夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

華厳宗大本山東大寺

この記事の情報を以下のSNSで共有(シェア)するためのボタンです。ご活用ください。

華厳宗大本山東大寺を歩く、撮る。

司馬遼太郎著「街道をゆく 奈良散歩」の一節に「東大寺境内は風景が多様で、どの一角にも他に類がない」とあります。

ワイド版 街道をゆく〈24〉近江散歩、奈良散歩

ワイド版 街道をゆく〈24〉近江散歩、奈良散歩

十二万坪を超える広大な敷地を歩きまわると、その言葉がすぅーと沁み入るように実感でき、海外文化を積極的に取り入れてきた歴史の息遣いさえ聞こえてくるような気がします。

さまざまな災禍を乗り越えた歴史、時代の流れを読み解きながら、建造物を眺めれば、溢れんばかりの創意工夫やそれを具現化した人々の献身と熱気を感じることが出来る。そんな思いと期待を胸に秘め、気負わずのんびり歩きます。

性急に時間的効率重視であちこち回って、印象が散漫になることを避け、圧倒的なスケール、さらに自然との調和に宿る先人たちが残した文化、美をたっぷり味わいながら、じっくり歴史と文化の息遣いと向き合う旅を目指しました。

穏やかで広い坂道を上り、奈良公園を抜け、東大寺に向かう途中では、秋の深まりを実感。



長い歴史のなかで、神様の御使いとして大切に扱われ、本来警戒心が強い動物であるはずの鹿もここ奈良公園では人を気にせず穏やかに朝の光を浴びています。

奈良時代、聖武天皇の治世下で進められた国家的大事業のシンボル、東大寺大仏殿造立。

平城京の東にある大寺(官立寺院)=「東之大寺」、それが東大寺の名前の由来です。

「ここは東大寺」

題字は榊莫山先生が毫(ふで)を揮(ふる)ったものです。

南都六宗のひとつ華厳宗大本山東大寺。その長い歴史を確認してみましょう。

東大寺公式ウェブサイト(東大寺の歴史)


東シナ海、日本海を隔てた隣国では覇権を争う民族間紛争が絶えず、その極度の緊張関係ゆえに、競い争うように進化した中国大陸の文明。

天平の甍

そして、その大陸文化を遣唐使たちによって命がけで大胆かつ積極的に取り入れた天平時代とも呼ばれる時代。日本では「唐」並みの文明国家を築くことを至上命題として、咀嚼することさえもどかしく、急いで呑み込むような貪欲な姿勢をもって、中央集権的で求心的な構造的特徴を持つシステムが構築されていった時代です。

天平の甍 (新潮文庫)

天平の甍 (新潮文庫)

同時に現代とは比較にならないぐらいの激しい格差が生じ、階層分化はいまをいきる私たちの想像をはるかに超えるものであったことでしょう。

神祇祭祀と呪術によって結ばれた共同体の生活は未開そのものであり、当時の日本人平均寿命も30歳に達しないなか、国家鎮護の座についた「仏教」が学派として存在し、加持祈祷に、礼の秩序を維持するために活用された、そんな時代だったと考えられています。

東大寺大仏殿の完成(752年)

紫香楽宮から平城京への再遷都によって、大仏造立の場所を移し、聖武天皇、光明皇后の早逝した皇太子を弔うために建立された山寺(のちの金鐘山寺)が現在の東大寺となりました。752年に大仏開眼供養が行われ、現在私たちが見ているものよりもさらに大きな大仏殿が完成します。

歴史人口学の現段階での成果をもとにして考えると、記録に残る工事に参加した126万人という数字は、当時、日本国内に住んでいた人口の約半分が直接関わった超巨大プロジェクトです。

平安時代の大修理(855年~861年)

そんな東大寺の大仏は平安時代に入り、855年の大地震で大仏の頭部が落下。六年の歳月を掛けて修理が行われます。

さらに時が流れ、平安時代末期、日本史上未曽有の混乱期でもあったこの時代に100年も続いた院政という名の王朝支配は源平を中心にした武家の台頭によって、大転換期を迎えつつありました。実力とは他を圧倒する武力、財力を併せ持つこと、そんな時代になったのです。

東大寺焼失(1180年)

1180年には平清盛の激怒によって派兵された平重衡率いる平家の大軍と巨大荘園領主でもあった興福寺の僧兵との激しい戦いによる兵火によって、東大寺も諸堂焼失という壊滅的打撃を受けます。

院政という外科手術をもってしても回復しなかった平安時代の国家財政逼迫という現実。止まることを知らない地方豪族と寺社の武装化、さまざまな政争、紛争に加え疫病の流行や天変地異が頻発するなか再建事業も困難を極めたと歴史書に残っています。

農耕に適した土地を探し、開墾から始まり、繰り返し土を耕し、水遣りや肥料に苦労しながら、作物を収穫し、受領の苛政に苦しめながらも徐々に財を蓄え、武力を磨き鍛え、新たな秩序を地方に構築していった「兵(つわもの)」たち。

源頼朝による東大寺大仏殿の再建

そうした荒ぶる武人たちをまとめ上げるという超難題を解決し、武家の棟梁から鎌倉政権を樹立した「源頼朝」の庇護、協力も支えとなります。三度も入宋し、知識経験を積んだ名僧重源上人をはじめとする勧進聖たちの資金調達、技術指導、工程管理(マネージメント)と文字通り命懸け、獅子奮迅の活躍により、「短期間で、千年もの風雨に耐える強固なものを作ろう」という理想を具現化します。

中国大陸から輸入された「大仏様」「禅宗様」と呼ばれる建築の新技術とデザインによる頑強な構造を実現した「東大寺大仏殿」。

その後、戦国時代にあった1576年松永久秀、三好三人衆の内訌による争いが招いた兵火、明治時代初期に起こった廃仏毀釈運動の嵐など幾多の災禍を乗り越え、そのつど再興され、現在に残る世界最大の木造建築物です。

東大寺南大門

鎌倉時代に再建されたわが国最大の山門(三門)、東大寺南大門を眺めます。

日本彫刻史に燦然と輝く慶派の祖、運慶・快慶を筆頭に四人の大仏師、小仏師で作られた「金剛力士立像」の威容です。いつみても圧倒されるスケールと造形美、力強く品格のあるフォルム、人間的な体感。惰弱を拒絶し、禁欲を苦にしないかのごとき意志の強さ、生命の力と躍動を感じさせてくれる立像です。

東大寺大仏殿へと向かいます。

東大寺大仏殿


国宝八角燈籠(金銅)

大仏殿中央には天平時代の大仏開眼当時から残るという金銅の燈籠があります。

廬舎那仏坐像

サンスクリット語の「ヴァイローチャナ」に漢字をあてた廬舎那仏。その意味は「世界を照らし、生きているものすべてに慈悲を与え、宇宙全体を包括するもの」と華厳経に説かれています。

当時のスーパースター「聖」、行基菩薩も八十歳近くになって大勧進の大役を任され、資金調達に奔走します。当時最大の難題であった金の入手方法も、「すめろき(天皇)の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に くがね(金)花咲く」と大伴家持がその栄耀と幸運を詠った萬葉集の歌にもあるように陸奥国小田郡から金が発掘されたことが後押しとなります。創建当時は蓮弁から螺髪にいたるまで全身が金色だったと歴史書は伝えています。

創建時は鋳造にも三年の歳月を要した国家的大事業の象徴的存在も奈良、鎌倉、そして戦国時代の災禍ではついに露座となり、100年以上も放置され、荒廃します。しかし徳川綱吉、その母桂昌院の支援により、1709年に再開眼。直近では昭和の大修理を経て、いまに残る国宝です。もう言葉は要らないでしょう。思う存分拝んでください。

広目天立像

多聞天立像


誰も知らない東大寺

誰も知らない東大寺

感動の余韻を味わいつつ、東大寺の周囲もぐるりと歩いてみます。


秋の陽射しと紅葉を愛でつつ、

これも国宝、鐘楼に向かいます。

階段も美しい秋の風情。

国宝鐘楼

反りあがった屋根が特徴です。

国宝・重要文化財の宝庫、東大寺

その境内案内図は東大寺公式ウェブサイトにてPDFが配布されています。

もっと知りたい東大寺の歴史 (アート・ビギナーズ・コレクション)

もっと知りたい東大寺の歴史 (アート・ビギナーズ・コレクション)

夕暮れの二月堂

春の訪れ、その幕開けを告げる風物詩としても有名な修二会、お水取りが行われる二月堂。
二月堂、秋の夕暮れでございます。

宵闇迫る裏参道

街灯に映える紅葉


藤原道隆

藤原定家とともに「新古今歌風」を推し進めた優れた歌人です。先例や教養主義的伝統にしたがうことで次第に硬直化していった歌壇にあって、「新儀非拠の達磨歌」=伝統を踏まえていない難解な歌と非難を浴びていた藤原道隆。しかし後鳥羽院に認められてからは一気に歌壇のスーパースターの座に上り、「新古今和歌集」の選者の一人となり、一世を風靡します。

鎌倉幕府を開いた清和源氏直系の源実朝暗殺後、後鳥羽院と北条得宗家との対立による「承久の乱」に敗れ、隠岐に流された後鳥羽院とも極秘裏に連絡を取り続け、忠誠を尽くし続けた歌人、それが藤原道隆です。

また藤原道隆は当時の平均寿命の3倍近い80歳まで生き続け、人生の幕を安らかに閉じたと記録に残っています。後鳥羽院との関係を絶った藤原定家とは対照的な印象を受けますが、定家もまた当時としては驚異的な長寿でした。

所載歌集:新古今和歌集

下紅葉かつ散る山の夕時雨
濡れてやひとり鹿の鳴くらむ

「夕べの鹿」という題で詠まれた歌です。この歌は後鳥羽院によって高く評価され、巻頭、巻末に重要な歌を配置した新古今和歌集・巻第五・秋歌下の「冒頭」に置かれました。

夕暮れ、下紅葉のいち早く散る様子、平地より一足先に降る夕時雨、そして妻を恋い慕って鳴く鹿…。秋の趣をしみじみと表現する定番素材をたたみ掛けるように詠み込み、鳴く鹿を「濡れてやひとり」と擬人化し、孤独と寂寥感を深く深く詠んだこころのこもった名歌だと思います。そのような鹿にも思いを馳せる藤原道隆のこころもまた「もののあはれ」なのです。

そこで懲りもせず、本歌撮り第二弾!

夕時雨に濡れてふたり、鳴く鹿

ふたり寄り添う鹿と夕時雨。夫婦写真散歩が表現する「もののあはれ」。深まる秋の趣きでございます。

夫婦写真散歩奈良三部作も併せてご覧ください。