夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

建長寺(鎌倉五山第一位)

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抜けるような青い空。10月の三連休ともなれば、陽射しも秋へと移り変わり、柔らかいラインライトが美しい季節です。

三回目を迎えた「武家の古都鎌倉を歩く」をテーマにした夫婦写真散歩。

臨済宗建長寺派大本山、巨福山建長興国禅寺

この日の古都鎌倉は時折心地よい風が谷戸を吹き抜け、歩く楽しみを満喫できる陽気でした。

今回は臨済宗建長寺派大本山、「巨福山建長興国禅寺」(通称:建長寺)をご紹介します。

休日にも関わらず、鎌倉学園の学生たちが溢れる天下門に着き、

建長寺天下門



案内板を眺めます。いくたびも地震、火災による焼失を乗り越え、再建された伽藍配置を確認します。

建長寺伽藍配置図


隣接する鎌倉学園といえば、桂米丸落語芸術協会最高顧問や堺正章さん、桑田佳祐さんをはじめ、プロ野球選手、文化人、政治家など数多く輩出した中高一貫の進学校。

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金属バットに硬球が当たる独特の打球音が谷戸に響く午後。建長寺を歩きます。

建長寺総門

大きな福をもたらすという意味の「巨福山(こふくさん)」。「巨」の字に打たれた点は百貫点と呼ばれています。

揮毫:趙子昂もしくは一山一寧

揮毫は趙子昂とも一山一寧ともいわれる重厚な書が掲げられた総門をくぐり、

両脇を桜の木が並ぶ総門から続く参道を進むと、1996年に大修復が行われた三解脱門(三門)が雄大な姿で人々を迎えてくれます。

三解脱門


日本初の禅専修道場であることを表す大額に書かれた後深草天皇による直筆の「建長興国禅寺」の文字が掲げられた三門楼上を仰ぎ見ます。

後深草天皇直筆「建長興国禅寺」の文字

梵鐘(国宝)

創建当時から残る貴重な文化遺産です。


三門下にはおびんずるさまがキュートな表情で迎えてくれます。

悪いところを撫でるとご利益があります。それではバーチャル撫で撫でをどうぞ。

おびんずるさま


三門をくぐり抜けると、樹齢約750年、このお寺の開祖、蘭渓道隆お手植えのビャクシン(柏槙)の迫力ある姿が。

蘭渓道隆お手植えのビャクシン(柏槙)


建長寺仏殿(重要文化財)

創建後、幾たびも火災に見舞われましたが、現在は芝・増上寺から江戸幕府二代将軍徳川秀忠夫人、崇源院の霊廟を移築、再建された堂宇です。単層寄棟造りですが、軒下に裳階と呼ばれる庇のような屋根が付いているため二層構造のように見えます。

もともと霊廟建築として造られたものなので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっています。したがって屋根は入母屋造でなく寄棟造です。また、天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いのですが、この仏殿の天井は和様の格(ごう)天井です。内部の柱には漆が施され、徳川家の信心の深さと威光はここ建長寺の再建でも発揮されました。

建長寺の歴史

建長寺が建てられたこの場所はかつて地獄谷と呼ばれる刑場であり、風葬の地でもありました。心平寺という地蔵菩薩を安置するお寺もあったこの地が北条家の所有となってから、それまでの信仰を受け継いで衆生を地獄の苦しみから救い、仏の道へ導く地蔵菩薩を本尊にしています。

中国で始まった禅宗は本来特定の本尊を祀ることはしないそうです。しかも仏としての位は高くないが、最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩である地蔵菩薩を本尊するのことも大寺院ではとても珍しいことでした。

禅宗の寺院として、北条時頼によって開基された建長寺は武家社会を築き、京都とは違う新しい文化、宗教を考えていた鎌倉幕府、北条得宗家にとって、禅宗の厳しい修業、戒律、さらにそれまでの常識を打ち破るような発想を持っていたことも鎌倉武士の気風に合致し、ふさわしいものと考えられたのかもしれません。当時の公式歴史書『吾妻鏡』のなかにも「丈六の地蔵菩薩をもって中尊となし、また同像千體を安置す」と書き記されています。

蘭渓道隆と北条時頼

開山:蘭渓道隆
蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は1246年(寛元4年)33歳のとき、渡宋した泉涌寺の僧月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日した。筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、退耕行勇の開いた常楽寺(神奈川県鎌倉市)の住持となった。

1253年(建長5年)、北条時頼によって鎌倉に建長寺が創建されると招かれて開山となる。建長寺は、純粋禅の道場としては栄西の開いた筑前国の聖福寺(福岡市博多区)に次いで古い。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間であった。当時の建長寺の住持はほとんどが中国人であり、無学祖元はじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例となっていた。『沙石集』を著した無住は、『雑談集』のなかで、建長寺はまるで異国のようであるとの感想を記している。

蒙古襲来(元寇)の際、元からの密偵の疑いをかけられ、甲州や奥州の松島、伊豆国に移された。その時修禅寺の改宗を行う。

のち京都建仁寺・寿福寺・鎌倉禅興寺などの住持となった。一時、讒言により甲斐国(現:山梨県)に配流され、東光寺などを再興したが、再び建長寺にもどり、1278年(弘安元年)同寺で没した。

開基:北条時頼

幼い頃から聡明で、祖父泰時にもその才能を高く評価されていた。12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが『吾妻鏡』に収録されている。

兄北条経時の病により執権職を譲られて間もなく、経時は病死した。このため、前将軍藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反得宗勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである。

翌年、宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。続いて千葉秀胤に対しても追討の幕命を下し、上総国で滅ぼした。これにより、幕府内において反北条氏傾向の御家人は排除され、北条氏の独裁政治が強まる事になった。一方で六波羅探題北条重時を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚、時宗、宗政を儲けている。

時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年から3か月に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。

本尊 地蔵菩薩坐像

像高239.5cm、台座を含めると479.5cm。15世紀初頭の作品と推定されています。万民を救うために安置されたご本尊、しっかり参拝致しました。それでは皆様も庶民の味方、お地蔵様にバーチャルお願いごとをどうぞ。

唐門、法堂、寺務所を望む


唐門、方丈


けんちん汁発祥の地

建長寺といえば、けんちん汁の発祥の地。開山の名僧、蘭渓道隆が野菜を細かく刻み、エゴマの油でいため、昆布と椎茸で出汁を取り、豆腐をくずして、多くの雲水(修行者)たちに分け与えられるように工夫したものといわれています。南宋で使われていた発音では「建長」を「ケンチャン」というそうで、それが時が経つうちに建長寺で出される汁=けんちん汁となったといいます。建長寺のけんちん汁のレシピ、精進料理は書籍化されています。ご参考まで。

建長寺と鎌倉の精進料理―七百五十年受け継がれた建長けんちん汁の精神を家庭で活かす

建長寺と鎌倉の精進料理―七百五十年受け継がれた建長けんちん汁の精神を家庭で活かす

純粋禅のたいへん厳しい修業は現在も行われています。
拝観のルールを守り、静かに歩きましょう。

半僧坊

伽藍配置のお堂を一通り歩いたら、建長寺の鎮守社、半僧坊に向かいます。神仏習合という日本特有の文化の表れでもある建長寺境内のもっとも奥まった場所にある鎮守社へ向かいます。

半僧坊鳥居


250段余りの急な石段をひたすら上ります。

すると十数体の天狗がお出迎え。

天狗



地蔵尊

お地蔵様も凛とした立ち姿、お地蔵様に立像が多いのはすぐに万民を救いにいけるよう、いつ何時も立っているのだそうです。

いよいよ見えてきた半僧坊。

境内を一望できる高台からは

富士見台

富士山や

相模湾・大島見晴台

相模湾、大島も見渡せます(空気が澄んでいれば)。

半僧坊縁起

奥の院



膝、腰、足に故障を抱えていなければ、ここまで歩くことをおススメします。

しばらく見晴らしの良い場所と空気を味わい、季節の植物をメモしながら下山します。


ふたたび三門へ。


格式の高さを表す五本線の壁、定規筋の築地塀をメモして、

切通しを抜け

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮、倒れたことで切られた樹齢1000年の公孫樹(いちょう)と境内をメモ。

源頼朝、源実朝、北条政子、武家社会の到来がもたらした人間ドラマに溢れる鎌倉時代の歴史に思いを馳せながら、ゆっくり散策と思いきや、NIKON F5+大三元レンズ&特注プロストラップ、ニコンとミレーのコラボで作られたカメラザックといかにもな姿で歩いていたことが引き寄せ効果?を発揮し、記念撮影を次から次へと依頼されてしまい(苦笑)人だかりが出来てしまいました。

途切れた一瞬を見逃さず、喫茶店へそそくさと避難(笑)。

十月のかき氷

真夏日の三万歩越えに私は「十月のかき氷」で小休止。

夕焼けに染まる稲村ケ崎、七里ヶ浜


こうして鎌倉歴史散歩の一日は暮れていきました。

夜はJR鎌倉駅近くをグルメ探訪と欲張り。

まだまだ鎌倉散歩は続きましたが、いずれまた。本日もお付き合いいただきありがとうございます。