秋の日は釣瓶落とし、気忙しさと共に深まりゆく秋を実感する今日この頃です。
乾いた空気、ビルの谷間を吹き抜ける北風、見上げる空は青く高い、そんな東都の秋もいよいよ本格的な紅葉シーズンを迎えました。
今回から東京都内の名庭園を歩く撮る、写真散歩シリーズをお届けします。
六義園(東京都文京区本駒込)
その第一回は国指定特別名勝、六義園。
ここは東京23区のなかで随一といってもいいほどの紅葉の名所です。
国指定特別名勝、六義園の歴史
歴史を遡ると江戸幕府五代将軍徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が駒込の地にあった加賀藩の旧下屋敷跡地を徳川綱吉から与えられます。
柳沢吉保による作庭
その土地に和歌に造詣が深く、日本庭園の作庭にも意欲的であった柳沢吉保が自ら「六義園」を設計、指揮します。和歌に詠まれた景勝地や中国の故事にちなんだ美をイメージし、趣向を凝らした「見立て」の景観=八十八景を構築しようと作庭に励みます。
本駒込という平坦な武蔵野台地の片隅に池を掘り、山を築き、萬葉集や古今和歌集などに収録されている和歌に詠まれた名勝にちなんで、見立ての技法を用い、空間化し、七年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。この柳沢吉保の和歌趣味を基調とした回遊式築山泉水庭園=六義園は江戸時代に造られた大名庭園のなかでも代表的なものです。徳川綱吉は将軍在位の間58回も訪れ、柳沢吉保との蜜月ぶりを象徴するかのようです。そのほかにも遠く京都からの公家衆をはじめ、数多くの賓客を招いた記録が残っています。幸運にも度重なる江戸の大火にも大きな被害を受けず、幕末まで柳沢家の下屋敷として使用されました。
「六義園」名前の由来
「六義」の原典は『詩経』にある漢詩の分類法で、三通りの体裁「風」「雅」「頌」と、三通りの表現「賦」「比」「興」という六種に分類されるという考え方です。
古今和歌集の選者として第一勅撰和歌集の成立に重要な役割を果たした紀貫之はこの「六義」を借用して「そもそも、歌のさま、六つなり。唐の歌にもかくぞあるべき」と和歌の詠みぶりとして分類される六体の基調を表します。
詩経の六義と和歌の六体
詩経の六義(むくさ)に和歌の六体を対応させて解説しますと、
- 「風」:そへ歌:他のあるものに思いを寄せて詠んだ遠回しな表現の歌。諷喩(ふうゆ)
- 「雅」:ただごと歌:歌の内容が道義的に正しい歌、事物や景物を用いずに思いをそのまま詠んだ歌
- 「頌」:いはひ歌:長寿や繁栄を祝福する歌、祝意を表す歌
- 「賦」:かぞへ歌:他のものに譬えずにそのまま詠んだ歌、物の名を並び立てる歌
- 「比」:なずらへ歌:比喩の歌。景物を心情の比喩とした歌。
- 「興」:たとへ歌:自然の風物に思いをなぞらえた歌、心情と景物が対比されている歌
と解されています。
六義園、秋のフォトコレクション
六義園紅葉コレクション
藤代峠
標高35m、園内で一番高い場所です。ここは江戸時代、江戸百名山のひとつに数えられた築山です。
和歌山にある「藤白峠」と表記される熊野古道の入り口にある峠の眺めの美しさを詠んだ和歌を模したものです。
萬葉集巻九ー1675
藤白の み坂を越ゆと 白たへの
わが衣手は ぬれにけるかも
三菱財閥初代総帥、岩崎弥太郎造園「清澄庭園」
立ててよし、寝かせてよしの名石の数々が見られる清澄庭園はこちらからどうぞ。
東京都国分寺市「殿ヶ谷戸庭園」
江口定條は三菱合資会社・本社営業部長時代の大正二年(1913)から二年の歳月を掛け、別宅を建て、豊富な湧水を用いた池を辿る自然の魅力溢れる庭を東京都国分寺市に造ります。これが現在の殿ヶ谷戸庭園のはじまりです。
江口定條は元治二年・慶応元年(1865)幕末の土佐に生まれ、東京高等商業学校=現在の一橋大学を出たあと、同校の教諭になります。明治24年(1891)に転職し、三菱合資会社に入社します。大正11年(1922)に57歳で退社するまで三菱合資会社に31年間奉職し、本社総理事まで務めます。三菱財閥三代目の岩崎久彌と同郷の土佐出身で、生年も同じと、三菱財閥にとって重要な人物であったといいます。東京の名園に「三菱」あり。岩崎弥太郎の思いが受け継がれているのでしょう。
本日のBGM
Titanium/Pavane (Piano/Cello Cover)―David Guetta/Faure―The Piano Guys