墨東歴史散歩第二弾
隅田川神社(隅田川総鎮守)
すみだの史跡文化財めぐりによる隅田川神社の由緒
「水神社」と呼ばれ、かつては樹木が繁茂し、水神の森とも称された微高地でした。また隅田川の増水にあっても沈むことがなく「浮島」の名もありました。昔から、河川交通の要衝(往古の街道筋・近世の渡場)であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。現在は首都高速道路と防災拠点建設事業のために、昔の面影はなく、社地も旧地の南100mの地に移転しています。
祭神は速秋津比古のほか三神を主神としています。また社伝によると、源頼朝挙兵の折の、治承4年(1180)この地に到り、水神の霊験に感じて社殿を造営したともいいます。現在の社殿は幕末(1858・1864)の二度の建設によるものです。
また、維新時には社掌矢掛弓雄が出て、大いに社運を盛り上げた模様で、彼の手になる歌碑、記念碑が多数残っています。
なお、同社には「徳治」(1306〜1308)銘、「永正14年」(1517)銘など、合わせて三基の板碑の所蔵が判明しておりますが、諸事情によって実見することはできません。
隅田川一帯の守り神
古くは水神宮、浮島の宮と称したこの神社は隅田川流域の船主の信仰を集め、水神さんとして親しまれてきました。御本殿は嘉永元年(1848)造営、安政五年(1858)に再建されたと記録に残されています。拝殿は元治元年(1864)八月建立されたもので、明治5年(1872)現社名に改名されました。
地域の鎮守神であるとともに隅田川一帯の守り神でもあり、水運業者や船宿など、川で働く人たちの信仰を集めたほか、「水神」の名から水商売の方々からも信仰されています。
それではバーチャル参拝をどうぞ。
都営東白鬚公園は地域ボランティアの方々が育てる花壇もあり、散歩途中、心も和みます。
さてこの都営白鬚東団地には、幕末・明治初期に活躍し、晩年を向島で暮らした榎本武揚の銅像があります。
榎本武揚が生きた幕末、明治維新
威風堂々たる榎本武揚の銅像、彼の人生を駆け足で追ってみましょう。
榎本武揚とはどういう人物だったのか?
榎本武揚は江戸下谷御徒町に住んでいた備後国安那郡箱田村(現:広島県福山市神辺町箱田)出身の御家人、箱田良助の子として生まれます。
幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、長崎海軍伝習所を卒業し、幕府派遣留学生としてオランダに留学。戊辰戦争を目前にした慶応三年(1867)に徳川幕府が購入した軍艦開陽丸とともに帰国し、軍艦奉行として幕府海軍を率います。
榎本武揚人生最大の危機
江戸城無血開城後、勝海舟を中心とした、今風にいえば「敗戦処理内閣」のなかで、海軍副総裁に任ぜられます。旧幕府主戦派の中心として東北・箱館を転戦します。箱館を占領したのち、独立政権を樹立し、五稜郭を拠点に政府軍と対峙します。
明治二年(1869)新政府軍の総攻撃によって、箱館・五稜郭は落城し、榎本武揚は切腹を試みますが、阻止され、政府軍の黒田清隆に勧めにしたがい、降伏します。
このとき、榎本がオランダ留学時代から肌身離さず携えていた海洋国際法の教科書として使用したフランス人学者オルトラン著「万国海律全書」のオランダ語訳という貴重な本が失われないように、黒田清隆に託します。
榎本武揚の危機を救った「万国海律全書」のオランダ語訳
実はこれが榎本武揚のその後の運命を大きく変えることになります。
黒田清隆は榎本自らが書写し、数多くの脚注等を挿入したこの書物をみて、深く感銘します。
この有益な人材を失うことになってはならないと黒田清隆による懸命の助命活動、黒田が頭を丸め、「榎本を処刑するなら、その前に私を」とまで言って榎本武揚を救ったのです。
二年半の獄中生活を経て、罪を赦されます。
北海道開拓使に任命される
その後、北海道開拓使に出仕を命じられ、黒田清隆の片腕として北海道の開拓に従事します。
北海道開拓使四等出仕という県令クラスの高位で函館に赴任した榎本武揚。そこでは自分でテントをかついで主に鉱物資源を探査。鉱物学はオランダで学んでいました。空知炭田を発見し、小樽を積出港と定めます。その結果、かなり早い時期に鉄道、道路、港湾の整備が進められたのです。
北海道開拓使出仕後、海軍卿、通信・農商務・文部・外務の各大臣を歴任しますが、特に外交交渉の舞台でめざましい活躍をします。日本外交史上の快挙、樺太・千島交換条約
明治新政府にとって、ロシアは北の軍事的脅威であり、日露和親条約で領土の画定を先延ばししていた樺太をどうするか、という大きな問題を抱えていました。
樺太に渡り、実地調査を行った黒田清隆は、すでにロシアが樺太に浸透していることから樺太領有は諦めることを提案、政府は了承します。これには弱腰だと批判する意見もありましたが、政府内の合意では樺太をロシア領とし、千島列島を日本領とする条約をロシアと結ぶことを考えていたのです。
黒田は、榎本武揚を交渉のための特使にすることを推挙します。語学が堪能で国際法にも通じている、海外生活の経験もあることがその理由でした。
ヨーロッパの外交官が軍人の肩書きを有していることに合わせ、政府は榎本武揚を特派するにあたり、海軍中将の称号も与えました。
当時、日本海軍は薩摩が牛耳り、しかも、三人の少将がトップで、中将は榎本のために初めて設けられた役職でした。旧幕臣でついこの間まで賊軍の長であった榎本武揚の中将任命に本人も世間も驚きますが、伊藤博文が欧米視察の体験から「外国で箔をつけるためにこの役職は必要」と強く主張しました。
ロシアとの条約交渉はフランス語で行われた。
ロシアとの条約交渉はもっぱらフランス語で行われました。当時のロシアでは外交官や社交界はフランス語がインテリの証しであり、外交交渉や社交の舞台ではフランス語を使うことが常だったのです。榎本はロシア語よりフランス語が得意だったので、これは好都合でした。交渉は1年近くに及び、明治八年五月、樺太・千島交換条約が調印されました。
樺太はロシアに帰属、占守島まで延長1200キロに及ぶ火山列島である千島列島全体=国後島、択捉島を含めた24の島を日本の領土と確定します。
当時の日本国内では、この条約は明治新政府では高く評価されますが、国民からは批難を浴びることになります。しかし、帝政ロシアにとって、総延長1200キロ、ほぼ一直線の千島列島が日本領になることは、太平洋への出口をふさがれることになり、軍事上、決定的な打撃だったのです。作家の浅田次郎さんは「日本外交史上の大成果」「日本側には武力の背景が全くなかったのだから、世界外交史上にも類を見ない成果」として「榎本の辣腕」を称えています。
浅田次郎著「終わらざる夏」
旧幕臣として海外留学で大きく成長し、帰国後は戊辰戦争の大きな渦に巻き込まれ、戦いに敗れ一度は切腹をする寸前までいった榎本武揚。薩摩藩士で、のちに第2代内閣総理大臣となった黒田清隆の助命嘆願により、赦免されたあとは新政府に仕え、その能力をいかんなく発揮し、要職を歴任。
明治政府最良の官僚と江戸っ子気質
ついには明治政府最良の官僚と評され、鹿鳴館文化の真っただ中に身を置くことになります。
鹿鳴館文化のなかにあっても、べらんめぇ調で話し、ユーモアあふれる人柄で、榎本武揚は江戸っ子の代表として周囲の人々から愛されたようです。義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で明治天皇のお気に入りの一人だったともいわれます。
また海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、園遊会ではあえて和装で参内していたとのエピソードも残っています。晩年は向島に住み、向島百花園を愛し、毎日のように向島百花園を訪れ四季の草花を眺め、詩吟に興じる、文字通り悠々自適の人生を送ったといいます。
それにしても、なんと波乱万丈の人生でしょう。
榎本武揚人物評
福沢諭吉
同時代を生きた福沢諭吉は彼を評して「江戸城が無血開城された後も降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である」と語っています。
山田風太郎
また作家の山田風太郎は「もし彼が五稜郭で死んでいたら、源義経や楠木正成と並んで日本史上の一大ヒーローとして末長く語り伝えられたであろう。しかし本人は『幕臣上がりにしてはよくやった』と案外満足して死んだのかもしれない」と彼の著書「人間臨終図鑑」のなかで榎本武揚について書いています。
それでは最後に榎本武揚が愛した向島に咲く花木を数点掲載して、本日の結びと致します。向島花暦【向島百花園】夏から秋へ
本日のBGM
Kikis Delivery Service Joe Hisaishi in Budokan(久石譲/魔女の宅急便より「海の見える街」)