夏の訪れを告げる草花の香りを運ぶ風。
人々が豊かな自然に寄り添うように暮らす街を歩けば、風薫り、季節が移り変わることに気付く感覚も磨かれ、こころも潤います。
鎌倉時代、日本文化の大転換期
日本の歴史を振り返ってみるときに、大転換期と呼んでも過言ではない時期がいくつか存在します。
政治史、民衆統治の歴史からみても、社会史、思想史の観点から見ても、古代から中世へと大きく舵を切った平安時代後期から鎌倉時代は日本文化の大転換期であったといえるでしょう。
中世前期、つまり13世紀以前の社会はいま私たちが暮らす時代に存在する尺度や常識はまったく通じません。
いうまでもなく、暮らしのあらゆる様相、識字率しかり、流通情報量しかり、労働や生産のシステムしかり、さらには世界観や価値観すら、いまと同じではありません。
それはあたかも異国の社会の出来事のように異なるものであったと理解しておくことを前提にしなければ、誤った歴史解釈となるでしょう。
とはいえ中世という歴史段階において、いまに通じる「日本人的」な価値観を形成する萌芽が見え隠れしています。
その萌芽を慎重に読み解きながら、日本の歴史や文化のなかにどう位置づけられるか、何がどう貢献したのか?という歴史的意義、評価とその限界を考えることもきわめて重要ではないかと思います。
日本仏教界の頂点、最高学府としての比叡山
大陸からの仏教伝来から鎌倉時代に至るまで、日本にはこの時点で600年以上にわたる仏教受容の歴史がありました。
当時日本仏教界の頂点に立つ寺院といえば、まぎれもなく比叡山であったといえるでしょう。
そこには膨大な典籍と最新の研究成果が蓄積され、優れた学僧も数多く輩出しています。
単に仏教に関する学問だけでなく、土木・建築・工芸・算術・天文暦学・和歌など多岐に亘っています。
元来仏教における五明=五種類の学問のなかには医薬学が含まれていて、日本でも古代から僧侶が医療技術者の役割も担っていました。
比叡山では祈祷や呪法という非科学的な方法だけではなく、漢方や灸法を動員し、当時の最高水準の医療が比叡山で開発され、実践されていました。
いまでいう総合大学のような社会的役割を担っていたのです。
溪嵐拾葉集
世俗化することで、より具体的な時代の要請に応えるべく、「人が生きる」ことに必要な知識や技術の習得とその発展に精魂を傾ける学僧、専門僧も現れます。その存在を知る重要な資料は「溪嵐拾葉集」です。
内容は当時の比叡山に伝えられていた故事や伝承を整理し、記録した叢書というカタチを取り、日本天台の教義・作法から医学・天文・算術・土木・建築・和歌に至るまで幅広い学問と実践の成果が蓄積されています。
比叡山は日本における天台宗の仏教寺院として、その発展の過程で膨大な数の仏教の教理書が著され、壮大な教理体系が整理・構築されていきます。
ところが高度に抽象化された論理は次第にひとり歩きしはじめ、古代から中世へと至る日本の歴史の中で為政者(貴族階級)に独占されていきます。つまり、この当時の社会を支配していた指導者階級によって独占されたがゆえに、その権力を荘厳し、結果として過酷な民衆支配に力を貸すことになってしまったのです。
鎌倉時代の政治と仏教
奈良時代から平安時代初期にかけて、最澄と空海というライバル関係にもあったこの二人の天才思想家が活躍した時代は激動の時代でしたが、日本の仏教思想上で最も生産的な時代のひとつであったといえるでしょう。
王法と仏法は車の両輪
二人の独創的で優れた思想家亡き後、数百年の時が流れ、平安時代後期=中世前期において、天台宗・真言宗の大寺院では最高指導者も朝廷が任命する仕組みになっていました。僧界の頂点に立つのは皇族と摂関家の出身者で、「王法と仏法は車の両輪」と豪語し、俗世とパラレルの関係にありました。
このように朝廷と密接な関係にあったこの時代の天台宗と真言宗はおもに鎮護国家や貴族階級の人々のために仏に祈るものであり、広く民衆のこころを救済するという問題意識は持っていなかったのです。
僧侶の俗化と僧兵の組織化
彼らは不便な山奥での厳しい修行生活を嫌い、里に院家を設け、衣服や調度品も豪奢で華麗なものでした。
また院家には多くの荘園領地が付随し、僧兵を蓄え、厳しい年貢の取り立てを行い、朝廷や武家も一目を置く大荘園領主として土地を奪い合い、蓄財し、俗世の権力を争うことを繰り返していました。
特に平安時代後期から長い間続いた比叡山(山門)と園城寺(寺門)の熾烈をきわめた争いは特に有名で、南都(奈良)においても興福寺の僧兵が東大寺を襲うなど本来人々を救うはずの寺僧の横暴は社会不安を引き起こすようになっていました。
上級の僧位は権門の子弟が占めて俗化し、下級の僧は僧兵として横暴をきわめる、もはや戒律を守って修行に励む僧は稀で、僧侶の多くは儀式と化した仏事を貴族階級の人たちのために執り行うことに熱心で、彼らは民衆の生活にはまったく興味を持っていなかったのです。
末法到来
世俗化した仏教界の腐敗堕落と「末法到来」と呼ばれる意識が植え付けられはじめた混迷の時代。
長引く政治的動乱、相次ぐ天変地異は多くの民衆に重苦しい不安を抱かせることになります。
こうした乱世を生きる人々のこころを支えるべく立ち上がった精神的指導者が歴史の表舞台に登場します。
鎌倉新仏教宗派一覧
末法の世からの脱却を求め、新しいこころの拠り所として「救い」を渇望した民衆の切実な思いに応えるために登場した「鎌倉六宗」を整理してみましょう。
日本史上はじめて民衆のこころを救済しようと本気で考えた精神的指導者の存在は平安時代の高僧、空也、源信まで遡ることが出来ますが、古代から中世へと移り変わる時代の大きな変革期に数々の迫害、困難を乗り越え生き抜いた鎌倉仏教の開祖や伝統仏教のなかから現れた改革者たちによって、日本の思想史だけでなく、文化史的にも新たな時代が切り拓かれていくことになります。宗派 | 開祖 | 出身地 | 開宗年 | 本尊 | 主要著書 | 中心寺院 |
浄土宗 | 法然(源空) | 美作(岡山県) | 1175 | 阿弥陀如来 | 選択本願念仏集 | 京都・知恩院 |
臨済宗 | 栄西 | 備中(岡山県) | 1191 | 釈迦如来 | 興禅護国論 | 京都・建仁寺/妙心寺 |
浄土真宗(一向宗) | 親鸞 | 京都 | 1224 | 阿弥陀如来 | 教行信証/歎異抄 | 京都・本願寺 |
曹洞宗 | 道元 | 京都 | 1227 | 釈迦如来 | 正法眼蔵/正法眼蔵随聞記 | 福井・永平寺 |
法華宗(日蓮宗) | 日蓮 | 安房(千葉県) | 1253 | 釈迦如来 | 立正安国論 | 山梨・久遠寺 |
時宗 | 一遍(智真) | 伊予(愛媛県) | 1274 | 「南無阿弥陀仏」の名号 | 一遍上人語録 | 神奈川・清浄光寺 |
この六宗は後世の歴史学者たちによって天台・真言宗の旧仏教に対し、鎌倉新仏教と呼ばれるようになりました。
朝廷の関与がない禅宗の二派(臨済宗・曹洞宗)はやがて武家の保護を受けるようになりますが、他の四宗は救われるために困難な修行は必要ないと説き、多くの経典の中から一つの教えを選び、それだけにすがるといった特徴を持っています。
精神の救いを平易に説くこの新仏教に乱世のなか過酷な生活を強いられていた武士や庶民も競って帰依していったのです。
浄土宗誕生寺(岡山県久米郡久米南町)
それでは主要六宗派の開祖の一人としても有名な浄土宗の開祖、法然房源空、誕生の地を訪れてみましょう。
法然の生い立ち
美作国久米南条稲岡荘(現在の岡山県久米郡久米南町)の国司の配下にあって、凶徒や盗賊を取り締まる役職、押領使という役職(地方官吏)を務めた漆間時国という武士と、渡来人として日本の文化や衣食住に大きな影響を残したといわれる秦氏の出である女性の間に長承二年(1133)に生まれた子が、幼名・勢至丸と名付けられたのちの法然房源空です。
父・漆間時国の災難
保延七年(1141)の春、勢至丸が九歳になった年のことです。
父・漆間時国は稲岡荘の預所(荘園領主の代官)であった明石定明の夜襲を受けて討死してしまいます。
法然上人行状絵図によると「あなづりて、執務にしたがはず、面謁せざりければ、定明ふかく遺恨」とありますので、荘園領主の代官として、中央政府の意を体し、荘園支配を貫徹しようする明石定明に対し、漆間時国は土着の豪族として、それを無視したことを恨まれたということがこの文章からも想像されます。
この夜襲で深手を負った父・時国は九歳の勢至丸に以下のような遺言を残します。
汝さらに会稽の恥をおもひ、敵人をうらむる事なかれ、これ偏(ひとえ)に先世の宿業也、もし遺恨をむすばゝ、そのあだ世々につきがたかるべし、しかじはやく俗をのがれ、いゑを出て、我菩提をとぶらひ、みづからが解脱を求には…(法然上人行状絵図より)
いたずらに恨みを残し、報復することを戒め、出家することを命じた父の遺言と目の前で父を襲われ斬殺された悲劇の記憶はこの時代を生きた九歳の少年にとって、計り知れないほど大きく重いものであったことでしょう。
勢至丸(法然)仏門に入る
父を失くした勢至丸(法然)は岡山県の北東部に位置し、鳥取県と境を接する那岐山中(現在の岡山県勝田郡奈義町)にあった菩提寺の院主・観覚にひきとられ、僧としての道を歩みはじめます。
観覚は勢至丸にとって母方の叔父にあたり、比叡山延暦寺に学んだのち、奈良で法相宗をおさめていました。
勢至丸(法然)の才智を見抜き、比叡山での勉学をすすめたのも観覚でした。
やがて、比叡山にのぼり、西塔北谷の源光を訪ねることになりますが、13歳説(1145)と15歳説(1147)の二説があります。
このとき観覚が勢至丸に持たせた書状には「進上大聖文殊像一体」とあったそうです。
これをみた源光は比叡山のなかでも碩学として知られた東塔西谷の皇円に勢至丸(法然)を託します。
皇円のもとで剃髪受戒し、修学に励んだ勢至丸ではありましたが、やがて俗化していた叡山の「名利の学業」に疑問を感じ、久安六年(1150)18歳で皇円に暇乞いして黒谷別所の叡空の門を叩きます。
当時の比叡山において黒谷に入るということは、僧侶としての栄達を放棄し、遁世の聖として求道生活に入ることを意味していました。巨大な荘園領主として武力を行使し、蓄財し、熾烈な権力闘争に明け暮れていたとはいえ、黒谷には日本仏教界の最高学府としての比叡山の伝統が確実に継承されていたのです。
叡空は当時の黒谷の指導者で、法然房源空という名もこのときはじめて叡空から与えられたものです。
ざっと法然上人の生い立ちを辿ってみたところで、彼の生まれた場所に建てられた誕生寺を訪問してみます。栃社山誕生寺縁起(岡山県久米郡久米南町誕生寺里方808)
誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたものである。
栃社山誕生寺公式サイトURL
法然、専修念仏の教え
比叡山の叡空のもと、念仏の門で日々を送っていた法然は「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に往生できるという唐の時代を生きた善導という僧の本願念仏説に出会います。
ちなみに「南無」とは「私は〜に帰依します」という意味で、サンスクリット語の音写語です。
善導は「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字、合わせて六字に関する釈義=六字釈で明らかにしています。
善導の書を見た法然は王法と仏法は車の両輪と唱え、阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏に極楽浄土へ導かれる」と説いたのです。
承安五年(1175)43歳になった法然は叡空との念仏観の違いから比叡山を下り、念仏だけにすがる「専修念仏」の救いを説きます。
さらに10年以上の歳月を掛け、この善導の本願念仏説を深化させ、独自の専修念仏説を確立させていくのです。
本願念仏説:「南無阿弥陀仏」と念仏を称えさえすれば、誰でも極楽往生できる
専修念仏説:念仏を称えるよりほか極楽往生できる方法はない
門外漢には一見些細な違いにしかみえない両者も実は重大な意味が込められていました。
つまり積善の行いを成し難い「煩悩具足の凡夫」が往生するためには念仏という分かりやすく、しかも手軽な手段に頼るのもやむを得ないという考え方を否定し、人は皆一様に「煩悩具足の凡夫」なのだから、結局のところ念仏が唯一の往生行になるしかないという主張を法然は展開したのです。
結果として人間の平等を説いたことになり、当時厳然として存在していた身分制社会の根幹を揺るがす革新的言説だったのです。
法然が比叡山を下りて、やがて京都東山大谷の地に草庵を構えることによって、多くの人が集まり、身辺はにぎやかになります。
選択本願念仏集
建久九年(1198)法然に深く帰依していた元関白九条兼実の求めに応じて、専修念仏の教理を体系化した『選択本願念仏集』を著します。
当時公家社会において頻繁に使われていた「新儀非法」という言葉に代表されるように「新しいことは良くないこと」という空気に貴族社会は支配されていました。惰弱化していく貴族階級、公家たちの何事にせよ先例を守り、伝統にしたがうという姿勢によって、平安時代に花開いた貴族文化における華々しい創作活動がすっかり影をひそめ、彼らから文化創造の熱意すら失わせていました。
このような時代的背景もあり、貴族階級によって構成されていた旧来の仏教勢力、京都の大寺院の指導者にとって、京の都に高まりはじめた念仏の声は無視できない存在になっていくのです。
口称念仏=念仏さえ唱えれば経済的負担も学問も戒律も必要ではなく、日常生活を営みながら信仰生活が送れるとした法然の新しい教えは民衆にとって魅力的なものでした。
新しい宗派、教団組織を作る意志はなく、当時の仏教界に対して糾弾する意識を持たなかった穏健な法然に対し、元久元年(1204)最初の批判の矢を向けたのは比叡山の衆徒でした。天台座主・真性に専修念仏の停止を訴えます。
七箇条制誡
これに対し法然は「七箇条制誡」と呼ばれる起請文を門弟たちに示し、自戒を求めます。法然の意思に反して念仏衆の集団が形成され、なかには法然の門弟を名乗るものも現れたからです。
その内容を現代語訳し、要約すると、
- 真言・天台の教説を批判し、阿弥陀如来以外の仏や菩薩を謗ることをしない。
- 無智な身であるにもかかわらず、有智で念仏以外の行をする者に対して、好んで議論を挑むことをしない。
- 念仏以外の理解者や修行者に向かって、従来行ってきたことを嫌い、嘲り笑って批判し、それを棄てさせることをしないこと。
- 念仏門においては戒行はないとして、邪淫や飲酒、肉食をすすめ、律儀を守るものを雑行と見下して、阿弥陀如来の本願を信じる者は、悪行をしても恐れることはないと説くことはしない。
- 聖教をはなれ、師説にはない勝手な私義を述べて争論し、愚人をまどわすことはしないこと。
- 痴鈍な身でありながら唱導を好み、正法を知らずに邪法を説いて、無智な道俗を教化することはしないこと。
- 自ら仏教にあらざる邪法を正法として、師匠の説を偽って説くことをしないこと。
この上なお制法に背く輩は、これ予(法然)が門人にあらず、魔の一族なり。さらに草庵に来るべからず。
このように門徒に厳しく言い渡しても、旧仏教側勢力からの迫害は続きます。それほど法然の教えは革新的で、この時代の民衆のこころを魅了したということなのでしょう。
念仏禁断
翌年(1205)奈良・興福寺の衆徒が「興福寺奏状」を後鳥羽上皇に差し出し、念仏禁断を要求してきます。
このような緊迫した状況下で門弟のなかでも魅力的な講話で人気のあった住蓮と安楽が後鳥羽上皇に仕える女房たちを無断で出家させたという嫌疑が掛けられるという大事件が起こります。
承元(建永)の法難
これも院の女房たちが門弟のエース級であった二人に意図的に近づいたのでは?という陰謀説や貴族社会の閉塞感に苛まれていた女房たちに彼らの話は魅力溢れるものであり、次第に純粋な思慕の念に発展したためだとする説もありますが、正確なところは分かっていません。
いずれにせよ、これには後鳥羽上皇が激怒。年号が建永から承元へと変わった1207年、住蓮と安楽両名が死罪、法然は讃岐へ流罪に処せられるという承元(建永)の法難と呼ばれる事態に発展しました。このとき門弟であった親鸞も越後に流罪となっています。
このとき法然は75歳。ところが、その年の暮れに大赦があって、摂津国まで戻ります。とはいえ入洛までは許されず、そこで四年間を過ごしたのち、建暦元年(1221)11月にようやく帰京。翌年の1月に念仏の要諦を記した「一枚起請文」を弟子の勢観房源智に授けて、80年の生涯を閉じました。
ということで、法然上人の生誕の地、誕生寺歴史散歩はここまで。
長時間お付き合いいただきありがとうございます。
本日のBGM
「夏は来ぬ」詞:佐々木信綱/曲:小山作之助
卯の花の、匂う垣根に
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ
美しい日本語と季節感を見事に表現したメロディーを美しい歌声と共に味わってみましょう。
夏は来ぬ
目次:本日の記事を振り返ります