夏が来る、その気配を街歩きのなかで見つけた花木に感じながら、
ガクアジサイ
タチアオイ
サボテンの花
リンドウ カンパニュラ
今回は江戸時代、徳川幕府直轄御米蔵の町であり、江戸経済の中心地でもあった蔵前から隅田川を挟んで向島あたりを散歩します。
蔵前橋通りと江戸通りが交差する蔵前一丁目から江戸通りを南へ歩き、
隅田川に架かる蔵前橋
最初の信号を左へ曲がると静かな鎮守の森が姿を現します。
第六天榊神社 拝殿
第六天榊神社は、日本武尊が、景行天皇40年(110)に創建したといいます。もとは第六天神社と称し、森田町(現蔵前3丁目)に鎮座していましたが、享保4年(1719)浅草不唱小名(柳橋1丁目)へ遷座しました。
幕末に吹き荒れた打ちこわしや上野戦争などの動乱を越え、明治新政府が発足。
「神道国教」化政策のなか発令された神仏分離令により廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。
第六天の魔王を祀ることから、これは神仏いずれとも紛らわしいという明治新政府の不勉強としか思えない理由で、社号を榊神社へと改称させられました。
そして関東大震災のあと、焦土からの復興が進んでいた昭和3年、現在の場所へ移転しました。
この場所はもともと明治八年(1875)に開館した官立の図書館『浅草文庫』があった場所です。
浅草文庫跡碑と掲示板
和漢洋の蔵書が13万冊前後所蔵されていたといわれていますが、明治14年に閉鎖。
蔵書は太政官文庫(内閣文庫)に移されます。
そのあとに建てられたのが東京職工学校、現在の東京工業大学です。
関東大震災後、目黒区大岡山に移転した東工大に変わって、この地に遷座してきたのが榊神社でした。
第六天榊神社由緒
東京都神社名鑑にある説明を引用してみましょう。
景行天皇の御宇四十年(110)、日本武尊が、勅命を奉じて東国の鎮定に下向された時、広漠たる武蔵野台地の東端で、東に筑波の嶺を、西に富士の霊峰を仰ぎ見、南に内海の清き白狼が、常世の浪の重浪と打ち寄せ、北に大樹の鬱蒼と生い茂った鳥越丘上の地を良き斎庭と定められ、国土創成の祖神である皇祖二柱の大御神を鎮祭し、御自ら奉持された白銅の宝鏡を納めて、東国の平安を祈願し、国家鎮護の神宮として創建されたのが、当社の創祀である。古来、「第六天神宮」と称され、公武衆庶の崇敬があつかった。江戸時代には、徳川幕府浅草御蔵の総鎮守として、将軍家より、当時日本第一といわれた大御神輿の奉納もあり、格別にあつい尊崇を受けていた。明治6年2月、神社名を「榊神社」と改めた。昭和35年6月に、御鎮座1,850年式年大祭が、盛大に斎行された。当社は、全国に奉斎されている第六天神の「総本宮」として、広く崇敬されている。
西暦110年、神話の世界に遡る創祀なのです。榊神社の祭神は榊皇大神と案内板に記載されていますが、『江戸名所図会』には面足尊(おもたるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)と記載されています。いずれも「天神七代」に数えられています。
天神七代とは日本神話で、天地開闢のとき生成した七代の神の総称、またはその時代のことをいいます。神代七代とも書き、「かみのよななよ」と読みます。
古事記、日本書紀=『記紀』の時代まで遡るには、さすがに無理があるので、「蔵前」について江戸時代から歴史を紐解くことと致しましょう。
隅田川西岸にある蔵前には江戸時代、徳川幕府の御米蔵がありました。浅草御米蔵といい、総面積36,648坪、舟入り堀が八本掘られ、この掘割には櫛の歯状に挟まれた土地に当初は51棟、幕末には67棟の倉庫が立ち並んでいました。ここには全国各地の幕領から運ばれてきた年貢米が常に40〜50万石詰められていたといいます。
多少大雑把にいうと、50万石というお米の量は江戸在住の武家層ほとんどともいえる50万人が一年間に必要とするお米の量とイコールであると考えて良いでしょう。
「札差」と呼ばれた商人の豪商化と「十八大通」
この御米蔵のすぐ前に、札差と呼ばれる商人たちが店を並べていました。
札差とは浅草の御米蔵から支給される旗本や御家人の俸禄米を彼らに変わって受け取ったり販売したりする請負業者のことです。
旗本、御家人にとって、年三回とはいえ、この受け取りが大変長時間待たされ、俸禄米を米問屋に売却して現金を得るまでの作業が面倒だったため、この札差と呼ばれる請負業者に手数料を支払うことで、その作業のすべてを代行してもらっていたのです。
ところがこの札差は俸禄米換金化作業だけでなく、俸禄米という手堅い抵当をとって、旗本や御家人にお金を貸すようになります。享保年間には株仲間の公認を受け、この業務に携わる人数をわずか109人で独占したため、蓄財は巨額化し、豪商に成長していきます。
この武家政権下で作られた都市、江戸という街だからこそ発生した商売、「札差」は老中田沼意次が権勢をふるった時代に富裕商人として最も羽振りが良い状態になり、札差の株(=営業権)は文字通り「千両株」と呼ばれます。
そんな彼らが江戸経済の中核的存在として活躍することになり、蔵前の地はその中心地になったのです。
派手な身なりと大袈裟な行動で目をひく一群の富裕商人たちは「十八大通」と呼ばれ、巨額の蓄財を背景に豪奢な遊び、髪型、衣装、美術工芸品、植物(花木)まで贅をつくします。
「蔵前風」と呼ばれる見栄っ張りの旦那文化が生まれます。豪商であるこの旦那衆は歌舞伎をはじめとする芸事全般に関心を寄せ、そのパトロンになるなど江戸文化にも少なからず影響を与えるようになります。
千貫神輿と鳥越夜祭
榊神社から歩いて10分も掛からない場所に江戸随一「千貫神輿」による渡御、宮入などがいまも行われる夜祭でも有名な鳥越神社があります。
六月の例大祭、鳥越の夜祭を間近に控える静かな境内に行ってみました。
鳥越神社由緒
境内の掲示に書かれた由緒をご紹介します。
当神社は、白雉2年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。
後、永承年間(1046〜52)奥州の安部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。
天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4-16附近)は、関東大震災で焼失したため大正14年に当社に合祀された。
例大祭は、毎年6月9日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑わい、また正月6日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。
本殿
四囲を樹木に覆われた鎮守の森は交通量の多い蔵前橋通りに面していながら、この静寂。
蔵前にお出掛けの際は気忙しさから解き放たれるひとときを味わうために、一度ぜひ訪れてみてください。
鳥越神社近くにある「おかず横丁」も日曜日にもかかわらず、この日はイベントがあって、賑やかでした。
おかず横丁でおススメのお店はこちら↓
東都の名社(古社)に佇んだあと、江戸幕府の書院番組、大番組といった官吏の屋敷が置かれていた屋敷街であった三筋町あたりを散策してから、浅草から本所へと抜け、隅田川の東岸へ。
追記(2019年6月5日)
梅雨から夏に向かう隅田川や墨東周辺に咲く花を特集した記事もあわせてご覧ください。
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