門天を奉安する、名刹・善國寺が誕生したのである。
徳川家の中で、法華経への信仰が厚いといえば、それは黄門様で有名な水戸光圀公である。光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文十(1670)年に焼失した当山を麹町に移転し、立派に再建されたのである。この縁由により、爾来当山は徳川ご本家、並びにご分家の三郷のうちの田安・一橋家の祈願所となったのである。
当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政四(1792)年の火事により、当、神楽坂へ移転してきた。今から約二百年前のことである。尚麹町の遺跡は、今の日本テレビ通り、麹町三丁目交差点の脇の歩道に建てられている黒御影の『善國寺谷跡』の石碑により。往時を偲ぶことができる。
毘沙門天とは?
毘沙門天とは、『広辞苑』によると「須弥山の中腹北方に住し、夜叉・羅刹を率いて北方世界を守護し、また財宝を守る神」とあります。多聞天と別称され、持国天、増長天、広目天と並ぶ四天王の一人であり、寅の年月日、時刻にこの世にあらわれたといいます。この地では寅毘沙ともよばれています。
寅年生まれの夫婦としてはしっかりお詣りしたい場所です。
本堂の両脇に配置されているのは狛犬ならぬ「狛虎」。江戸後期の作と伝えられる虎の石像は台座を含めると2mもあり、迫力を感じます。
善国寺の毘沙門天は正月、五月、九月の初寅の日に開帳されますので、公式サイトで確認してお出掛け下さい。
この日は日蓮上人が亡くなられた10月13日の翌日ということもあって、「おえしき」が催され、団体客など多くの参詣客でごった返しておりました。
ここで新宿山ノ手七福神巡りは終了です。
朝から始めた七福神巡りはゆっくり写真散歩をして、二時間半で回れるコースをたっぷり四時間半程度。
まだまだ日も高いので、散歩を続けます。
東京坂道散歩:神楽坂から神田川沿いを歩く
飯田橋と水道橋
台東区台東から佐竹商店街へ
本日のBGM
追記/江戸東京七福神めぐりリンク集
夫婦写真散歩アーカイブス(URL)が初詣プランニングの一助になれば幸甚です。
隅田川七福神めぐり
◆鐘ヶ淵から向島へ(+周辺グルメ情報)
◆向島から鐘ヶ淵へ
◆鐘ヶ淵散歩(隅田山多聞寺)
浅草名所七福神
下谷七福神+小野照崎神社
深川七福神
千寿(千住)七福神
谷中七福神めぐり
亀戸七福神めぐり
葛飾柴又七福神めぐり
東海七福神
◆品川神社
目次:本日の記事を振り返ります
- 新宿山ノ手七福神めぐりの魅力
- 新宿山ノ手七福神めぐり+新宿鎮座花園神社を歩く
- 東京坂道散歩:神楽坂から神田川沿いを歩く
- 追記/江戸東京七福神めぐりリンク集