歴史を学ぶ意義
現在の国際社会で起こっている様々な事件や出来事が、まるで何の脈略もなしに突然発生したかのように感じることがあります。
しかし、それは長い長い歴史に根差した人間の営みの所産であって、そこには因果関係が必ず存在しているのです。歴史は繰り返す。それゆえ歴史を学ぶことから、問題解決の糸口が見つかることが多いものです。
歴史を学ぶということは結果論的知識の集積として、事実や因果関係をひたすら覚えたり、知っているつもりになったり、ということではありません。
その時代に生きた人々がどんな価値基準を持ち、どんな生活をしていたかについて可能な限り史料を読み、時間の流れの中でその時代の状況に即して因果関係を探り、その意味を解明することが大切です。
事実を多角的に捉える
往々にして私たちはその時代の状況を無視して、現在の価値基準や倫理観など、「あと知恵」で歴史を裁断しがちです。
特定のイデオロギー史観や善悪二分論に基づく好き嫌いで歴史を見る弊害に陥らないようできるだけ多角的に歴史を捉えたいものです。
その時代の史料に残された文字に目を凝らし、そこに書かれた生身の人間が発した「声」に耳を澄まし、さらに五感を総動員して、史跡を歩き、感じ取る試み、それが歴史を学ぶ際に重要になってきます。
また最新の科学も積極的に導入し、遺跡発掘などの作業、分析が進んでいます。
歴史散歩もそうした研究成果を予備知識として学びながら、歩くと、いにしえのさまざまな人間のドラマがよみがえってくるような気がします。
古都鎌倉の歴史
さて、今回は古都鎌倉を歩く写真散歩です。
鎌倉といえば、源頼朝が鎌倉幕府を開いた土地。日本史上、はじめて登場する本格的な武家による都市です。
鎌倉時代の成立時期
かつて日本の歴史教育では鎌倉幕府の成立は1192年(イイクニ作ろう鎌倉幕府)としていました。そう学校で習った方も多いはず。
現在は以下の6つの説があり、見解が対立しています。その意見の対立は近年少なからず日本史教育の現場や教科書の表記にも影響を及ぼしています。
- 1180(治承4)年・・・源頼朝が鎌倉に居を構え、侍所を設け、南関東、東海道東部の実効的支配に成功したとき
- 1183(養和元)年・・・源頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けたとき
- 1184(寿永2)年・・・公文所(政所)・問注所を設けたとき
- 1185(元暦元)年・・・守護・地頭の任命権などを獲得したとき
- 1190(建久元)年・・・頼朝が右近衛大将に任命されたとき
- 1192(建久3)年・・・頼朝が征夷大将軍に任命されたとき
蝦夷征討のために編成された軍の総大将に与えられた職名である征夷大将軍の居館を「幕府」と呼びますが、もともと「幕府」という言葉は中国の言葉で出征中の将軍の幕で囲った陣営を意味していました。
上の六説にある、5と6はこの幕府という語の意味に着目した語源論的解釈で最も古くから主張されています。
これに対し、ほかの四説は軍事政権としての幕府が成立していく過程を問題にしていて、なかでも4が最も重要な意味を持つという学説を支持する学者が多く、1185年(イイハコ作ろう鎌倉幕府?)が最も有力です。
しかし鎌倉幕府の基盤は東国にあり、東国の支配権としての性格を強調するならば、2が有力になり、軍事力による実効支配を重くみれば1の見解が重要になるということです。
いずれにしても、尊敬の念を込め「鎌倉殿」と終生呼ばれ続けた源頼朝以降、単に将軍といえば、すなわち武人の代表者という認識が定着していきます。
鎌倉時代の人口、平均寿命
鎌倉時代、日本の人口はさまざまな研究結果を総合すると、約570万〜630万人であったと推測されます。ふたつの都の人口でみると、平安京(京都)10万人、鎌倉6万人という二大都市がこの時代形成されていくことになります。
また鎌倉時代から室町時代に生きた日本人の平均寿命は34歳程度であったことが最新の研究結果で分かってきています。
『源氏物語』にも「四十賀」という長寿の祝いに関する記述もあるように、四十歳は立派に長寿だったわけです。参考までに歴史に名を残す北条執権全員の寿命は平均で47歳とのことです。
こうした時代の基本データも今後さらに研究が進むことでしょう。いまの時代から想像する手がかりとしてさらなる研究の充実に期待しましょう。
日本文化の大転換期
鎌倉時代は日本史上屈指の大転換期でした。まず第一に現在使われている日本語の原型ともいえる「漢字+カタカナ」「漢字+ひらがな」の和漢混淆文が整えられます。
平安時代中期以降、貴族だけの閉じた世界で花開いた国風文化の華は精錬され、自らの存在意義を賭けるかのように王朝文化を磨いていく一方、時代の大転換のなかで武士や農民をはじめ、新しい文化が芽吹いた時代でもあります。
また日本列島を一周する海上航路が完成し、港湾整備、河川交通、道路網の整備が進むことにより、さまざまな職業が生まれ、それを支えた庶民の文化、「日常性」が生まれた時代でもあります。
古い時代の政治が大きな変革期を迎え、産業の勃興と流通網が確立されることで衣食住、建築も大きく変化し、思想史的にも鎌倉新仏教と呼ばれる宗派が民衆を中心に広まり、宗教が一大転換期を迎えることとなったのです。

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そんな歴史の名残やそこで繰り広げられたドラマに思いを馳せながら、古都鎌倉を歩く。
古都鎌倉写真散歩
第一回は長谷の大仏、露座の大仏とも呼ばれる謎多き鎌倉大仏をじっくり眺めることといたしましょう。
鎌倉大仏造立の謎
しかしこの鎌倉大仏は実に多くの謎に包まれた存在なのです。
まずもって、いつ、誰が、どんな目的で造立しようとしたのか、またいつ完成したのか、正確な記録が見つかっていません。
吾妻鏡に記された鎌倉大仏に関する記述
もちろん北条執権政治のなか書かれた鎌倉幕府の公式文書『吾妻鏡』に大仏に関する記載はあります。
- 1238(嘉禎4)年3月23日 大仏殿の造営に着手
- 同年5月18日 大仏の身体に頭部を付けた
- 1241(仁治2)年3月 大仏殿上棟の儀 (周八丈・木造・阿弥陀仏)
- 同年4月29日 囚人を逃した預人から造営費徴収
- 1243(寛元元)年 大仏と大仏殿供養
- 1252(建長4)年8月17日 大仏鋳造開始(八丈・金銅・釈迦如来)
しかし、この内容は大仏と大仏殿造立という国家の大事業であったはずの大仏造立を記す幕府の公式文書としてはあまりにもあっさりとしています。大仏と大仏殿供養を行った1243(寛元元)年の記録でも大仏と大仏殿供養にわずか12名しか参列していないのです。
源頼朝が平家によって破壊された奈良の廬舎那仏を復興することに尽力し、開眼供養をしたときに200人を超す武士をひきつれ、千僧百官とともに盛大に供養を行ったことに比べると、その前年、時の執権、北条泰時が亡くなったとはいえ、ちょっと理解しがたい数字であり、事態です。
しかも『吾妻鏡』には大仏の形状、大きさについては周八丈(=坐像が立ち上がった時の高さ約24.24m)という形状の記載は同じものの九年後には金銅で、阿弥陀仏ではなく「釈迦如来」の鋳造を開始したとある記述した謎も解明されていません。
実は『吾妻鏡』には欠巻があるため、正確なことが分からないという歴史研究家の説や幕府の公式文書が間違って記載されたものが発掘されたという説もありますが、仮に見つかってもそれまでの記述から詳しいことが分からないのではないか?とする説もあります。いずれも想像の域を出ないものばかりです。
鎌倉大仏造立の謎を整理する
鎌倉大仏造立の背景をめぐる謎を謎として大づかみではありますが、ひとまず整理してみると
- 造立開始時期と完成時期はいつだったのか
- 造立の主体と支援者は誰だったのか
- 大仏の鋳造方法、鋳物師についての謎
- 大仏が阿弥陀如来として造られた理由
- 木造大仏と金銅大仏の関係
- 建長四年(1252)8月17日鋳造開始と『吾妻鏡』に記載されている大仏と現存する大仏の関係
- 同日条に記載されている『釈迦如来』の記述をめぐる解釈
- 高徳院の寺伝、寺院としての名称とその意味
- 大仏の立地に関する謎
- 勧進上人とされる浄光についての謎
江戸時代から考証作業が続き、かなりの歴史学者が挑戦し、文献を残しています。近年出版された関連書籍も数多くありますが、どれも読めば読むほど、謎は深まるばかりなのです。

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高徳院公式ウェブサイト
浄土宗の仏教寺院である詳名を大異山高徳院清浄泉寺といいます。では公式サイトの説明を引用してみましょう。
鎌倉大仏について
http://www.kotoku-in.jp/about.html
「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121tを測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏(盧舎那仏)に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252(建長四)年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334(建武元)年および1369(応安二)年の大風と1498(明応七)年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができます。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみました。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めています。
※ 小石川伝通院の住職を務めた後、増上寺第36世法主を拝命した高僧
与謝野晶子歌碑
かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな
与謝野晶子(1878〜1942年) 歌碑建立:1952年
与謝野晶子さんも『釈迦牟尼』=釈迦如来と歌に詠んでいるんですよ、これがまた謎が謎を呼びます。
藁草履
大仏像に向かって右側の回廊内壁には、常陸太田市中野町郡戸地区に活動拠点を置く松栄(まつざか)子供会によって奉納された、長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgにも及ぶ大きな藁草履がかけられています。こうした草履の制作・奉納は、戦後間もない1951年、「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡の子供達によって始められました。松栄会はその事績も後世に伝えつつ、1956年以降、数年に一度巨大な藁草履の制作を試み、当院への寄進を続けておられます。
高徳院観月堂
15世紀中頃、漢陽(今日のソウル)の朝鮮王宮内に建築されたと伝えられる建物で、1924(大正13)年当時これを所持されていた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長、杉野喜精氏によって、東京目黒の私宅から移築・寄贈されました。鎌倉観音霊場23番札所ともなっている当山では、今日この建物の中に、江戸後期の作品とみられる観音菩薩立像を安置しています。
記念樹
大仏像左手前の坂へと続く参道の脇には、旧シャムおよび現タイ王国王族がご来院時に植えられた三本のクロマツ(Pinus thunbergii)が並び立っています。
いまもなお多くの参拝客で賑わう鎌倉大仏。今回はその謎多き歴史に思い馳せつつ、ゆっくりとそのご尊顔を拝した鎌倉歴史散歩をお届けしました。

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古都鎌倉を歩いた夫婦写真散歩を三回に分けてお届けする予定です。良かったらお付き合いくださいませ。