江戸のまちづくりと江戸っ子の美学
新しい町づくりを目指して造成された江戸は徳川幕府270年の泰平の世を謳歌するという世界史上類例のない都市の歴史を刻むことになります。
同時代の西欧諸国が戦乱に明け暮れ、近代を迎えることになったことに比べると、二世紀半にも及ぶ平和な歳月は世界史を見渡しても文字通り驚異的といえます。
士農工商という言葉に代表されるように封建制度下における未開社会というイメージは時代小説や時代劇でもしばしば強調されます。
しかし押さえ付けられ、虐げられるだけの圧政にじっと我慢強く耐え続けるほど、民衆は愚かでも、気弱でもなかったのです。
化政文化の担い手
それを示す歴史的証左は文化・文政年間(1804〜1829年)に化政文化と呼ばれる爛熟した文化・芸術的価値の高い活動が盛んになり、世界に誇れる優れた成果を数多く生み出したことに見て取れます。
化政文化の担い手は士農工商の頂点に立った武家社会=指導者階級ではなく、当時低い身分とされた庶民が中心となって花開き、あるいはその活動を支えました。
また「江戸っ子」の美学と呼ばれるものが、この頃確立されたことに日本文化史の転換点ともいうべき注目すべきポイントがあります。
こうした美学や価値観が発生することになった原動力は江戸時代の教育にありました。
江戸の教育は「禮」に始まる
江戸の町で庶民の教育を支え、当時4,000軒もあった寺子屋。
出席や在学期間、登下校時間も月謝もマチマチ。
競争やそれを測る偏差値もない。
その人なりに向学心を高めていく達成感の高い教育で実学中心、無理強い・押し付け、詰めこみはありません。
その寺子屋でどの子にも共通で教えたことは手紙の書き方と礼儀作法でした。
寺子屋にあった教育理念の基本は「禮」です。
「禮」という文字は豊かさを示すと書きます。
豊かさとは心の豊かさで、自分が満ち足りていなければ他者の存在を認め、尊重したり、許したりということもできないでしょう。
生きるテクニックだけではなく、「禮」に始まり、「禮」に終わる。
その基本を押さえたうえで、江戸っ子の「粋(いき)」は育まれます。
江戸っ子の「いき」と「笑い」
「いき」と一言でいいますが、粋は意気に通じるとか、呼吸の「息」に通じるとか、さまざまな当て字が用いられてきました。
上方と江戸では「粋」と文字は読み方が異なり、上方では「スイ」、江戸では「イキ」と読んでいました。
江戸では好い風と書いて「好風」=いき、と読むこともありました。
さわやかな感じがする、ちょっといい感じだねぇ、そんな場合に「好風(いき)」と書いたのです。
また「通」をいき、と読ませる場合もあります。
これは情報に敏感で、さまざな事情にも良く通じている、如才なく振舞うことが出来る、それを「いきだねぇ」と使っていました。
ウィットとユーモアに溢れ、どんな深刻な話題にも笑いを散りばめて、陽気に和やかに過ごすことを第一とする協調性がベースに存在します。
初対面の人とも江戸特有のくだけた会話で和ませる。
諸国万人が集う街、江戸ならではの気配り、カラッとした快活なユーモアが「いき」。
相手をバカにしたり、当てこすりのような皮肉や自分を卑下することは「野暮」。
笑いは「他意はございません」という意志表示、異質の精神的風土、文化的背景を持つ人々が集まるなかで、江戸の笑いは和やかに暮らすための工夫だったのです。
江戸・文化文政年間から庶民が中心となり、3,000万人近い数が集まった当時すでに世界最大の都市であった「東京」へと変遷するなか、大火・大地震・幕末の動乱・関東大震災・東京大空襲などさまざまな災禍を経験します。
現在では人口も江戸後期と比較して四倍強に増えた東京です。
当時に比べれば、医療技術もはるかに進歩し、生活物資は溢れ、便利で安全な世の中になりました。
生きるために必要な情報にも簡単にアクセスできます。
しかし未来の日本はこれから百年、二百年と、この平和を守り続けることが出来るのでしょうか?
そんな問いが心に浮かんできました。
過去から現代、そして未来へと人の暮らしは変わっていくでしょう。
それでも歴史から学ぶことの大切さは変わらないと考えています。
と前置きはこれくらいにして、江戸経済の中心地、蔵前から歩くことにしましょう。
江戸経済の中心地、蔵前
以前ご紹介した蔵前という地名の由来、この街の歴史は「第六天榊神社、鳥越神社、隅田川花暦」というタイトルの過去記事にも詳述しました。
「札差」と呼ばれた商人の豪商化と「十八大通」が支えた江戸経済と文化、その香り漂う蔵前橋を渡り、両国へと向かいます。
蔵前橋のたもとには歌川広重や歌川国芳が描いた「首尾の松」と石碑、台東区教育委員会の案内板があります。首尾の松(しゅびのまつ):台東区教育委員会
この碑から約百メートル川下に当たる。浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
その由来については次のような諸説がある。
- 寛永年間(1624〜42)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
- 吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
- 首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
初代「首尾の松」は安永年間(1772〜80)風災に倒れ、更に植継いだ松の安政年間(1854〜59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次世界大戦の戦災で全焼してしまった。昭和37年(1962)12月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。
歌川広重「浅草川首尾の松御厩河岸」
蔵前の川岸に浅草御蔵と呼ばれた米蔵があり、蔵前の十八大通を筆頭に旦那衆はこの辺りの渡しから、舟で吉原に入っていくのがいわゆる「お大尽」の流行(はやり)でした。
屋形船に掛けられた簾には、よくよく目を凝らしてみると芸者の姿が影絵となり、なんとも粋で、妖艶な雰囲気を醸し出しています。この技法こそ、歌川広重一流の洒落た遊び心、江戸っ子の美学といえるでしょう。
旧安田庭園
旧安田庭園は、元禄4年(1691)、下野足利藩主本庄氏の下屋敷として作られたのが始まりです。
もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688〜1703)に築造されたと伝えられる、隅田川の水を導いた汐入回遊式庭園です。
本庄氏は小大名でしたが、徳川将軍家より松平姓を賜り、常陸笠間藩や丹後宮津藩の藩主を歴任しています。
庭園は安政年間に大規模な改修が施され、隅田川の水を引いた汐入回遊庭園として整備され、小規模ながら徳川時代における大名庭園の典型をなす名園です。
明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となりますが、明治22年(1889)、安田財閥の祖である安田善次郎氏が所有することとなりました。
大正11年(1922)、彼の遺志にもとづき東京市に寄贈されますが、大正12年(1923)、関東大震災によりほとんど旧態を失ってしまうのです。
両国公会堂(2015年夏解体)
両国公会堂は安田財閥の寄付金をもとに、東京市政調査会によって、当初は本所公会堂として建設されました。
竣工したのは大正15年(1926)。関東大震災の記憶も生々しい時期でした。
隣接する被服廠では、震災時の火事により数万人もの人が犠牲となり、本所一帯は焦土と化したのですから、この建物は復興の象徴のように映ったことでしょう。
設計者、森山松之助
円形ドームが印象的な両国公会堂の設計を手掛けたのは、森山松之助(1869〜1949)という建築家です。
彼は明治末から大正半ばにかけて、台湾総督府の技師として活躍した人物でもあります。
ちなみに森山は設計好きが高じて、台湾総督府の建築課長のポストを後輩に譲ります。
管理職より設計技師であることを望んで、その座に留まったという逸話も残る設計好きの建築家だったといいます。
大正末に内地に戻った森山松之助は、引き続き国内で数多くの建築設計を担当します。
このころ彼は還暦に近い年齢を迎えていましたが、長野県諏訪市の片倉館(昭和三年築)、東京都千代田区の東京歯科大学校舎(昭和四年築、現存せず)など、当時としては斬新かつモダンなデザインの設計作品を数多く発表しています。
やがて大東亜戦争の戦時下では、両国公会堂は食料配給所に当てられ、敗戦後には進駐軍のクラブとして接収されました。
両国公会堂の運命
両国公会堂は長い間営業はおこなわれず、空き家の状態が続いていました。利活用に関して決まりそうで決まらないもどかしいままでしたが、旧安田庭園共々、墨田区が管理し、2015年夏に解体されています。
そして、ようやく2018年1月、まったく新しい建物として造られた刀剣博物館がOPENしています。
https://www.touken.or.jp/museum/
本所七不思議「落ち葉なしの椎」
隅田川東岸に位置する場所に松平伯耆守と改姓した本庄氏のお屋敷の隣には、平戸新田藩、松浦家の上屋敷がありました。比定地は現在の刀剣博物館あたりであったと考えられています。
松浦豊後守の上屋敷を囲う塀際に一本の大きな椎の木があり、常緑樹とはいえ不思議なことに木の葉が落ちるのを誰も見たことが無かったといいます。
もともと落ち葉が少ないとはいえ、ただの一枚も、とは奇妙な現象です。
しかも松浦豊後守の上屋敷には椎の木だけでなく、銀杏や樫、もみじなど落葉樹もありましたが、その枯葉がお屋敷のまわりに落ちているのをみたことがない。
いったいいつあんなにきれいに掃除しているのだろうと本所の七不思議として語られていました。
松浦家ではこの上屋敷の椎の木を不気味がって、あまり使わなくなったという噂も流れたようです。
こうして「落ち葉なしの椎」はすっかり有名になり、松浦豊後守の上屋敷はいつしか「椎の木屋敷」と呼ばれるようになったということです。
宮部みゆき著「本所深川ふしぎ草紙」
この話をはじめ、本所七不思議という伝承を下敷きにして、宮部みゆきさんは時代小説の傑作短編集「本所深川ふしぎ草紙」を書いています。第13回(1992年)吉川英治文学新人賞受賞作品でもあります。
「本所深川ふしぎ草紙」第四話として「落ち葉なしの椎」が取り上げられています。この短編集から岡っ引きの茂七というキャラクターが登場し、その後でも宮部作品で活躍します。宮部作品で描かれた「落ち葉なしの椎」は石原町の地図にも載らないような横町で寄合帰りの商家の主人がぼんのくぼを針のようなもので一突きで刺され、絶命したという事件が起きるところからはじまります。
その下手人探しの過程で本所七不思議の伝承「落ち葉なしの椎」を下敷きに、生き別れになった親子の何とも切ない情愛が読むものの胸にストレートに響く短編です。ページをめくる手が止まらないとはまさにこのこと。ぜひご一読をおススメします。
時代小説の舞台「本所・両国」
本所・両国を歩くと忠臣蔵をはじめ、池波正太郎先生の代表作のひとつ「鬼平犯科帳」ゆかりの地であり、葛飾北斎、勝海舟、山岡鉄舟、河竹黙阿弥、芥川龍之介、舟橋聖一関連史跡など枚挙にいとまがないほど歴史散歩には最高の楽しみでもある史跡、旧跡の宝庫です。
今回から数回に分けて、本所七不思議を中心に本所・両国の街歩きをご紹介しようと思います。それではまた。
本日のBGM
Olga Jegunova「W.A. Mozart: Piano Sonata No.11 in A-Major」
<2019年10月18日改稿>