七福神とは何か?その起源と歴史
仏教、道教、神道において尊崇された天部や神、インド、中国、日本と国際色豊かな福の神オールスター七柱を集め、神仏習合という日本的な信仰スタイルから生まれた七福神。
七福神というユニット誕生の起源は京都。時代は室町時代末期までさかのぼります。当初は五柱で考案されますが、メンバーの増減、入れ替えなどを経て、安土桃山時代には福禄寿と寿老人が加わり、「七福神」として成立していたことが記録されています。
とはいえ戦乱の世が長く続き、覇権争いの中心地となっていた京都でいきなり現在のように庶民が七福神めぐりをしていたわけでありません。
天海僧正と七福神信仰
江戸幕府のブレーン天海僧正が徳川家康に勧めた七福神信仰がきっかけとなり、本格的に世に広がりはじめた七福神。
江戸時代に入り、世情が安定しはじめ、京都、上方(大阪)を中心に展開された後世元禄文化と呼ぶようになった時代になり、七福神信仰は富裕層を中心に少しづつ広がりをみせていきます。
江戸の歴史と七福神めぐり
天正18年(1590)徳川家康が入ってきた頃の江戸はまだまだ広大な武蔵野の一寒村にすぎませんでした。入り江が深く入りこみ、低湿地がひろがり、葦が生い茂る当時の江戸。現在からは想像しがたい光景がひろがっていたのです。
室町時代から戦国時代までは関東の中心地は小田原。豊臣秀吉による天下統一後、後北条氏は滅びはしますが、後北条氏の善政によって栄えた東国独自の文化伝統は徳川家康によって江戸の街づくりや政(まつりごと)に引き継がれていきます。
そんな江戸も長期間にわたって大がかりな普請(工事)が行われ、将軍様のお膝元として整えられて行きました。丘陵地を切り崩し、入り江を埋め立てることによって宅地が造成され、多くの町が生まれます。現在も時代劇などで「大江戸八百八町」という言葉を使いますが、これは江戸の実際の町数ではなく、江戸という都市空間に多数の町が存在していたことを示す、一種の慣用表現です。
江戸幕府が誕生し、文化文政年間までのおよそ200年という長い時間には江戸の町を焦土と化した明暦の大火をはじめ幾多の大火災や天変地異などを乗り越え、「大江戸」が形成されます。豊かで活気溢れる町人文化が起こってきたころに現在の「七福神巡り」近いカタチになり、宝船という開運グッズとともに庶民の間にも広がっていきます。
化政文化という大輪の花が咲いたこの時代、出版の歴史もこの頃がはじまりで、葛飾北斎、歌川広重などによる風景画がベストセラーになり大流行、その影響で「旅」が日本史上はじめて娯楽になった時代、そのあたりが本格的な起源といえるでしょう。
明治以降の七福神めぐり
しかし明治政府の神仏分離令によって、一時は完全に廃れ、明治時代末期に復活の兆しを見せるものの、大東亜戦争、東京大空襲によって焦土と化し、ふたたび廃れ、ようやく昭和元禄、高度成長期に徐々に七福神巡りも復活し全国に広がります。
戦乱の世が終わり、平和な時代が続き、文化が爛熟し、街の治安も良くなった時代の産物、それが七福神巡りなのです。
深川七福神めぐり
これまでさまざまな江戸東京七福神巡りをご紹介してきましたが、今回は「深川」。江戸の名残も色濃く、文化伝統を大切にしてきた深川七福神を歩きます。
深川の発祥と地名の由来
今からおよそ四百年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人も未だありませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられています)という人が一族を引き連れて移り住み、この土地の開拓に着手しました。
古記録によると、徳川氏の関東入国から間もない慶長元年(1596)、徳川家康公が当地を巡視の折、八郎右衛門を召して地名を訪ねたそうです。八郎右衛門が「まだ住む人も少なく、地名もない」と答えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を採って「深川村」とするよう命じました。そして、開拓の功績により八郎右衛門を深川村の名主に任じました。
深川七福神めぐり地図ポスター
明暦3年(1657)大火以後開発された本所、深川の地。明暦の大火ののちに木場が置かれて商業開港地域となり、水運、海運の要衝地として江戸発展の基礎となった中心的役割を果たします。
深川の歴史、町人文化と辰巳芸者
徳川三代将軍徳川家光の時代から富岡八幡宮の門前町として発達し、深川岡場所も設置され花街となります。江戸城を中心にして、辰巳の方角にあることから深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ、粋で気風の良いお姐さまが集まる伝統文化が築かれていきます。正徳3年(1713)の頃には「町並地」となり町奉行支配に組み込まれ、「大江戸」を支えた活気溢れる町人文化がこのあたりを中心に栄えます。
池波時代劇のヒーロー、「鬼平」こと長谷川平蔵が活躍したのもこのあたり。

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深川神明宮<寿老神/福徳:延命長寿>
深川神明宮〜深川発祥の地〜
どこから始めても良い七福神めぐり、今回は森下駅から一番近い深川神明宮から。
ここで色紙を購入し、イラスト地図(無料)をいただきます。
深川八郎右衛門は敬神の念が篤く、かねてから崇敬する伊勢の皇大神宮(神明さま)の御分霊(わけみたま)を屋敷の一隅の小祠(ほこら)におまつりし、開拓民の幸福と当地の発展を祈願しました。やがて、深川村は江戸の繁栄と共に発展し、多くの人々が住む賑やかな町となりました。深川氏の屋敷の一隅に小祠は、いつしか「深川総鎮守神明宮」と称せられ、深川の氏神様として人々に崇敬されるようになりました。
開拓当初は、現在の森下周辺の地名であった「深川」は、その後、海に向かって南へ南へと発展し、今日では門前仲町や木場を含む、江東区西部一帯をさす知名となっていますが、深川の地の発祥は、深川神明宮の鎮座する森下の地なのです。
伊東深水生誕の地

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深川稲荷神社<布袋尊・福徳:清廉度量>
町会の皆さんによる献身努力がこのお社を支えています。
布袋尊のまつられている深川稲荷神社は、寛永七年(1630年)の創立、深川地区では、創立の古い神社です。祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいいます。この付近の旧町名は、深川西大工町でしたが、昭和七年八月一日深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷と称しました。この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていましたので、この町名が生まれたといわれています。この神社は、無住社にして、町会によって管理運営されています。
小さな敷地に鎮座するお社ですが、下町の心意気で支えられていることをお忘れなく!
清澄庭園を横目で見ながら、深川江戸資料館のある通りに入ります。
深川七福神以外の名刹・古刹・史跡
名刹、古刹が立ち並ぶこのあたり。
龍光院<浄土宗・毘沙門天/福徳:勇気授福>
円珠院<日蓮宗・大黒天/福徳:有福蓄財>
円珠院の魅力
円珠院は、享保のころ旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立しのち、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保十五年末(1730年)に此の寺に葬られました。享保五年(1720年)十一月十三日画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破顔大黒天が安置されています。江戸時代から、深川の大黒天として有名でした。
宗派を超え、こうして神社仏閣を歩く。平和な時代の恩恵を改めて感じます。排他的な考えに囚われず、心の自由、安定を育む健全な世の中であってほしいと思います。
冬木弁天堂<古義真言宗・弁財天/福徳:芸道富有>
冬木弁天堂の歴史
冬木弁天堂は、木場の材木豪商、冬木弥平次が宝永二年(1705年)、茅場町(中央区)から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置しました。そのためいまでもこの町を冬木町といいます。この弁財天は、等身大の裸形弁天にして、毎年一回衣装の着替行事をおこなってきましたが、大正十二年の関東大震災に焼失しました。冬木弁天は、明治三年から一般に参詣を開放しました。現在の弁天堂は、昭和二十八年に再建されました。尾形光琳が、冬木家に寄寓中、冬木家の妻のために書いた秋草の小袖が、上野国立博物館に保存されています。冬木弁天堂は、古義真言宗に属しています。
ここでは本殿にあがって、手を合わせると地元の粋なかつての(苦笑)お兄さまたちが太鼓を打ち鳴らしてくれます。その太鼓の音が参拝客の穢れを払い、一緒にご利益を祈ってくれるあたたかい音に聞こえます。何だかとっても心が温まります。これを味わうだけでも大満足。
おかげがありそうです。
深川一丁目の交差点にたどり着き、道案内を確認し、
心行寺<浄土宗・福禄寿/福徳:人望福徳>
福禄寿の安置してある心行寺は、元和二年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立された浄土宗の寺で開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室、養源院殿であり、寛永十年(1633年)現在地深川寺町に移った由緒ある名刹である。関東大震災と昭和二十年の戦災により二度も焼失したが、現在の本堂は昭和四十二年に再建された。昭和五十年に福禄寿が安置されている六角堂が完成した。
富岡八幡宮<恵比寿神/福徳:愛敬>
大関力士碑
深川七福神の恵比須神がお祀されている富岡八幡宮は、寛永四年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた小島に創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と居住地を開き、今日の八幡宮境内・深川公園地・富岡町・門前仲町を含む、総じて六万五百八坪の社有地を得ました。以来隅田川両岸一帯(深川及び現中央区新川・箱崎地区)の氏子を始め、広く世の崇敬を集めている江戸最大の八幡さまで、「深川の八幡様」として親しまれています。
本日のBGM
中村由利子「えがおの日まで」

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