未曾有の災害、飢饉、財政再建、商品経済の進展で緩み切った幕藩体制の引き締めや役人の不正防止、綱紀粛正など重要課題が山積してい間。
徳川吉宗が行った享保の改革
その時代に自ら指揮を執り、約30年に亘る享保の改革を断行、さまざまな政策を打ち出したのが八代将軍徳川吉宗でした。
目安箱の設置とその目的
そのなかでも有名な政策のひとつが目安箱の設置です。
この訴状を受け付ける投書箱は享保の改革以前から幕府直轄領や諸藩でも設置されていました。それを発展させた形で庶民が天下の将軍様に直接意見を申し立てる機会を与えられた画期的な政策でした。
吉宗が設置した目安箱(訴状箱)は江戸城にあった幕府評定所の門前に毎月2日、11日、21日の三日間だけ置かれます。投書できるのは農民、町民で、武士は対象外。記名が原則で、投書できる内容は以下の三点でした。
1.有益な政策の提言
2.役人たちの不正告発
3.訴訟を起こしたにも関わらず役人が詮議をしないことへの異議申し立て
目安箱への投書で実現したことといえば、何と言っても、江戸の町医者、小川笙船の投書から実現した、小石川養生所の設置です。徳川吉宗の医療改革
紀州藩主であった吉宗が将軍就任直前まで、全国各地で疫病が流行しました。流行り病で数多くの被害者が出ていたという事実によって、徳川吉宗は医療改革の必要性を認識し、その問題意識を高めていったのです。
徳川家康入国から100年以上経過し、すでに全国から大量の人々が流入し、人口100万を超える世界的大都市になっていた江戸。
医療改革の目的と時代背景
当時江戸市中には貧しくて薬が買えない者や医師に診てもらえない人、独り身で病気の看病をしてくれる人がいない境遇の者が数多く存在していました。
地方から流入してくる相続する土地を持たない、いわば帰るべき故郷を持たない者で溢れた大江戸。
しかも男64:女36という男女比で構成されていたため独身者で溢れた江戸の町。
江戸に出れば何とかなると思って、都会へ出てきたものを待ち受ける厳しい現実。
町医者、小川笙船が目安箱に投書した訴状
一度怪我や病気に罹ると運が悪ければ誰にも知られず、一気に奈落の底へという悲惨な現実を町医者という医療現場の最前線で嫌というほど見ていた小川笙船はこの訴状のなかで鋭く指摘し、医療状況の貧困さを憂い、目安箱に投書したのです。
吉宗が目を留めたその訴状は17ヶ条からなる意見書だったといわれていますが、
貧しさから医療行為を受けられない人や身寄りのない者のための施薬院を設置するプランには
- 当時一流の幕府お抱えの医師(=官医)が診療にあたり、
- 看護スタッフには健康でまだまだ十分に働ける高齢者を積極的に採用すること
などが含まれていたと言われています。
町医者、小川笙船はよくよく調べると実は謎多きの人生ですが、
山本周五郎先生の時代小説『赤ひげ診療譚』の大ヒット、
さらに黒澤明監督の『赤ひげ』が世界的にも高い評価を受け、彼をモデルにしたのではないかという風聞が流れ、歴史的再評価の機運が高まりました。どうやら直接のモデルではないとのことですが、享保の改革における小石川養生所設立と医療改革に小川笙船とその子孫が果たした役割は大きかったといえます。
医療改革の中身
この投書をきっかけに、八代将軍徳川吉宗は以下に掲げる医療改革に取り組みます。
1.生薬の安定供給のため、将軍就任直後には薬草を研究する本草学者を登用。
2.全国各地の薬草調査を命じ、本草学者は全国行脚に出て、情報収集と人脈作りに励む。
3.薬草に関する知識を幕府に集め、その知識を全国に広める知財ネットワークを構築。
4.調査結果を基に薬草政策の実用段階として幕府直営、諸藩経営の薬園を整備。
5.医書医学と薬学に造詣が深かった徳川吉宗は、自ら和漢の医書を収集し研究するだけでなく、医薬に恵まれない庶民のために医書の出版を命じ、医療知識の普及を図る。
医学書の出版
吉宗の命で官刻されたのは、『訂正東医宝鑑』、『増広太平恵民和剤局方』、そして『普救類方』の三点です。
普救類方
『普救類方』は、官医=幕府の医師であった林良適と丹羽正伯に命じ、紅葉山文庫所蔵の医書の中から、辺地に住む庶民にも入手可能な薬や簡単な治療法を選び、それらを平易な和文で紹介した書です。分かりやすいようにしっかりとリアルに描かれた薬草の絵も添えられています。現在、この本に対する世界的評価が高まっています。
編者のうち、丹羽正伯は本草家(薬学の専門家)として名高く、林良適は小石川養生所で治療に当たった医師の一人です。
進歩的な理念を持っていた医療・福祉施設「小石川養生所」
享保七年(1722)12月7日、ある町触が江戸の人々を驚かせます。
その内容は
- 幕府の薬草栽培施設である小石川御薬園に無料の養生所を設けることになった。
- 薬を買えないほど貧しい病人、独身で看病してくれる者のない病人、妻子皆病気で養生できない病人は入所して治療を受けるように。
- 治療中の食事、布団、着衣、寝間着なども支給する。
つまり、すべて無料の医療・看護サービスを提供するというものだったです。
町触から一週間後、小石川養生所は開設されますが、幕府の予想に反して、養生所にやってくる患者は少なかったのです。
小石川養生所設立直後の入所手続き方法は複雑で、特に四段階にわたる審査は庶民にとって、煩わしく敷居の高いものでもあったようです。
小石川養生所は人体実験施設!?という噂
そもそも「そんな巧い話には裏があるんじゃないか」と勘繰った江戸庶民は「身寄りのない者に診療に来いってことは新しい薬や質の悪い安い薬の効果を試すためじゃねぇか」と噂します。
しかし、このとき江戸庶民が考えるような意図は幕府にはありませんでした。
そこで幕府は翌年、町名主を集めて小石川養生所の見学会を実施します。
- 人体実験のように薬効を試す施設ではないこと
- 質の悪い薬は使用していないこと
せっかく作ったのだから、利用者は増やしたいというのは現代では普通の発想ですが、超格差社会にして、ガチガチの封建制度であった江戸時代。
享保の改革では緊縮財政を布き、質素倹約を推奨していた将軍吉宗から直々の命で建てた施設です。
あらぬ噂を立てられ、利用者がほとんどいないのであれば、面子よりも経費削減。すぐに廃止してもおかしくはありません。
ところが幕府はわざわざ見学会まで開き、町名主の協力も得つつ、広報宣伝に努めます。
さらに複雑だった入所手続きも驚くほど簡素化し、利用しやすく工夫します。
これは将軍吉宗がいかに大江戸の医療改革に真剣に取り組んだのかを表す証左といえます。
その後小石川養生所は一時期医者やスタッフの給与が定額制になることがあり、その時期に不正を働く者が出て、その活動に陰りが差すこともありましたが、老中水野忠邦が指導的役割を果たした天保の改革でよみがえり、幕末まで大江戸の医療・看護センターとして機能することになったのです。
小石川植物園(小石川養生所跡)
東京大学大学院理学系研究科付属植物園HP
日本語HPトップ
これだけでも一見の価値あり、充実の花暦はこちらからどうぞ。
まずは通称、小石川植物園の概要を公式サイトからの引用でご紹介しましょう。
植物園の概要
東京大学大学院理学系研究科附属植物園は、一般には「小石川植物園」の名で呼ばれ親しまれており、植物学の教育・研究を目的とする東京大学の教育実習施設です。この植物園は日本でもっとも古い植物園であるだけでなく、世界でも有数の歴史を持つ植物園の一つです。約320年前の貞享元年(1684)に、将軍職に就く前の徳川綱吉の白山御殿の跡地に徳川幕府が作った「小石川御薬園」がこの植物園の遠い前身であり、園内には長い歴史を物語る数多くの由緒ある植物や遺構が今も残されています。その中には8代将軍徳川吉宗の時代に設けられた「養生所(あるいは施療院ともいう)」の井戸もあります。明治10年に東京大学が設立されると共に、直ちに附属植物園となり一般にも公開されてきました。面積は、161,588m2(48,880坪)で、台地、傾斜地、低地、泉水地などの地形の変化に富み、それを利用して様々な植物が配置されています。この植物園は日本の近代植物学発祥の地でもあり、現在も自然誌を中心とした植物学の教育・研究の場となっており、特に東アジアの植物研究の世界的センターとして機能しています。植物園本館に納められた植物標本は約70万点(植物標本は、東京大学総合研究博物館と一体に運営されており、全体で約170万点収蔵されています)、植物学関連図書は約2万冊で、内外からの多くの植物研究者に活用されています。また、栃木県日光市には、1902年に設立された「日光分園」があり、東京では栽培の難しい山地植物に関する教育・研究が行われております。この植物園も一般に公開されており、「日光植物園」の名前で親しまれています。なお、日光分園の公開期間は4月15日から11月30日であり、冬期は一般公開をしていないことに御留意下さい。
小石川植物園園内風景
小石川植物園、五月の植物
本日のBGM
西村由紀江「しあわせの花」