鐘ヶ淵から向島へ隅田川沿いに歩いた記録から
に続いてお届けする墨東写真散歩シリーズの三回目。
墨東写真散歩
皆さまからの日頃のご愛顧にこころより御礼申し上げるべく企画致しました夫婦写真散歩、秋の大感謝祭。一週間に三本と当社比三倍速の更新頻度でお届けしております(苦笑)。
梅若伝説とは?
この梅若という名の起源は隅田川に伝わる「梅若伝説」にあります。
能、謡曲、歌舞伎、人形浄瑠璃、海外のオペラとさまざまな作品のモチーフになった梅若伝説のあらすじをご紹介しましょう。
千年以上墨東に伝わる「梅若伝説」のあらすじ
平安時代中期、後世において親政の典範とされる村上天皇の御代、京都の北白川に吉田少将惟房に嫁いだ美濃国野上に住む長者の一人娘・花御前という女性がいました。
この夫婦には子供がなく、日吉宮へお祈りに行きました。すると、神託によって男の子を授かることができたといいます。その子を梅若丸と名付けます。
西暦964年、年号が「応和」から「康保」へと変わる頃の話ではないかと推測されます。
梅若丸が五歳の時、父親の吉田少将惟房が急逝し、梅若丸は七歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。
若くして父を失った梅若丸は比叡山月林寺で修行に励むようになります。
梅若丸は頭脳明晰で、幼くしてその学才を開花させ、比叡山三塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供でした。
ちなみに比叡山三塔とは、比叡山内を地域別に、東を「東塔」、西を「西塔」、北を「横川(よかわ)」の三つに区分し、これを三塔と言います。それぞれに本堂があります。
ところが同じ比叡山の東門院には、松若丸(若松という名だったという説もあり)という稚児がいて、これも梅若丸と学才を競うほどの俊才でしたが、それぞれを応援する寺の僧侶たちが争うという事態に発展し、梅若丸は東門院の法師たちに襲われてしまいます。
梅若丸は潜かに身を遁れて北白川の家に帰ろうとしますが、琵琶湖のほとり、大津の浜(現在の滋賀県)で人買いの信夫藤太と出合います。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州に向かって旅を始めます。
近江から徒歩による命懸けの長い旅を続けていた二人が武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸、関屋の里までやって来た時です。
梅若丸は幼い身での長旅の疲れから重い病気にかかり、動くことができなくなってしまいます。
人買いの信夫藤太は足手まといになった梅若丸を関屋の里に置き去りにします。
梅若丸を哀れに思った心優しき関屋の里人たちの看病の甲斐なく、
尋ねきて とはばこたえよ都鳥
すみだ河原の 露と消えぬと
という辞世の句を残し、貞元元年(976)三月十五日、梅若丸はわずか12歳の生涯を閉じてしまうのです。
一方、一粒種の梅若丸が失踪したという知らせを聞いた母・花御膳は我が子を必死に探し彷徨い、わずかな情報を元にひとり東国へと旅にでます。
信夫藤太と梅若丸から遅れること一年、隅田川の西岸までたどり着いた花御膳は、川をわたる舟の中から、東岸の柳の下に築かれた塚の前で大勢の里人が念仏を唱えている光景を目にします。
舟から上がった花御膳に問われるままに里人は、梅若丸という名の幼子が病気になり、この地で亡くなったのがちょうど一年前の今日で、有難いことに出羽国羽黒山で修行を積んだ下総坊忠円阿闍梨という貴き聖がここに滞在していたので、塚を築き、柳一株を植えて供養しているところだと告げます。
「其は我子なり 梅若丸は此処にて果てたるか」
探し求めた我が子がすでに他界していたことを知った花御膳は深く嘆き悲しみながらも、里人たちとともに菩提を弔います。
夜が明けて忠円阿闍梨に会い、これまでの経緯を話し、しばらく阿闍梨をここに滞在するようにお願いして、この地に草堂を営み、常行念仏の道場として、自らは尼になって梅若丸の霊を弔う日々を過ごしたといいます。
伝説の最後をはじめ、細部にはさまざまな異説が存在しますが、梅若伝説のあらすじはおおむねこのような内容です。梅若丸の母、花御前が出家して妙亀尼として草堂を営んだ「梅若塚」のあとに創建されたのが、梅若寺と呼ばれ、これが現在の木母寺です。
木母寺
木母寺の歴史
http://www.mokuboji.jp/tanoshimu/rekishi/index.html
慶長12年(1607)寛永の三筆のひとり、関白近衛信尹が参拝した時に梅の字を「木」と「母」に分解して、木母寺と改名したと伝えられています。
明暦三年(1657)からおよそ100年間、木母寺の境内に隅田川御殿という将軍家のお成り屋敷(休息所)が存在し、歴代の将軍や京の都から賓客の訪問も頻繁にあったといいます。
天正18年(1590)徳川家康から山号・梅柳山をを与えられていることや、朱印状が残っていることから江戸幕府と木母寺のつながりが深かったことが伺えます。
謡曲「隅田川」、隅田川芸能のはじまり
室町時代から現代に至るまで演じられている謡曲「隅田川」。
世阿弥の息子、観世元雅の作と伝わる謡曲「隅田川」は春の隅田川を舞台に、母子の愛情を描いた能舞台で、泣き申楽(泣き能)とも呼ばれ、母子をシテ(主役)とした観世元雅の代表的傑作とされています。
元雅の作った能には、この「隅田川」の他にも「弱法師」「盛久」「歌占」などがあり、いずれも人のこころに響く厚き人情をテーマとしたものです。
写実的で劇的な泣き能と世阿弥も花伝書で評しているように、「幽玄」という深い余情のある上品な優美さを「花」とし、夢のような世界を舞台で実現することを目指した世阿弥の能とは好対照をなしているようにもみえます。
「隅田川」のような子を一心不乱に捜し求めてさすらう悲劇の母を描く「泣き能」はそれまでにも多く作られていました。
結末は母と子が再会を遂げるというハッピー・エンドを迎えることがほとんどです。
ところがこの「隅田川」のみが悲劇的な結末で幕を閉じます。
能はもともと「衆人愛敬」といわれ、祝言性が強いものでした。
ゆえに結末を悲劇に終らせることは、当時の能としては画期的なことであったといえます。
観世元雅は「隅田川」が演劇としての完成度を意識して作ったとも考えられるでしょう。
隅田川物と呼ばれる作品群
子を失った親の哀切極まりない心情を完成度の高い洗練された舞台で表現した「隅田川」をもとに、後世において江戸歌舞伎、人形浄瑠璃など「隅田川物」と呼ばれる以下に列挙する作品群が生まれ、隅田川芸能のはじまりとなりました。
歌舞伎 『出世隅田川』
初代市川團十郎作、元禄十四年三月(西暦1701年4月)江戸中村座初演
人形浄瑠璃 『雙生隅田川』
近松門左衛門作、享保五年八月(1720年9月)大坂竹本座初演
歌舞伎『隅田川続俤』(法界坊)
奈河七五三助作、天明四年五月(1784年6月)大坂角の芝居初演
CURLEW RIVER
イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンという人物が昭和31年(1956)に来日した時に見た謡曲「隅田川」に感銘を受け、「CURLEW RIVER」と題した教会上演用寓話劇を作り、自国を含むヨーロッパにて上演し紹介しました。
現在もオペラとして日本でも上演され、国内外の多くの人に鑑賞されています。
したがって謡曲「隅田川」が海外でオペラ作品として上演される時のタイトルは「CURLEW RIVER」です。
ちなみにCurlewは「ダイシャクシギ」を意味するので、伊勢物語に登場する嘴と足が赤く、白い羽根を持つ都人、在原業平が愛しき女性を思い起こすきっかけとなった「宮ことり」、現在でいうところのユリカモメとは異なります。
江戸時代までは「都鳥」という当て字は「ユリカモメ」を指していたことが分かっているので、混乱はありませんが、これは昭和31年の話、鳥の名前も古今東西で十分な共通認識があったとはいえず、混乱が生じたのかもしれません。
どうやら「CURLEW RIVER」という作品でベンジャミン・ブリテンは「都鳥の川」という日本語を英訳し、作題したと伝えられていますので、どういう経緯で作題されたかは何とも微妙ですが、その辺は深く追求せず、ご愛嬌と理解することにいたしましょう(苦笑)。
能における「物狂い」について
能の「物狂い」は恋愛や慕情の高じた状態を表すものであって、病としての「狂い」ではありません。
したがって思いを遂げると「狂い」は覚めることになります。
シテ(主役)は現実の人間であり、狂物とも呼ばれ、四番目物に属しています。
「狂い」は非日常、非条理の世界ですが、こと恋愛や慕情、親子の愛情で考えるとそれだけ純粋で、そこに真実があります。
「狂い」という非条理を演じることを通して、真実を追求するのが「能」なのです。
能、謡曲、観阿弥・世阿弥
能を難解だと現代の日本人に感じさせているものの一つに、謡の本文が技巧を凝らして作られているために理解しにくいということがあると思います。
謡は古典の和歌や『伊勢物語』『源氏物語』『平家物語』などの文を上手に取り入れて作られています。
そうした古典の文章は、当時の人々が教養として知っていたものですから、能の謡を聞いたときにも、和歌で表現された情緒を能舞台で表現される情緒の上に重ね合わせることができました。
世阿弥が室町時代、流行していた連歌などの教養を身に付けたのもそうした効果を目的としたためだったのです。
前提となっている和歌や古典文学の名文に関する知識が無いと現代人が能の謡に難解さを感じるのは、むしろ当たり前のことなのです。
世阿弥は花伝書のなかで深い余情のある上品な優美さが舞台で表現されることを「花」と呼び、観客が能を見て美しいと思うこころ、感動や能役者が観客をひきつける芸の魅力や理想を「風姿花伝」のなかで説いています。
世阿弥「風姿花伝」
「まことの花」を得るためには役者は日々弛まない努力と研鑽を積み、稽古に励まなければならないと説き、年齢に応じた稽古法、演出法を分かりやすい言葉で述べた能楽論です。現代の晦渋で退屈な古典の授業で救い難き苦手意識を植え付けられてしまった人にも、実はこの「花伝」は芸を論じて人生万般に及ぶ悟道の境地ともいえ、比類なき努力の人、世阿弥の教訓だからこそ、時代を越えて惻々と語りかけてくる書物です。一読その筆意たるや豊潤そのもの、読んで愉しい好個の読み物とはまさにこのことで、けっして難しくはありません。ご紹介した解説書はどれも分かりやすく、理解を深めることに役立つことでしょう。
国際化時代になり、日本起源の文化伝統に興味・関心を持つ外国人も確実に増えてきています。能・狂言・歌舞伎・人形浄瑠璃などは彼らにとってただでさえ新鮮な異文化ゆえ、興味をもって学び、前提としている知識を理解したものには、より奥行きの深い美を体験することができるのです。
日本文化に深い関心をもった外国人に分かりやすく紹介することができれば、これぞまさにクール・ジャパンといえるのではないでしょうか。
古歌、名文は私たち日本人の暮らしの中で、幾星霜を閲(けみ)して磨き抜かれてきた日本語の精髄です。これを現代人もよく咀嚼して味読する喜びを知ることは人生をより豊かにすると思います。
観阿弥にしても、世阿弥にしても、もともと庶民藝術であった猿楽の能が貴族的なものになっていく境目を生きた人で、二人は庶民的な「好み」をきちんと心得ていて、それに応じるような作能と演出をあざやかに行っています。と同時に、この不世出の天才親子は貴族の高い鑑賞批評眼にも堪えうるような藝術を創り上げたのです。
日本の貴族が「貴族であるための存在証明」ともいえる知識・教養の中核には千年以上の長い間、和歌を詠むこと、古歌、名文をそらんじていることが前提にありました。
観阿弥・世阿弥親子は長い年月を経ても愛され続けた古歌や名文をふまえ、縁語・掛詞を駆使した七五調の流麗な文章で幻想的な王朝美や物語世界を地謡や囃子につれて歌い舞う劇を構築し、貴族的教養を持たない庶民をも熱狂させたのです。
しかし庇護を受けた将軍足利義満の死後、世阿弥の運命は大きく変わっていきます。卓抜した後継者で「隅田川」の作者であった長男・観世元雅は伊勢で客死、一説には足利家の家来、斯波兵衛三郎に暗殺されたという伝承もありますが、何が元雅の身にあったのかは分かっていません。
世阿弥自身も癇癪持ちの将軍足利義教によって迫害を受け、永享六年(1434)佐渡へ流されます。晩年の消息は不明で、帰京したかどうかも定かではありません。
謡曲「隅田川」をより深く理解するために
能の台本を「謡曲」といいます。
それでは謡曲「隅田川」を理解するうえで重要な主な古典、和歌、名文をご紹介しましょう。
梅若伝説という民間伝承をもとに謡曲「隅田川」は書かれますが、台本にある七五調の流麗な文書のもととなった本歌、古典の名文の主なものを列挙します。
伊勢物語の影響
まずは伊勢物語第九段「東下り」の影響を謡曲「隅田川」は大きく受けています。
嘴と脚が赤く、体が白いユリカモメの姿におとこは伊勢神宮の巫女装束を重ね合わせ、女性的な魅力を感じ、暮れ行く夏の日に大河、隅田川のほとりで渡守に平安京では見たこともない白い鳥の名前を尋ねます。
その答えは「宮・処・とり(=みやことり)」。
東国の鄙びた場所で教えられた意外な名前に政治的策略をきっかけに近づいたのにも関わらず、本気で好きになった女性を思い出すことに。
能のテーマは、母が失った子を捜し求める、というところにありますが、母の思いが叙情的に洗練されたものになっているのは、『伊勢物語』の東下りが当時広く人々に知られていたことをうまく利用したことが挙げられます。
さらに謡曲「隅田川」を理解するうえで、重要な引用された古典の名文を解説してみましょう。
以下に記す孔子と顔回の問答です。
孔子家語顔回篇
- 回聞、桓山之鳥、生四子焉、羽翼既成、將分于四海、其母悲鳴而送之、(孔子家語顔回篇十八)
孔門十哲の一人といわれ、同門の秀才、子貢が「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」と評された一番弟子、顔回と孔子の問答のなかにある一文です。
紀元前六世紀のことです。
読み方は「回聞く。桓山の鳥、四子を生む。羽翼(うよく)すでに成り、まさに四海に分かれんとす。その母悲鳴してこれを送る」となります。
前後の問答を原文で紹介します。
孔子在衛、昧旦晨興、顏回侍側、聞哭者之聲甚哀。
子曰:「回、汝知此何所哭乎?」
對曰:「回以此哭聲非但為死者而已、又有生離別者也。」
子曰:「何以知之?」
對曰:「回聞桓山之鳥、生四子焉、羽翼既成、將分于四海、其母悲鳴而送之、哀聲有似於此、謂其往而不返也、回竊以音類知之。」
孔子使人問哭者,果曰:「父死家貧、賣子以葬、與之長決。」
子曰:「回也、善於識音矣。」
中国、周代諸侯国「衛」について
ご参考までに「衛」について解説しますと、中国、周代諸侯国の一つで、紀元前770年頃から存在した国です。
周は殷を滅ぼしてその勢力圏を拡大させます。周の初め、殷の故地の制圧、東方、北方への備えとしていくつかの国が封建されています。その一つが衛です。最終的に「衛」は紀元前221年秦の始皇帝によって滅ぼされています。
孔子はその晩年に殷の故地を流浪し、この「衛」にも訪れています。
それでは簡単に日本語訳をつけてみましょう。
孔子家語顔回篇、日本語訳
孔子が「衛」を訪れ、滞在した時、早朝に堂の前に立ち、顏回が側に控えていました。誰かが泣く声が聞こえ、その声はとても悲しそうでした。
そこで孔子は顔回に尋ねます。
「回よ、お前はどうして泣いているか分かるか」
問われた顔回は答えます。
「回がこの鳴き声を聞きますと、ただ死に別れて嘆くだけでなくて、生き別れて泣いているようにも聞こえます」
孔子:「どうしてそれがわかるのかな?」
顔回:「完山の鳥は四子を生むと聞いております。羽翼がすっかり成長すると、たちまち四海に別れて行きます。その母は悲しそうに鳴いて、子供を送ります。いま聞こえている哀しみの声は、鳥の声に似ている所があります。それは去ってしまい、再び返ることがないことを悲しむのです。回が音を聞いて想像するのに、この二つは同じ類いだと思います」
孔子は人を遣わして泣いていた人に問わせると、こう答えます。
「父が死に家は貧しく、子を売って父の葬式を行いました,将に今子と父と両方に別れたのでございます」
孔子は「回は、なんと善く音を識っているのだろう」と感心した。
謡曲「隅田川」のなかで本歌取りされている和歌四選
大伴家持・万葉集
- 舟競ふ堀江の川の水際に 来居つつ鳴くは都鳥かも
藤原兼輔・後撰集
- 人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道に惑ひぬるかな
坂上是則・新古今和歌集
- 園原や伏せ屋におふる帚木の ありとは見えてあはぬ君かな
宮内卿・新古今和歌集
- 聞くやいかにうわの空なる風だにも 松に音する習ひありとは
磨き抜かれた日本語の精髄を声に出して味わってみてください。
優れた和歌はすぐに誰かが付けた現代語訳に飛びつかず、みずから声に出して読むことで伝わってくる深い余情があるものです。
謡曲「隅田川」のなかで本歌取りや利用された古典の名文は子を思う親の深い心情に激しくこころを揺さぶられます。
それでは墨東の晩夏から秋深まる散歩のなかから、花木数点ご紹介して、本日の結びと致します。
本日のBGM
久石 譲「風のとおり道」