高輪、地名の由来
高輪という地名の由来を調べてみると、時代を15世紀までさかのぼることになり、軍記物語に高縄原という地名で紹介されていることがどうやら始まりのようです。
一本の縄をピンと張ったように長く続く道を縄手と呼び、丘陵地=高台にあった高縄手道を略して、高縄と呼んだことがこの地名の由来です。
高輪潮の香散歩
今回は高輪潮の香散歩、都営地下鉄浅草線泉岳寺駅を起点に旧品川宿周辺入り口までを散歩します。
高輪大木戸と品川宿
日本史上最大の城下町に成長した江戸。高輪大木戸はその江戸市中への東海道からの入り口を意味します。宝永七年(1710年)江戸幕府は高輪に石垣を築き、高札場を設け大木戸としました。
江戸時代以前から漁港、商港として栄え、江戸幕府成立以降大名の参勤交代が起爆剤となり、一大宿場町として繁栄した品川宿も目と鼻の先であることから、東海道を西へ旅する人を見送ることを口実に(苦笑)遊興目的で出かけてくる人も多く、江戸名所図会などにもその様子が生き生きと描かれています。
文化の担い手に市民、町民が主役の座に躍り出た化政文化
行楽というレジャーが日本の歴史上はじめて庶民のものとなり、町民が中心となった文化が花と咲いた江戸時代、文化・文政年間。海辺の町で風光明媚、しかも大江戸という大消費地のお膝元、品川港周辺という地の利。新鮮な魚介類も入手しやすいことから、次々と誕生した外食サービスや参道の土産物を買い求めるといった楽しみが神社仏閣へのお詣りとセットになって味わえる、江戸っ子がワクワクして訪れる街でもあったのです。
「二十六夜待」講とは何か?
さらに月見の名所でもあった高輪には前回の記事でご紹介した「二十六夜待」講で訪れる人も多かったようです。
月待とは月の出、その三つに分かれて輝く光の中に阿弥陀・観音・勢至と三尊が現れるという言い伝えをもとに、自然信仰と仏教が融合した月待講が結成されることで広がった日本的な信仰スタイルのひとつです。
月待講は当初、特定の月齢に合わせ精進潔斎をし、月の出に念仏題目を唱えて拝礼するという信仰目的で訪れる人が中心でしたが、泰平の世が続くことで次第に信仰目的は薄れ、江戸の町民たちの間では富裕層を中心に、いちばん遅い時間の月待であった「二十六夜待」の人気が高まり、正月と七月は夜を徹して盛り上がるという宴が主体となります。
さらに時代が進むと月待講は主婦が食事の支度や家事から解放される慰安の日になり、家族連れ立って外食を楽しみ、月の出に拝礼するというカタチが定着し、一大ブームのような盛り上がりを見せます。一番月の出が遅い二十六夜を信仰と娯楽をセットにして選んだことからも江戸っ子は宵っ張り、その気風がよく分かります。
江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇ
江戸勤務の地方武士や僧侶も高輪、品川の魅力に魅かれ、数多く出かけたことが記録に残っていますが、この時代のお大尽は水茶屋で遊ぶ者、舟遊びを楽しむ者と遊興のスタイルは次々と革新され、「江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇ」ってくらい派手に、歌妓、芸人、そして最先端のファッションリーダーでもあった遊女らと共に、月待の宴を楽しんでいたようです。それを象徴的に描いたのがこの作品です。
歌川広重作名所江戸百景「月の岬」
「月の岬」は高輪海岸に面した月見の名所でした。満月が煌々と江戸湾の賑わいを照らし出し、東南の方向に開けた座敷には宴のあとが、さらに簪を五本差しにした粋な姐さんが障子越しにシルエットで描かれています。
江戸のファッションリーダー
当時簪を3、5、7と奇数本指すのが当時ファッション界のリーダーであった妓楼に勤める女性たちの習慣でした。構図の巧みさ、数々のプロットが仕掛けとなり、広重流パースペクティブと見事に一枚の絵の中で融合し、そこに一篇の物語を構成し、見る者に読み解かせる、さすが広重と唸ります。
それでは今回の写真散歩をスタートしましょう。花粉の飛散も収まり、初夏の日差しのなか歩いた記録をもとにお届けします。まずは泉岳寺から。
泉岳寺
泉岳寺山門
東京大空襲で焼かれ、江戸時代の雰囲気を色濃く残すものは山門しかありません。
とはいえ、このお寺は何と言っても「忠臣蔵」で一躍その名前は全国区となり、いまやアジアの近隣諸国からだけでなく欧米からの参拝客も数多くなりました。この日も欧米人の多さに驚きました。
泉岳寺の歴史
創建は慶長十七年(1612)現在の桜田門外、警察庁があるあたりに建立された曹洞宗のお寺です。今川義元の孫(三男という説もある)門庵宗関(もんあんそうかん)が徳川家康の幼馴染であったことから開山したとなっています。しかし寛永十八年(1641)の大火で焼失し、同じ年に現在の場所に移ることになったのですが、なかなか再建作業が捗らず、三代将軍徳川家光は播磨赤穂の浅野家、長門の毛利家、下野の大田原家、丹波福知山の朽木家などの大名に命じて、復興を進めます。これがきっかけとなり播州赤穂の浅野家との縁も出来、他家同様、菩提寺となります。
江戸時代、寺社奉行から出される指示や奉行との交渉事を行う各宗派の「触頭」と呼ばれるお寺が選ばれますが、泉岳寺は曹洞宗の江戸触頭三カ寺のひとつで重きを置かれ、七堂伽藍を誇り、数百人の修行僧が学ぶ九棟の学寮も備えた大寺、いまでいう大学のような役割も果たしたと記録に残っています。
港区高輪、現在の萬松山泉岳寺には玉垣には演劇関係者の名前も多く、数々の石碑、記念館と忠臣蔵関係の史跡がたくさん残っています。
赤穂浪士墓所
泉岳寺を離れ、激動の幕末史に名を残す東禅寺へと向かいます。海上禅林 佛日山 東禅興聖禅寺(臨済宗妙心寺派)
東禅寺の歴史
この東禅寺は臨済宗妙心寺派の禅刹で、同派江戸触頭四カ寺の地位にありました。開山は慶長十四年(1609)で嶺南崇六が麻布の地に建てた一宇が始まりです。それが現在の霊(嶺)南坂という坂の名前に残っています。余談になりますが、霊南坂といえば、三浦友和・山口百恵夫妻が結婚式を挙げたことで有名になった霊南坂教会がある場所ですね。その霊南坂から寛永十三年(1636)に現在地に移りました。それから222年後の安政五年(1858)江戸幕府が安政の五カ国条約と呼ばれる修好通商条約を結び、ここ東禅寺はイギリス公使の宿館となりました。
第一次東禅寺事件
その三年後には尊王攘夷派の水戸藩士14名が東禅寺を襲撃(第一次東禅寺事件)で双方多数の死傷者を出し、さらに翌年文久二年には松本藩士がイギリス水兵と争い、二名を殺害し自刃するという第二次東禅寺事件も起こります。生麦事件と合わせ幕府は莫大な賠償金を払うこととなったのです。
品川宿歴史散歩
利田神社
利田神社は、寛永3年(1626)に、東海寺の沢庵が弁財天を勧請したのが始まりとされます。当地一帯は安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけて、南品川宿名主利田吉左衛門により開発されたことから利田新地と呼ばれ、当社も利田神社と称します。当社内には寛政10年(1798)5月に暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑鯨碑があります。
歌川広重作江戸名所百景「品川洲崎」
この絵に描かれている洲崎弁天が現在の利田神社です。往時を偲ぶ手掛かりになります。
さらにこの後、我が家は筋温上昇、勢いに乗って、東海七福神二回目の巡礼に出ますが、それはまた別の機会に。
本日のBGM
今日はなぜかリリカルなボーカル曲が気分で、カーペンターズのこの曲をどうぞ。
The Carpenters「The end of the world」
追記
はてなダイアリー10周年おめでとう!、本当におめでとうございます。素晴らしい「はてな」の各種サービスを支えるスタッフの皆様、ご苦労さまです。くれぐれも健康には留意され、御身大切に。いつもありがとうございます。古くから日記文学の国、記録を残すことの大切さをこよなく愛してきた日本を代表するブログサービスとして、これからも日々着々と進化、発展されますよう心よりお祈り申し上げます。
目次:本日の記事を振り返ります