その名は「八百屋お七」、罪名は「火付け」という大罪。
お七の歳は数えで十六。
その美貌は町内でも有名で、彼女を見て恋心を懐かぬ男はいないといわれた程でした。
今日は「八百屋お七」の物語とゆかりの場所を訪ねつつ、文京区本駒込周辺を歩くお散歩です。
街角の花壇、植え込みに咲く花も五月の陽射しに照らされて鮮やかに輝いています。
この日はJR日暮里駅から谷中を抜け、一気に本駒込まで歩き、まず「駒込吉祥寺」へと向かいました。
曹洞宗諏訪山吉祥寺
本郷通りに面している享和二年(1802)再建の山門だけみていると、駒込吉祥寺の寺域の広さはまず想像できません。
駒込吉祥寺山門
僧侶養成機関「栴檀林」
扁額には「栴檀林」と書かれているように、僧侶養成機関として一千名以上の江戸時代の僧侶が学んだ教育機関であり、昌平坂学問所と並び称せられるほどの規模を誇っていました。
明治に入って曹洞中学校となり、現在の駒澤大学へと発展していきます。
一歩参道に足を踏み入れると本堂までの距離、墓所の広さなど吉祥寺が大寺であることがよく分かります。
手入れが十分に行き届いた端正な景色が広がっています。
駒込吉祥寺の歴史
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりに橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当寺の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
(文京区教育委員会掲示板より引用)
寺伝によると、長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見され、現在の皇居和田倉門あたりに太田道灌が建てた一宇をまずは「吉祥庵」と名付けたことがはじまりです。
徳川幕府による江戸城拡張の普請(工事)に伴い、いったんは現在の水道橋あたりに移されますが、明暦の大火(1657)、あるいは翌年の火災によってともいわれていますが、現在の本駒込に移転し、伽藍を建立したとあります。
武蔵野市の吉祥寺という地名との関係
余談ですが、武蔵野市にある吉祥寺という地名について、少し脱線してお話ししてみます。
大火によって焦土と化した江戸の街を復興させる施策の一環で、水道橋から駒込に移ってきた門前が火除地に指定されたため、お寺が移転してくる前からそこに住んでいた人たちは江戸幕府から立ち退きを求められます。住民たちは集団で五日市街道沿いに移住し、そこで新田開発を行いました。年貢の減免など特権もいくつか与えられ、後に豪農化したともいわれています。
武蔵野市に吉祥寺というお寺はない!
そして彼らが開発した土地(現在の武蔵野市)を移転前の旧名「吉祥寺」にあやかり、名付けたものだといわれています。したがって現在の武蔵野市吉祥寺には「吉祥寺」というお寺はありません。
駒込吉祥寺境内散策
さて、駒込吉祥寺境内を散策してみましょう。
吉祥寺経蔵
僧侶の図書館「経蔵」は江戸時代文化元年(1804)に貞享年間に建立されていた旧経蔵の礎石の上に再建されたもので、瓦葺の縦走宝形造で軒に精緻な彫刻が施されています。これは日本の神社仏閣建築に興味、関心のある方にとって一見の価値ありです。東京都内に江戸時代から残る唯一の「経蔵」だということです。
「八百屋お七」事件とは?
天和三年(1683)八百屋の娘、お七が火付けの科(とが)により、火炙りによって処刑されたという実話に基づいて、処刑からわずか三年で井原西鶴が「好色五人女」のなかで脚色され、「恋草からげし八百屋物語」として小説化されます。
井原西鶴著「好色五人女」恋草からげし八百屋物語
井原西鶴の作品が大当たりしたため、フィクションの世界ではお七・吉三郎のカップルが誕生することになります。
戸田茂睡著『御当代記』で語られた八百屋お七
それでは史実はどうであったかというと、ほぼ唯一の歴史史料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけなのです。
八百屋お七の真実
今日に至るまで夥しい数の創作が世に出ている八百屋お七の物語では、恋仲の相手の名前や登場人物、仮寓の場所であった寺の名やストーリー設定は実にさまざまで、すべてに共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」ということだけです。
八百屋お七に関する諸説
「好色五人女」でお七が生まれたとされる八百屋八兵衛の家も、本郷森川町の商人八百屋市兵衛とするものや八百屋久兵衛としているもの、駒込追分片町の八百屋久兵衛としているものなど登場人物や出会った場所も吉祥寺説と圓乗寺説があり、細部は多種多様に設定されています。
お七のお相手の名前も、「天和笑委集」では生田庄之介、「好色五人女」では小野川吉三郎、「近世江戸著聞集」では山田左兵衛、浄瑠璃作家、紀海音の人形浄瑠璃「八百やお七」では安森吉三郎、現代の歌舞伎「櫓のお七」では吉三郎、松田定次監督の映画『八百屋お七 ふり袖月夜』(1954年公開)では生田吉三郎、落語では吉三(きちざ・きっさ)と、お七の恋人の名前はいったい誰なんだというくらいです(苦笑)。
本郷にあったとされる八百屋も加賀前田家と取引のある裕福な商家という設定や、吉三郎の身分設定も身分の高い武士から浪人、寺小姓までといろいろです。またお七の処刑場所も鈴ヶ森説と小塚原説があります。
お七吉三郎異聞
また水戸光圀の幼馴染で晩年を共に暮らしたとされる愛妾の「やち」という名の女性が住む家にお七が奉公していたという設定もあります。恋のお相手となる吉三郎が実は柳沢吉保に雇われていて、光圀を政治の表舞台から失脚させるために評判の美男で名が通っていた寺小姓、小野川吉三郎を利用し、光圀と縁のあるお七に近づけ、幼気な彼女を籠絡させ、恋仲になります。
そのあと、吉三郎は無実の罪で牢獄に入れられ、お七は吉三郎に会えなくなります。愛しさがつのるばかりのお七。その恋心に付け込んで、陰謀を仕組んだ柳沢の手下は、恋人吉三郎の受難を助けるために、お七に牢屋に放火をそそのかします。会えないもどかしさと好いた人の身を助けたい一心で牢屋に近づき、火付けの大罪を犯すお七。
しかし、燃え上がる炎を見て、我に帰り、半鐘を鳴らすお七。周囲に諭されるまでもなく、火付けの罪の重大さに気付き、自訴したお七はご定法通り、三日間馬上に縛られ、江戸市中、引き回しの上、火炙りの刑に。
想像を超える事態の展開に、籠絡したとはいえ、付き合ううちに真の恋心が芽生えた吉三郎も自責の念にかられます。やがて柳沢の陰謀が光圀方に知られ、口封じのために矢で射殺される。あの世で添い遂げよと、吉三郎は手厚く吉祥寺に葬られる…。
というように、さまざまな創作、異聞が存在します。
とにかく江戸時代から昭和にいたるまで多くの作家たちの創作意欲を刺激する大事件であったことだけはたしかです。
八百屋お七関連作品
さらに郷土芸能としての「八百屋お七」も歌祭文・覗きからくり節・盆踊歌・飴売り歌・願人・祝い歌・労作歌・江州音頭やんれ節などが確認されています。特に八百屋お七盆踊り歌は昭和になっても保存されている件数が多く、その内容も多くの系列が存在していて、比較的最近まで全国いたるところで歌われていました。
歌謡曲でも美空ひばりさんの「八百屋お七」はもちろん、坂本冬美さんの「夜桜お七」もこの系譜に属するのかもしれません。
[asin:B006EV7A4S:detail]落語でも「八百屋お七」は桂文治師匠の名演が残されています。漫画でもこんな作品がございます。
八百屋お七物語の諸説、異聞を整理する
ここでひとまず整理してみますと、あらすじとしては、八百屋の娘で、絶世の美女お七が火事でお寺に避難した際、そこで出会った美男に恋をする。「もう一度焼け出されれば、彼に会えるかもしれないよ」と悪い奴にそそのかされ、火付けの大罪を犯してしまう。
しかしすぐにその過ちに気付き、自分で半鐘を鳴らし、火事を知らせたので大火にはならなかった(異説はあります)。
それでもお七は自訴し、御白洲では潔く罪を認め、判決はご定法通り、江戸市中引き回しのうえ、火炙りの刑に処せられた。
当時数え十六の美しき乙女、お七の一途な恋心、そそのかされてしまった愚かさを素直に認め、極刑を受け入れたお七の悲劇。
江戸時代、罪人にお墓や供養塔はあり得ないという歴史研究家もいらっしゃいますが、この話自体、驚くほど数多くの異説が存在し、大罪を犯したお七に江戸時代の庶民にある種の同情や共感が湧かなければ、ここまでフィクションの世界で語り継がれることもなかったし、供養しようとするこころも起こらなかったことでしょう。
この物語を受け入れた庶民感情のなかには、公儀の判決に対する不満、批判も含まれていたのかもしれません。
まさに虚構=フィクションの中でこそ自由に表現される当時の江戸庶民のこころの真実が隠されているのではないでしょうか。
おそらく、このあたりがこれまで数多くの作家の創作意欲を刺激してきた由縁なのかもしれません。
浮世絵師の作品においても歌川豊国をはじめ、多くの浮世絵作品が残されています。
月岡芳年 松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)
お七の衣装も歌舞伎の舞台では宝永3年(1706年)に八百屋お七を演じた初代嵐喜世三郎が「丸に封じ文」紋をつけた衣装で、かわいらしいお七を演じて評判になり、それ以降「丸に封じ文」紋がお七の紋として定着します。
丸に封じ文
文化6年(1809年)『其往昔恋江戸染』で八百屋お七役の歌舞伎役者、五代目岩井半四郎が麻の葉段鹿子の振袖を着たことから大流行し、麻の葉文様は当時若い娘に大人気の着物柄になったと記録にあります。
お七丙午生まれ伝説
丙午(ひのえうま)年に生まれた女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信もお七が起源とされていますが、お七は丙午生まれだとすると18歳になってしまいますので、さすがにこれは間違いでしょう。
実はその間違いも浄瑠璃作家、紀海音が『八百やお七』でお七を丙午生まれとしたことに端を発しています。人気作品としてその後の作品に影響を与えたための迷信でした。
その辺はフィクションという想像の産物を必要以上に史実と突き合わせ、現代から「あと知恵」を駆使して、いちいち検証するのも本当は野暮なのかもしれません。
大節季は思いの闇
井原西鶴作『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」の冒頭
ならひ風はげしく、師走の空、雲の足さへ早く、春の事ども取り急ぎ、(以下略)
江戸では北東から吹く風を「ならひ風」と呼んでいました。その「ならひ風」を描写するところから始まる文章にあふれる心地よいリズムを味わいながら、読み手は慌ただしい歳末の江戸の町を活写する印象的な導入に引き込まれていきます。
何度読んでも味わいの深い文章です。興味のある方や物語の構成、展開力、自由溌剌とした文体、達意の文章とは何かと考えている方には特におススメです。
井原西鶴の「好色五人女」という封建時代唯一の恋愛小説は実在の人物をモデルにしながら、人間性の解放を高らかに謳った何度読んでも飽きさせない名文章だと思います。
現代語訳だけでなく、もし興味、関心が高まったのなら、ぜひ一度は原文にあたってみてください。二人が恋仲になるまでのプロセス、原文の美しさ、軽やかなリズム、江戸を上方(大阪)から眺めて表現した井原西鶴の言葉は読みやすく発見の宝庫であることに驚かされます。
曹洞宗大圓寺(ほうろく地蔵)
円乗寺
Out of focus "Impressionnistes"
本日のBGM
西村由紀江「恋がくれたもの」