夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

千寿七福神(千住七福神)

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千住宿千寿七福神めぐり

千住宿の歴史

江戸時代、徳川幕府の政策として名高い五街道の整備。日光街道、奥州街道の初宿として栄えた千住。

歴史をさかのぼると鎌倉時代から宿場町として開拓され、水戸佐倉海道とも呼ばれたルートにも入ります。

さらには隅田川、荒川にも囲まれたこの土地は水陸交通の要衝として、江戸時代に始まった青物市場(=やっちゃば)など農作物の物流拠点としても繁栄した千住。

今回はその千住の街に設定された七福神を巡る散歩コース、現在のJR、東武北千住駅を中心に七カ所の神社を歩きます。

葛飾北斎、歌川広重の風景画にも描かれ、松尾芭蕉はこの地で、名句「行春や鳥啼魚の目は泪」を詠み、森鴎外旧居跡が残っています。

それでは千住の街を歩き、不況退散!七難除いて、「千の寿」招福散歩をご一緒に。

千寿七福神めぐり地図(MAP)

葛飾北斎作富嶽三十六景「武州千住」


江戸最大の宿場町、千住は江戸へ野菜を供給する一大農村地帯でもありました。

「千住ねぎ」が特に有名で、この画には馬に担がせている荷に「千住ねぎ」を描き、画面中央に隅田川、田畑に水を供給する際の調整を行う水門、現在の位置関係からみると尾竹橋と推測される水門の間から富士山が見えます。

その富士の三角形に呼応するように逆三角形、三角形の連鎖という緻密な仕掛けが、見る人に問いかけるように一枚の絵を構成しています。

世界中の人々を魅了してやまない葛飾北斎の画技、見事というほかありません。

プロット=筋立てを読み解くように見ると構図の妙に感動する富嶽三十六景をはじめとする風景画群は葛飾北斎が71歳からわずか四年の間に描いたというからさらに驚きます。

20歳から90歳の没年まで、70年もの長きにわたり、斬新な構図、豊かな想像力、貧窮の中にあっても衰えることを知らぬが如き創作意欲と自らの作風を革新し続けた北斎の生き様は高齢化時代に生きる私たちに多くの示唆と勇気を与えてくれます。

隅田川に最初にかけられた橋、千住大橋。今回は京成本線千住大橋駅からスタートします。駅を出て日光街道(国道4号線)沿いに歩くと、中央卸売市場足立市場(=やっちゃば)の活気溢れる町の鎮守社があります。

河原町稲荷神社<福禄寿:人望福徳>

河原(かわら)町稲荷神社は、明治維新後は千住町中組堤外西耕地の村社、現在は東京都中央卸売市場足立市場(やっちゃば)の鎮守で、千寿(千住)七福神の福禄寿が祀られています。
早速バーチャル参拝をどうぞ。

河原町稲荷神社福禄寿

河原町稲荷神社狛犬

風格のある狛犬、作者は不明ですが、こんな説明書きが境内にありました。

なるほど、なるほど、雰囲気があります。

河原町稲荷神社天水漕

周囲281cmという大きな鋳鉄製の漕が置いてあります。

この神社の神輿は千貫神輿といって、河原(かわら)のやっちゃばの旦那衆が金に糸目を付けず造ったものだといわれています。現在も祭りとなると熱気溢れる担ぎ手によって、威勢よく街を練り歩くことで有名です。

次は墨堤通りを東へ歩き、氷川神社へ。

仲町氷川神社<弁財天:芸道富有>

仲町氷川神社は、足立区千住仲町にある氷川神社です。仲町氷川神社は、牛田にあった氷川神社を元和2年(1616)当地へ遷座したといわれ、牛田には延喜年間(901〜23年)から鎮座していたといいます。千寿七福神の弁財天です。

仲町氷川神社拝殿

それでは茅の輪をくぐって、バーチャル参拝をどうぞ。


旧日光街道を抜け、ふたたび日光街道に向けて、路地を歩き、八幡神社へ。

白幡八幡神社<毘沙門天:勇気授福>

八幡太郎源義家が永承5年(1050年)に千住に滞陣した時、本陣を二ツ森(現在の千住神社)に置いて、この地に白幡をたてたといわれます。その時神前に奉納された扇を祀ったのだ当社の始まりとされます。


日光街道沿いにあります。それではバーチャル参拝をどうぞ。


千住神社<恵比寿神:愛敬富財>

平安時代の延長4年(926年)、千崎稲荷として祀られたのが始まりで、元寇の役の直前弘安2年(1279年)に氷川神社が勧請されました。

千住宿が出来るまでは二ツ森といわれ、千住の宿場町が栄えてからは宿の西にあったので、西森神社(西森様)と呼ばれ、地元の人々だけでなく、旅人からも親しまれました。

明治になると両社を合併し、大正年間に現在の千住神社と名称を変更して、社格は足立区内で最高唯一の郷社になりました。現代においても風格を感じます。

千住神社由緒

石碑の由緒を確認して、

当神社は、千住に集落が形成された、延長4年(926)土地鎮護と五穀豊穣を祈って、伏見稲荷より御分霊を勧請し、稲荷神社を創立した。永承6年(1051)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ツ森(千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されている。弘安2年(1279)に武蔵国、一の宮氷川神社の御分霊を勧請し、氷川神社を創立した。この為にここを二ツ森と言っており、旧考録には、代々の将軍が鷹狩りを行ったという記事が随所に記録されている。寛永年間に至って、千住が日光街道の第一宿となり、当神社は、その西方にある為に、西の森とも言われた。江戸時代までは、稲荷神社と氷川神社の二つの神社があったが、明治5年11月18日、両社は村社と定められ、更に翌6年6月には、稲荷神社を氷川神社に合祀し、西森神社と名を改めた。同年7月5日に、足立区内最高唯一の郷社と定められ、更に大正4年12月15日以来、千住神社と改称した。昭和20年4月、戦災にあい、全ての建物は焼失したが、33年以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備された。

足立区教育委員会による掲示ではこんな風に説明されています。

およそ一千年前、この地は千崎という丘陵で、原始的森林地帯であった。やがて開拓民がここに住みつき、延長4年(926)に稲作の神を勧請し、石造の祠を建て、千崎稲荷神社として五穀の豊作を祈願していた。 弘安2年(1279)氷川神社を勧請したので、二つの神社が原始林の中に並び、「二ツ森」とも言われて、住民の信仰を集めた。
江戸時代の初期、日光街道が開通すると、千住は初宿となり、宿場の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治6年千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して、西森神社と号し、大正4年に千住神社と改称した。 祭神は、須佐之男命と宇迦之御魂命の二神を祀り、明治7年に区内唯一の郷社に列せられた。当社殿は、昭和20年4月13日の空襲で焼失したが、氏子の厚い信仰と熱誠により昭和33年9月、現在の社殿(権現造り・流れ作り・神明作りの三者混合)が完成した。(足立区教育委員会)

千住神社社殿

まずは豪華で緻密な造りの社殿に参拝することと致しましょう。

千住神社富士塚

立派な富士塚や

千住神社恵比寿天

珍しい恵比寿様もあり、

願掛けの方法もユニークです。

熱心に末社、摂社をひとつひとつお詣りされる方を多数お見かけしました。
続いて墨堤通りを一気に荒川に掛かる西新井橋方向に歩きます。

北千住グルメ

北千住周辺には帝京科学大学、東京藝術大学千住キャンパス、そして2013年4月には東京電機大学も神田錦町からお引越し。

近隣の沿線には3年B組金八先生のロケ集合場所としても有名な東武線堀切駅に東京未来大学。

地下鉄千代田線乗り入れの常磐線JR金町駅には東京理科大と、この数年で学生の皆さんも多く住む街に変貌し、駅周辺もすっかりキレイに整備され、活気があふれています。

宿場町として栄えた旧家、史跡溢れる街並みには老舗の名店から

昭和の麗しき文化、喫茶店や

新しいカフェ、個性的なお店も増え、北千住は歴史と伝統に支えられたグルメの街でもあります。

それでは七福神めぐりに戻りましょう。

昭和39年まで写真家たちの撮影意欲を掻きたてたお化け煙突があった土地に帝京科学大学のキャンパスが立ちましたが、その脇には鎌倉時代に作られた宿場がありました。

元宿神社<寿老神:延命長寿>

元宿神社感旧碑

読む人の心に迫る文章「感旧碑」です。


それではバーチャル参拝をどうぞ。

元宿神社、ぼけ封じ、寿老神


地元の郷土史研究家によるとこの荒川土手周辺の産土神は特別なパワーを持っているという言い伝えがあるそうです。

水害をはじめとする江戸時代の天変地異や大飢饉、関東大震災、東京大空襲と何度も何度も壊滅的な打撃を受けては立ち上がり、人々が力を合わせ復興を遂げた町のパワーにも祈りの歴史が見出せるかもしれません。

「歴史を学ぶ、歴史から学ぶ、それはいまを生きるために」恩師の教えがいまでもこころに響きます。

続いて荒川土手沿いを南に下ります。ここが千住最大のパワースポット、大川町氷川神社です。

大川町氷川神社<布袋尊:清廉度量>

大川町氷川神社社殿

まずは社殿に参拝し、

大川町氷川神社布袋様

布袋様にもご挨拶。

大川町氷川神社富士塚

そして今回の大本命、千住宿、最強のパワースポット富士塚です。

富士塚は文政7年(1824)築造。最近木花開耶姫命。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。 明治44年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正5年5月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和43年6月現在地に移築復元され、今日に至っている。塚は、富士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ3mである。山頂に、天保2年(1831)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政7年(1824)のもので丸藤惣同行富士33度大願成就とある。この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住13夜同行と呼ぶ。講中は、千住5丁目と、千住大川町全域に及び、かつては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。毎年7月1日祭礼が行われる。

この富士塚はいつでも登ることができます。

実に緻密に模造されていますので、一見の価値あり、興味のある方はぜひ一度登ってみてください。


頂上からの眺めはこんな感じです。

荒川土手散歩や3年B組金八先生ロケ地探訪のついでに、この富士塚にちょっと寄ってみてはいかがでしょう。おススメです。

富士塚のおかげで、すっかり足取りも軽くなり、さらに勢いを増す写真散歩はいろは通り商店街を抜け、宿場町の香り高き街並みをドンドン歩きます。

千住本氷川神社<大黒天:有富蓄財>

千住宿千寿七福神巡り、ラストは北千住駅方向へ向かい、日光街道を越え、千住本氷川神社へ。

千住本氷川神社由緒

神社の由緒を確認します。

千住本氷川神社は、徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建され、江戸時代初期、当地に分社として建立しました。明治43年(1910)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに和45年に社殿を新築して現在に至っています。千住七福神の大黒天です。千住本氷川神社は、徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。その後、明治43年(1910)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和45年に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されている。旧社殿向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っている。本殿は方一間余りの木造で、切妻造りの平入り形式をなし、屋根は箱棟こけらぶきで、勾配が美しい曲線を呈している。軒回りは二重橑となり、組物も巧緻で処々に彫刻が施され、趣きのある社殿である。(足立区教育委員会)

千住本氷川神社旧社殿

「旧社殿向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っている」と説明があるように江戸最大の宿場町にある由緒正しき神社は造りが緻密で豪華です。

町の隆盛は神社の造りにも良い影響をもたらしたのでしょう。徳川家も日光への参詣、時代が江戸中期以降になれば、日光へ向かう人の流れ、奥州へ向かう人の流れとドンドン増え続け、発展した姿をこの社殿は教えてくれます。

千住本氷川神社社殿

茅の輪をくぐって、穢れを払い、社殿へ。

それではバーチャル参拝をどうぞ。

現在の社殿も二重の破風を形成し、立派です。

北千住駅起点にして七福神巡り、まずは街の情報を、という方は以下のウェブサイトをぜひご覧ください

あだち観光ネット(足立区観光交流協会)

ウェブサイトはこちら↓、ぜひお出掛け前にご覧ください。

水辺と歴史の街、千住。全国から学生さんが集まり、とても活気のある街になってきました。機会があれば、ぜひ。それではまた。