あれから三年。大きな被害を受けた人のこころと、被害を免れた人のこころとの間に、時間は容赦なく大きな溝を作ります。
評論家やテレビコメンテーターを筆頭に誰彼となく、したり顔で使われる「風化させてはいけない」というステレオタイプな呼びかけは、時間の経過の前には実に無力だということを知っておく必要があります。
歴史から何をどう学ぶか
誰もが納得できる問題解決の優先順位は時間の経過と共に立場によって大きく変化していきます。
いま現実に発生している問題を解決するときに、これまで日本列島を襲った数々の災禍の歴史から学ぶことは必要不可欠です。
そこから得た教訓や知恵から学び、つねに「聞く耳」を研ぎ澄まし、キチンと問題と向き合い続けることには傷みや辛さを伴います。
悲しみにこころを壊さずに、現実をよく見ようとする目を養うこと、そして関心を持ち続けることで養われる感度の高いアンテナを持っていれば、それぞれの立場で出来ることは見つけられると思うのです。
けっして他人事ではない大惨事から得られた教訓、編み出された知恵の数々を検証することの重みを感じます。
大きな教訓を残した悲しみの出来事から何をどう学ぶか、これは歴史から何をどう学ぶかということとイコールだと私は考えています。
日々の暮らしのなかで人間が味わった喜怒哀楽の粒立った感情も、たえず工夫しながら分かりやすく明日へ伝えていくことで、歴史という大河の流れの中で生きるための尊い教訓になっていきます。私たちがこの作業を淡々と続けることも「歴史から学ぶこと」に相違ないと、改めて思っています。
『歴史は何のために学ぶのか、それは「いまを生きる」ためである』。恩師の言葉がまた心によみがえります。
江戸・東京の街は復興を繰り返してきた歴史を持つ
江戸・東京の街は何度も壊滅的な打撃、災禍から復興してきた歴史を持っています。
明暦の大火をはじめとする50件近い江戸の町を焼け野原にした火事、富士山宝永の大噴火、安政の大地震、関東大震災、東京大空襲、その都度立ち上がってきた歴史を学ぶことも「いま、そして明日を生きる」ときに大きな意味を持つはずです。
季節は確実に春へと向かい、花見をはじめ行楽を楽しむに良い季節がもうすぐそこまでやってきます。
撮る、見る、歩く、そのことで私たちの祖先から受け継ぎ、未来へと渡していく街の歴史を感じてみることに喜びを感じながら、丁寧に街を眺めてみることにしましょう。
葛飾北斎生誕の地「本所」
江戸時代、10万人以上の犠牲を出した大惨事、明暦の大火以降、徳川幕府は両国東詰付近にあった本所・深川の開発に本格的に乗り出します。
北斎通り
現在の北斎通りは、西は両国・江戸東京博物館前の清澄通りから横十間川までまっすぐに伸びる錦糸町へと続く道路です。
ちょうど京葉道路と蔵前橋通りの中間に位置します。地下に電柱を埋めたことで歩道も広く整備され、休日のお散歩を楽しめます。
本所七不思議の比定地が点在するこの地は葛飾北斎生誕の地としても知られています。
葛飾北斎の人生
日本を代表する浮世絵師の葛飾北斎は、宝暦10年(1760)9月23日に、本所割下水(現在の墨田区亀沢)に生まれました。
北斎ギャラリー
北斎通りには葛飾北斎の作品が街歩き北斎ギャラリーと名付けられ、展示されています。
新板浮絵浅草金龍山之図
葛飾北斎は実は画号を30回も変え、90歳の生涯のうちに現在の墨田区内、台東区内周辺を転々と引っ越し、その数も93回と言われています。
葛飾北斎は、死の直前に大きく息をして「あと10年の寿命があれば」と言い、しばらくして「五年の寿命が保てれば本当の絵師になれるのに」との言葉を残して亡くなったと伝えられています。
乳幼児死亡率が20%を超え、「人間50年」といわれていた当時としては、長生きといえる90年の生涯。彼はひたすら絵を描くことに多くの時間を費やしました。
葛飾北斎が72歳の頃の代表作「富嶽三十六景」全46枚や、55歳から還暦までの月日を費やし描いた絵手本『伝神開手 北斎漫画』十五編など多くの作品は、海を越えて、19世紀ヨーロッパの印象派画家ゴッホ(1853〜90)、セザンヌ(1839〜1906)、ゴーギャン(1848〜1903)などにも大きな影響を与えたことでも知られています。
この1,000年間で最も重要な業績を残した世界の人物100人
また、1999年米国の『LIFE』誌による「この1,000年間で最も重要な業績を残した世界の人物100人」というアンケート結果を語る記事で、日本人で唯一86位にランクインされています。
本所七不思議「消えずの行灯」
いつも本所南割下水付近を流して歩く夜鳴き蕎麦の屋台がありました。腹を空かせた客が近づくと誰もいないのに行灯だけが煌々とついていて、油が切れる様子もない。行灯の火を消そうとすると、凶事が起きるという伝承です。
これには別バージョンも存在していて、夜道で明かりもつけずにいる無人の蕎麦屋を見つけた客が不審に思って、行灯に火を灯してみますが、なぜかすぐに消えてしまいます。気味が悪くなって家路につきますが、その後凶事が起こるという伝承もあります。この話は「燈無蕎麦(無燈蕎麦)」とも呼ばれ、昇旭斎国輝が「本所七不思議内 無燈蕎麦」と題した錦絵を残しています。昇旭斎国輝「本所七不思議内 無燈蕎麦」
宮部みゆき著「本所深川ふしぎ草子」
この伝承を題材に宮部みゆきさんも傑作短編を書きあげています。
ドキッとするような怖い夫婦関係を表現するために「消えずの行灯」を比ゆ的に扱い、見事な筆力で書かれたストーリーに引き込まれ、あっという間に読み終えることでしょう。「消えずの行灯」を生きるよすがの比喩として使いながら、読む人のこころを静かに揺さぶってきます。この本所・両国界隈に伝わる伝承をもとに書かれた良質のミステリーに興味のある方はぜひ一度お読みください。
江戸グルメの華「蕎麦」
江戸っ子の蕎麦好きは歴史小説、時代劇、落語にもしばしば登場し、有名ですが、万延元年(1860)に行った江戸町奉行の調査では3,763店舗も存在し、屋台の蕎麦屋の数は含まれていなかったといいますから、その数の多さには驚かされます。
蕎麦がき、蕎麦粥、蕎麦団子といった食べ方から、江戸時代初期には蕎麦切りが多くの人の舌と喉を楽しませるようになります。
当初は庶民の食べ物であった蕎麦が享保年間(1716〜36)頃には身分に関わらず、江戸グルメの代表格として多くの人を楽しませる人気グルメ「外食」であったことが分かっています。
夜鳴き蕎麦、夜鷹蕎麦とも呼ばれた蕎麦一杯の代金は15文〜16文程度で、現在の貨幣価値に換算すると250円前後であったと考えられます。
江戸庶民の食生活「日用倹約料理仕方角力番附」
江戸では朝に一日分の米を炊き、朝は炊き立てのご飯に味噌汁を合わせ、昼は冷や飯に野菜か魚のおかずを一品、夕食は茶漬けにして香の物と食べるというスタイルが一般的でした。江戸後期・天保年間(1830〜44)に出版された「日用倹約料理仕方角力番附」という相撲番付に見立てた書物によると、
番付 | 魚類方 | 精進方 |
大関 | 目ざしいわし | 八はいどうふ |
関脇 | むきみ切ぼし | こぶあぶらあげ |
小結 | 芝えびからいり | きんぴらごぼう |
前頭(1) | まぐろからじる | 煮まめ |
前頭(2) | 小はだ大こん | 焼豆ふ吸したじ |
前頭(3) | たたみいわし | ひじき白あえ |
前頭(4) | いわししおやき | 切ぼし煮つけ |
前頭(5) | まぐろすきみ | いもがら油揚 |
など191種類のおかずが記されています。
精進方と魚類方に分類され、精進方の大関である「八杯豆腐」は豆腐を主体にしたすまし汁のことです。
この番付に登場するおかずの食材には、豆腐や茄子、大根、山芋などが多く、ミツバの根を利用した「みつばね油いり」やニンジンの葉を利用した「葉ニンジンよごし」などもあり、江戸時代の家庭ではどんな部分も無駄なく料理していたことがよく分かります。
江戸四大グルメ「うなぎ・鮨・天ぷら・蕎麦」
1.うなぎは深川や神田川でとれた天然モノが主体で、一度白焼きにしてから蒸し、醤油と味醂を合わせた「たれ」をつけて焼きあげるという調理法は文政年間(1818〜30)頃に確立したと考えられています。
2.鮨は19世紀初めごろまでは上方(大阪)から伝えられた押鮨のことをいい、文化年間になって、深川本所あたりの鮨屋、松の鮨や花屋与兵衛鮨によって「握り鮨」が考案されてからというもの、またたく間に江戸っ子のこころを捉え、大流行します。それまで鮨といえば、馴れ鮨(鮓)、押鮨のことを言いましたが、一気に握り鮨が主役となるのです。
3.天ぷらは江戸では屋台で食べるもので、江戸前の穴子、芝海老、コハダ、貝柱(アラレ)、スルメイカなどの揚げたてを串に刺して食べました。価格は一串・四文程度=40円程度であったと考えられています。幕末頃になって、料理屋でも天ぷらが出されるようになり、徐々に高級化していきます。
江戸の町で路上、屋台で売られたものはこのほかに、心太(ところてん)、冷水、白玉、ゆで豆、ゆで玉子、汁粉、甘酒、白酒などがあります。
このような食文化は化政文化と呼ばれる文化・文政年間に大きく花を咲かせたものです。
普段私たちがイメージしている江戸の衣食住、そして文化遺産の多くはこの時代を中心に形成されてきたこともよく分かります。
野見宿禰神社
野見宿禰神社は現在墨田区亀沢にあります。野見宿禰神社は当社の東側に初代高砂親方の部屋があったとき、初代高砂親方の尽力により、元津軽家の屋敷跡である当地に明治17年(1884)に創建したといいます。当社は相撲の神様として野見宿禰を祀り、現在に至るまで相撲協会や関係者の崇敬を集めています。
野見宿禰神社境内雪景色
野見宿禰神社の歴史
墨田区教育委員会掲示板によると
昭和27年(1952)11月、日本相撲協会によって歴代横綱の名を刻んだ石碑が二基建てられました。一基は、初代明石志賀之助から四六代朝汐太郎まで、もう一基は、四七代柏戸剛から六八代朝青龍明徳までの名が刻まれ、追刻できるようになっています。
この野見宿弥神社は、明治一七年(1884)に創建され、もと同神社の東側に高砂浦五郎(初代高砂親方)の部屋があったとき、浦五郎の尽力で元津軽家の屋敷のあとに相撲の神様として野見宿弥を祀りました。
玉垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれているほか、今でも本場所前には関係者らが祈願行事に訪れるなど、角界が厚く信仰する神社であることがわかります。