夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

新田荘史跡巡り(金山城址、生品神社、明王院)

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上州路歴史散歩(後編)

上州路歴史散歩の後編は新田荘(庄)=群馬県太田市周辺の史跡をめぐります。

新田金山城址

まず太田市の中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、金山(かなやま)に築かれた山城、新田金山城址を歩いた記録から始めましょう。

金山山頂付近で出会った新緑と紅葉


『太平記』の時代、南北朝の動乱以降、上野国守護職はわずかな例外を除き、ほぼ上杉氏に独占されていきます。

関東管領の地位、武蔵・伊豆・越後の守護職も兼帯し、京都・室町幕府との結びつきも強く、関東平野に大きな政治力を確立します。

新田氏本宗家没落後、新田地方では岩松氏が支配権を掌握していきました。

岩松氏の時代

新田氏一族の岩松家純(いわまついえずみ)が京兆家と礼部家の二系統に分裂していた岩松氏を統合し、応仁3年・文明元年(1469)にその重臣横瀬国繁に命じ、世良田長楽寺の僧、松陰軒西堂の縄張りにより金山城を築かせました。

岩松氏とはどんな一族だったのか?

岩松氏は新田荘岩松郷(新田郡尾島町岩松)を名字の地とする新田氏の一族で、足利義純と新田義兼の女(むすめ)との子である岩松時兼を祖としています。

鎌倉時代後期には新田本宗家をしのぐ勢力を持つに至りました。南北朝内乱期に足利方として行動、新田義貞を中心とする南朝方新田氏が滅んだ後、新田荘を支配し、新田氏とも称しました。

公園として整備されている史跡は歩きやすく、この日は幅広い年代の人たちで賑わっていました。

豊臣秀吉による小田原征伐が行われた時代に攻め滅ぼされ、廃城になっているため、天守や城郭建築があるわけではありませんが、山城として築かれた頃の遺構が復原されている箇所もあるので、ゆっくり眺めながら歩きます。

太田金山城


天下統一を目指す豊臣秀吉は新たな禍根を残すことが容易に想像できる難攻不落の山城は廃城にする必要がありました。

難攻不落の山城

現在は往時を偲ぶことしかできませんが、これは難攻不落も納得できます。

さまざまな「守り」の工夫が凝らされています。

実際に歩いてみると、これは攻め落とすのは大変です。
いかに優れた戦略、戦術をもってしても、圧倒的な兵力と十分な兵站、そして相当な覚悟が必要だったことでしょう。

地政学上も関東平野を一望できる眺めの良い場所は重要だと考えられるのも頷けます。

南側の眺望

赤城山方向を望む



南麓はアカマツが多いのですが、さまざまな樹木に囲まれた太田金山です。

アオダモの花

ムラサキハナナ(中国名:諸葛菜)


ボランティアガイドの方々と地元歴史談義に花を咲かせ、太田金山の植生についてもいろいろ話込んで、盛り上がっておりました。




次は時計の針を100年以上前に戻し、『太平記』の時代、日本史の画期をなす内乱の時代へと遡り、その史跡を歩きましょう。

『太平記』とその時代

『太平記』とは全四十巻にもおよぶ中世、軍記物語の傑作です。

私本太平記 文庫 全8巻 完結セット (吉川英治歴史時代文庫)

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日本の古典をよむ(16) 太平記

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「太平記」の成立

十四世紀半ばごろ、応安四年(1371)八月から応安七年(1374)に原型が成立したと考えられています。

作者は未詳と書くのが無難なので、多くの教科書、文学史にはそう書かれていますが、近年精緻な研究が進んできました。

その成果を総合すると、まず恵鎮上人という律僧の編集チームが制作し、原型が成立。

室町幕府の足利直義らの前で、当時を代表する学問僧、玄恵法印に読んでもらったという今川了俊『難太平記』の記述があります。

法勝寺の恵鎮上人は30余巻を等持寺へ持参したとありますから、ここから『太平記』の前半から中盤以降の改訂・増補がはじまったと考えられています。

今日の四十巻本にはここに登場する足利直義、恵鎮上人、玄恵法印の死亡記事もあるので、彼らの死後長い時間をかけて、訂正・増補の作業が行われたことも確かでしょう。

また左大臣洞院公定の日記『公定公記』応安七年(1374)五月三日の条に、「伝聞するところ去る二十八、九日の間に世間で評判の『太平記』の作者である小島法師が亡くなった。その死が惜しまれる」という事実が趣意の日記が残されているところから、『太平記』の重要な部分を小島法師が担当し、複数の人物がその修補に携わったと考えられています。

「太平記」誕生の背景

『太平記』誕生の背景には膨大な数の情報提供者の存在があり、南北朝動乱の世を生きていた公家・武家、守護大名、悪党、僧侶、神人から一般庶民、芸能人、野伏・あぶれもの=無法者にいたるまでありとあらゆる階層が深く関与した当時の日本国民による共同制作とも考えられるのです。

その内容は強烈な個性を持つ後醍醐天皇の北条得宗家討伐の陰謀に始まり、鎌倉幕府の滅亡、天皇親政による建武中興とその破綻、新田義貞と足利尊氏の対立、大義名分に翻弄される武家の貴種、新田義貞・足利尊氏、機略縦横の智将、楠木正成など壮絶な人間群像が史実に近い形で物語は展開していきます。

「太平記」巻七、新田太郎義貞登場

『太平記』巻七では新田太郎義貞は清和源氏の総本家筋に当たる名門の出、八幡太郎義家十七代目の子孫として、どこまでも謙虚に歴代武門の栄誉を守るため、大義名分を重んじ、後醍醐天皇の心を安らかにして差し上げようと考えます。

そこで執事の船田入道義昌に何とか勅命(天皇の命令)を得ることができないかと打ち明けます。

この後、新田義貞は後醍醐天皇の綸旨を得て、感激し、歴史の表舞台、しかも檜舞台に登場します。

生品神社

「朝敵征伐という大義のもと、幕府に謀反を起こし、義兵を挙げて運を天に任せよう」という一言で一族をひとつにまとめ、元弘三年(1333)五月八日早朝、群馬県太田市にある生品明神の社前で討幕の旗揚げをして、鎌倉へ向かいます。

生品神社に参集した軍勢は150騎に過ぎませんでしたが、兵を進めるに従い数を増やし、9日夕方には総勢20万7,000余騎もの大軍に膨れ上がったといいます。

生品神社境内




またこの地は日本ハムファイターズに入団した、早稲田大学野球部第100代主将、斎藤佑樹投手の出生地。
生品神社にもきっと御参りにいったことでしょう。


生品神社境内は、昭和9年(1934)に「生品神社境内新田義貞挙兵伝説地」として国指定史跡になりますが、平成12年(2000)に「新田荘遺跡生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。

新田義貞ゆかりのくぬぎの木

神社拝殿の前には義貞が軍旗を掲げたと伝えられるくぬぎの木の古木が保存されています。

「太平記」後半に描かれる新田義貞

武蔵国小手指原(現在の埼玉県所沢市)、分倍河原(東京都府中市)での北条高時の弟泰家率いる幕府軍と激闘を繰り広げ、ギリギリのところで武運が義貞に味方します。

三浦一族の大多和義勝が相模国から加勢したこともあり、奇襲を敢行。鎌倉幕府軍は鎌倉に敗走します。

そして稲村ケ崎で「海神に剣を捧げ」た有名な逸話を残す天地を揺るがす鎌倉合戦という歴史に名高い大接戦に勝利した新田義貞。

北条得宗家からこれでもかというほど冷遇されながら、地道に新田荘(庄)の経営に勤しんでいた真面目な源氏の末裔、武家の貴種は積年の鬱憤を晴らすことが出来たのです。

『太平記』の文体は漢文色の強い和漢混交文で書かれていて、特に旅の光景や旅情を韻文調で表現した華麗な道行文(みちゆきぶん)は縁語、序詞、掛詞の技巧を凝らし、七五調の美しい流れを味わうことができます。

この鎌倉合戦後、北条得宗家打倒の最大の功労者であるはずの新田義貞が辿った数奇な運命はぜひ『太平記』で。

読む人のこころまでも映し出すかのようなリアルな描写による人間像、複雑に絡まる時代相を眺望したこの作品は森羅万象ことごとく、自らのうちに因果の種を蔵して、相関の海に浮き沈みするという人の世の真実を照らします。

新太平記(1) (山岡荘八歴史文庫)

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NHK大河ドラマ総集編DVD 太平記 3枚組

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新田荘史跡巡り

さて、生品神社のあと、お昼休憩は太田市にある老舗酒蔵のカフェ「喫茶室・サロンかぜくら」へ。

今井酒造店公式サイト

サイトも充実した内容です。豊富な写真解説でご覧いただけます。
https://www.kaze-kura.com/

東京から一気に姿を消しつつある古き良き喫茶店文化=居心地の良さが味わうことが出来、ドリンクメニュー、フードメニューの充実ぶりに感動しました。

案内してくれたY社長と我が夫婦で三種類ずつドリンク、フードを注文しましたが、どれも絶品! 外食で久々の大感動です。

近所にあったら毎日通いたくなることでしょう。

酒蔵を経営されていることもあるのでしょうか、お水が美味しいのもうれしいですよね。

蔵も案内していただき、美しい光をメモ。


わざわざ遠出して訪ねる価値のあるカフェでした。

銘酒「風まかせ」は東京でも入手できるということで、実は我が家の近所にある酒屋さんでも売っていました。

早速赤城の名水で造られた日本酒を帰宅後味わって、感動! また伺います。今井社長。

すっかりのんびりして、午後のひとときを楽しんだ我々は新田荘歴史散歩を再開。

新田の湧水


古代から「水」は人々の暮らしに欠かせないもの。
ゆえにその支配は利権、王権に繋がり、争いや妥協といった政争の歴史も垣間見ることが出来ます。

さて今回のプチ旅、ラストは新田荘遺跡(明王院)です。

国指定史跡 名称「新田荘遺跡 明王院境内」/太田市役所ホームページ

明王院(みょうおういん)は、2町四方(一辺200m)の規模を有した、鎌倉時代の総領家(そうりょうけ)クラスの安養寺館跡に建てられた寺です。呑嶺山明王院安養寺といいます。

不動堂には、二対の不動明王が納められており、そのひとつは1寸8分(約5.5cm)の白金製で、伝説では元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、山伏(やまぶし)に化身(けしん)して越後方面の新田一族に一夜にして触れ回ったと伝えられ、「新田触不動(にったふれふどう)」として知られています。

山門を入った左手には、境内から出土した新田義貞の弟脇屋義助(わきやよしすけ)の供養塔婆(くようとうば)である「源義助」と刻まれた板碑(いたび)があります。本堂裏手には、安養寺十二坊のひとつである薬師坊に祀られていた南北朝期の石仏である薬師如来像があります。

また、本堂東側には延享4年(1747)に建立された千体の不動明王像を刻んだ高さ6mのピラミッド状の不動塔があります。

安養寺館跡は、土塁(どるい)・掘割(ほりわり)は現状では見られませんが、安政3年(1856)の安養寺村絵図や昭和の地籍図には掘割が確認できます。居住者は、死後に「安養寺殿」と諡(おくりな)された新田義貞が有力です。

呑嶺山明王院安養寺(新田触不動)境内



千体の不動明王像


それではバーチャル参拝をどうぞ。


壮大無比な軍記物語である『太平記』の書名に「太平」を冠したのは平和への希求を込めたものだといいます。

しかし、その「太平」は安穏享楽の甘味だけではなく、艱難辛苦の苦汁を味わった人々の献身、汗と涙と尊い「いのち」が下味になっていることを忘れてはいけないと思う歴史散歩でした。