夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

豊山神楽院長谷寺(奈良県桜井市)

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豊山神楽院長谷寺文学散歩

奈良県桜井市初瀬、ここは古事記、日本書紀を筆頭に夥しい数の文学作品にその名を刻む土地であります。

初瀬を流れる川は古くは神意を仰ぎ、「神河」と呼ばれていました。

また日本最古の歌集である万葉集巻の一、冒頭の長歌、5世紀頃、雄略天皇、青年時代の御詠歌ともされる伝承歌謡に「泊瀬朝倉宮」という表記があります。

雄略天皇(418年?〜479年)が「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)」を置いたとされるこの地に関して、さまざまな議論が存在しますが、まずは「萬葉集」最初の歌を一度虚心坦懐、ゆっくり味わってみてください。

萬葉集巻の一、冒頭の長歌:雄略天皇

原文 篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
訓読 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます兒 家聞かな 名告らさね そらみつ やまとの國は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
かな こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへきかな なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ われこそは のらめ いへをもなをも
冒頭の長歌解説(鑑賞のポイント)

早春、晴れた日の昼下がり。初瀬の丘の上で、数人の乙女たちが竹籠と掘り串=竹箆(へら)を持って若菜を摘んでいます。陽光が溢れんばかりと降りそそぐ丘の上、草は萌え、美しい花々が一面に咲き乱れています。小鳥が天空を駆け巡り、楽しい囀りの声。風は爽やかに吹き渡り、乙女たちは髪を靡かせながら舞うような姿で菜を摘み、籠の中に投げ入れている、そんな穏やかな午後。

おりしも大和の国を治める、のちの雄略天皇が通りかかります。周りを見渡すと、乙女たちの中でも際立って美しく気高い雰囲気の女性が目に飛び込んできました。そしてたちまち一目惚れしてしまいます。

そこで詠んだこのおおらかでのびやかな妻問いの長歌、国文学者、佐佐木信綱氏をして「まさにオペラにでもしたい場面」と語らしめた、「我れこそはヤマトの王である」と高らかに宣言し、子孫の繁栄と五穀豊穣を予祝した、いかにも万葉集冒頭にふさわしい雄渾の歌ということになるのでしょうか。

すれっからしの現代人にとっては「王侯貴族もすなるナンパの歌」ということになるかもしれません(苦笑)。いずれにせよ、平安時代からこれまで萬葉集に付けられた数多くの訳注にも長い長い時代の流れがありますので、その変遷を追うだけでもかなり楽しめる萬葉集巻の一、冒頭の長歌です。

集英社文庫ヘリテージシリーズ 萬葉集釋注 1

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いまもなお、豊かな自然と三方を山に囲まれ西方のみが開けた谷間に初瀬川(大和川)が流れるこの地は古くは初瀬、泊瀬、始瀬、終瀬とも表記され、瀬が始まるところ、もしくは瀬が果てるところ=冥界への入り口として生と死が交わる聖なる地、「隠国(こもりく)の里」でもあったともいいます。

万葉集には16首連続で初瀬に関する歌が並んでいる巻もあるほどです。

真言宗豊山派の総本山「長谷寺」

今回はその初瀬山中腹に広がる壮大な寺院、全国に300はある「長谷寺」の総本山、豊山神楽院長谷寺を歩いた旅の記録をお届けします。

近鉄大阪線「長谷寺駅」に着くと、

侘び寂びの風雅を醸し出す光景と、

錦秋の長谷寺駅周辺

駅のホームでは色鮮やかな紅葉が出迎えてくれました。

歴史街道の案内表示では長谷寺へは1.1kmとあります。ちょうど良いウォーミングアップになります。



こころがほっこり温まる秋の光景です。

職業柄、呉越同舟、ずらりと並んだこんな同業他社の看板に漂う歴史を見つめ感心したり、

菅原道真公が天神様になり、その神話、はじまりの里でもある神社の老木(梅)をメモしたり、



しばし足を止め、竹林を眺め、英気を養ったり、

早朝の参道は長谷寺が近づくにつれ、人と車の往来が激しくなってきましたが、竹林の英気のおかげでしょうか、こころはひたすら穏やかに歩き、長谷寺入り口へと到着しました。

長谷寺縁起

(長谷寺公式ウェブサイトから)

当山は山号を豊山( ぶさん )と称し、寺号を長谷寺( はせでら )と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。


「こもりくの泊瀬山」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬(はつせ)など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。


朱鳥( あかみどり )元年(686)道明(どうみょう)上人は、天武天皇のおんために銅板法華説相図( 千仏多宝仏塔 )を西の岡に安置、のち神亀四年( 727 )徳道(とくどう)上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩をおまつりになられました。上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳であり、当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれであります。


現在の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。

長谷寺写真散歩


感動とともに見上げる本堂をはじめとする長谷寺の風景。

長谷寺仁王門

境内に入り、仁王門を眺め、

長谷寺登廊

有名な登廊に入ります。

煩悩の数と同じ108間(約200m)399段の緩やかな階段を上ります。

読み人知らず、題知らず 所載:古今和歌集(1009)

初瀬川布留川の辺に二本(ふたもと)ある杉
年をへてまたもあひ見む二本ある杉

鑑賞のポイント

この杉の生えている土地を離れていく人の歌であったろうと推測されています。初瀬川と布留川の合流するあたりに生えている二本の杉。年を経て、いつの日かまた会おう、あの杉のように、という約束とこの地(=初瀬)を褒めたたえるこころが詠み込まれています。

源氏物語「玉鬘」の巻、初瀬詣に関する記述

源氏物語「玉鬘」の巻には参詣の様子が活写され、玉鬘とかつて母、夕顔に仕えていた右近との劇的な再会があります。

右近は光源氏に仕えるようになっていて、その縁で、玉鬘は光源氏の娘と世間を偽り、光源氏の庇護のもとへと物語は展開します。そのほかにも紫式部がこの物語を書いていた頃には初瀬詣が盛んに行われ、人気を博していたことが分かります。

  • 仏の御なかには、初瀬なむ、日の本のうちには、あらたなる験現したまふと、唐土にだに聞こえあむなり(玉鬘巻:豊後介)
  • さりとも、初瀬の観音おはしませば、あはれと思ひきこえたまふらむ(東屋巻:浮舟の乳母)

といった登場人物たちの発言を筆頭に、

平安時代に書かれた日記文学の代表作である「蜻蛉日記」「更級日記」にある初瀬詣の記述があります。

当時は現世利益・後世救済を齎すとする観音菩薩への信仰は貴族階級の女性にも広く浸透したことから、長谷観音の霊験に対する期待の深さを感じます。


清少納言「枕草子」長谷寺詣に関する記述

枕草子を読むと清少納言も一度ならず繰り返し長谷寺に詣でたことがわかりますが、「蓑虫などのやうなる者ども、集りて、立ち居、額づきなどして」と結構罰当たりなことを言っています(苦笑)。

これは五体投地といって正しい礼拝形式なのですが、その場面を現代語訳してみると…

「たいへんな思いをして急な階段を登りきって、ご本尊のお顔を早く拝みたいとこっちは急いでいるのに、前の方に蓑虫のようなヘンテコリンなかっこうをした者がいる。そいつが立ったり座ったり、額づいて礼拝しているのが邪魔で邪魔で、目障りでしようがないったらありゃしない。あんまり癪にさわるものだから、いっそのこと後ろから押し倒してやろうかと思ったくらいよ」。

清少納言の性格がよく出ていますねぇ(苦笑)。こういうストレートな物言いも面白い。

それにしても、初瀬詣といえば都から日頃は自分の足で歩き回ることなどほとんどない平安時代の姫君が四日で山越えを含む68kmもの行程を歩いた計算になります。

紫式部も「生ける心地もせで」(源氏物語・玉鬘)と書いているのも頷けます。

遣唐使廃止後、国家の公式記録を系統立てて作ることも止めてしまい、ひたすら組織内出世競争、噂話と悪口に情熱を傾けていた貴種の方々が、初瀬詣を何度も行ったということは、信仰心というよりは、長谷詣そのものに、それほどの魅力があったということでしょう。

でなければ千年以上も生き生きと伝えられる豊かな国風文化を育んだとはいえ、平安京(宮廷)中心の文化観にどっぷり染まり、惰弱で(笑)オカルト好きな平安貴族のこころを捉え、初瀬詣に駆り立てることはなかったでしょう。

紀貫之 所載家集 古今和歌集(42)/小倉百人一首(35)

詞書 初瀬に詣づることに宿りける人の家に、久しく宿らで、ほど経てのちに至れりければ、かの家の主、「かく定かになむ宿りはある」と言ひ出して侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りて詠める。

人はいさ心も知らずふるさとは
花ぞ昔の香に匂いける

紀貫之の梅と名歌鑑賞のポイント

実際に紀貫之が植えた梅とも伝えられています。さてこの百人一首にも選ばれた名歌について、解説してみましょう。

詞書から簡潔に説明しますと、紀貫之が長谷寺参詣のときに常宿としていた女主人の家がありました。長らくご無沙汰し、久しぶりに訪れた折に女主人から「このようにちゃんと宿はありますのに」と軽く皮肉られてしまいます。

ここでは皮肉といっても嫌味があるわけではなく、軽く拗ねてみせたと考えたほうが良いでしょう。そこで紀貫之は梅の花を折って、こう切り返します。

あなたのこころの中までは分かりません。人のこころは移ろいやすいものですし、変わってしまったのでは?

と唐の漢詩文を下地に女主人に親しさを前提にしたと思われる当意即妙の切り返しをします。

「いさ」は人(=女主人のこと)はさあ、どうだろうかの意です。人の心の移ろいやすさについて言及しています。「ふるさと」はここでは旧都奈良のことを指します。

そして、この土地に住むあなたもゆったりとした時間の流れる旧都奈良や梅の花のように変わらずにいてほしいという願いを込めて詠んでみせたのです。

こうした願いを春の情趣、馥郁とした梅の香りに重ねています。素朴な語感と軽快なリズムのなかにも、男と女、ちょっとドキドキするような深い味わいのある歌です。くう~憎いねぇ、さすが紀貫之。

小林一茶句碑

我もけさ 清僧の部也 梅の花
寛政十年(1798年)元旦、登嶺の際詠まれし俳句

荘厳な雰囲気の山中で迎えた今朝、身も心も清浄、自分も清僧の仲間入りした感あり、一山に響く読経の声を耳に新しい人生の首途(かどで)の決意もみなぎる。この心境を言えば、寒気の中に凛として香り咲く、まさに梅の花の如し。

鑑賞のポイント

15歳でふるさと信濃国柏原から継母親子に追い出され、下総国葛飾に奉公に出た小林一茶。それから十年、25歳の時に俳句に本格的に目覚め、二六庵竹阿に入門します。

人生50年時代の江戸後期、一茶は一念発起し、30歳からひとり西国へと俳諧修行の旅に出ます。孤独と貧困に苦しみながらも、弱きもの、虐げられしものへの優しい眼差しや向日性を失わず、京阪神、四国、九州と乞食(こつじき)行脚を続けます。そして七年にもわたる西国への旅の終わりに、奈良の初瀬、長谷寺にたどり着くのです。

その時に詠んだ句です。

俗世の垢にまみれた生活から霊験あらたかな長谷寺の空気に触れ、一茶の心にも大きな変化が起こった寛政十年(1798)元旦であったといえるでしょう。

そんな長谷寺の自然と一体となった堂宇の空気をゆっくり登廊を上がりながら、味わいます。

長谷寺紅葉コレクション

ちなみに長谷寺は三脚、一脚使用はもちろん、持ち込み禁止です。手持ちで周囲に気を十分配ってくださいませ。





本堂で十一面観音菩薩立像(撮影禁止)をじっくり仰ぎ見て、拝んだ後、

有名な本堂の舞台へ向かいます。


舞台からの眺めです。




五重塔、奥の院へ向かう道は人も少なく、のんびり散策できます。












飽きることなく、こころ静かに、紅葉の錦を味わい、秋を詠った名歌を思い出してみます。

素性法師 所載歌集:古今和歌集(309)

父である僧正遍照と京都の北山へキノコ狩りに出かけたときに詠んだ歌と詞書にあります。秋の紅葉への愛着と風雅を大事にする都人の心情が感じ取れます。

もみぢ葉は袖にこきいれてもていでなむ
秋は限りと見む人のため

鑑賞のポイント

「こき入れ」とは、枝から扱き取って入れるの意。ちょっと大げさな動作のように聞こえる語感、これが鑑賞のポイントのひとつです。キノコ狩りに来たけれど、秋はもう終わりだと思っている人たちに何としてもこの紅葉を添えてお土産に持ち帰って見せてあげようというような解釈が成り立ちます。

この歌を本歌に、派生した和歌もどうぞ一緒に声に出して読んで味わってみてください。

本歌取り三首

藤原定家

山姫の形見にそむる紅葉ばを
袖にこきいるる四方の秋風

藤原雅経

もみぢ葉を袖にこきいれてかへりけむ
人の心の色をみるかな

契沖

風吹けばこきいれぬ袖もつつむまで
都のつとに散るもみぢかな

今年の紅葉は十年に一度の美しさとも言われました。




長谷寺に咲く冬桜との共演も素晴らしい。

本坊に到着後、お約束の額縁写真と床紅葉(ゆかもみじ)をメモ。

大悲閣、本堂の舞台、鐘楼、登廊を望遠で。


ここ、長谷寺を舞台に詠まれた「祈れども逢はざる恋」の名歌をどうぞ。
晩秋から初冬へと季節は流れ、ままならぬ恋、初瀬に祈るもなお叶わぬ恋の嘆き、清新な擬人法と掛詞を駆使することで、その切ない嘆き、恨み節に深みを与えています。

源俊頼朝臣 所載歌集:千載集/小倉百人一首74

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを

解釈のポイント

「憂かりける」は恋しい人に長い間冷たくされたことを示しています。そんな人を振り向かせたいと長谷寺の十一面観音に祈りますが、その甲斐なくあの人はますます冷たくなっていく。完全にこころは離れてしまったのですね。悲しい恋の結末です。

幾重にも重なりあう山々に囲まれ、冬に吹き降ろす「山おろし」=北風は想像以上に厳しいものがあります。「はげしかれ」は山おろしと恋しい人の冷たい態度と両方に掛かります。

初瀬山の荒涼とした山おろしが具象化している失恋の深い嘆きと孤独。

現代の感覚ではなかなか理解しがたい濃艶な情趣を繊細に表現した新古今風の先駆けとでもいえる「わかれうた」と言えるのではないでしょうか?

百人一首のなかでも現代では評価の分かれるこの和歌。

私はこの一首を味わうたびに現代の天才、中島みゆきさんの「わかれうた」のこの一節を思い出し、CDを引っ張り出して聞いています。

恋の終わりはいつもいつも、立ち去るものだけが美しい。残されて戸惑うものたちは、追いかけて焦がれて泣き狂う。

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ということで本日はここまで。長時間お付き合いいただきありがとうございます。

最後に本日の名言を。常にそうありたいという私の願いでもあります。

本日の名言

超訳 ニーチェの言葉

超訳 ニーチェの言葉

フリードリヒ・ニーチェ(編訳:白取春彦)
『漂泊者とその影』
精神が高まるほど繊細なものを喜べる

精神がより高く、健康に育っていくほど、その人はあまり突飛的な笑いや下品な高笑いをしなくなるものだ。軽率で破壊的な高笑いはほとんどなくなり,微笑や喜びの表情が増えていく。


なぜならば、この人生の中にこれほど多くの楽しいことがまだ隠されていたのかと、発見のつど喜ぶようになっているからだ。つまり彼は、その微細なものを見分けることができるほど、繊細で敏感な精神の高みに達しているというわけだ。

夫婦写真散歩うるわしの奈良を歩く、撮る



本日のBGM
さだまさし「天までとどけ」

天までとどけ さだまさし

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目次:本記事の振り返り
<2019年7月21日改稿>