夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

吉備真備、箭田大塚古墳(倉敷市真備町)

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山陽道をめぐる旅の第二回、前回の倉敷市美観地区に続き、

歴史上の人物が町名に採用された場所、岡山県倉敷市真備町を歩いてみましょう。

大東亜戦争後の六町村合併で誕生した岡山県吉備郡真備町は平成の大合併で倉敷市に編入し、

現在もこの土地が生んだ奈良時代の偉人、吉備真備の名前が町名に残されています。

日本の古代国家形成に大きな役割を果たし、日本史上のスーパースターともいえる吉備真備に関する史跡をめぐる今回の旅ですが、まずは彼とこの地の歴史を語る時に欠かすことはできない、山陽道、七道について、歴史を遡ってみましょう。

日本の古代国家形成と山陽道

今からおよそ1,300年前、古代日本において律令制国家が形成されていきます。後に奈良時代と呼ばれる頃の話です。

大陸文化を積極的に学ぶために行った遣隋使、遣唐使の派遣はそれに関わった人々が命を懸けて進めた外国との交流によって、天平文化という大きな花を咲かせます。

国内制度、インフラ整備も律令国家によって進められ、都と各国の国府を結ぶ官道を造り、駅路を整備します。

写真記録 日本の街道 吉備路・山陽道: 出雲街道 / 庄原街道 / 長門路 (写真でみる「日本の道」)

写真記録 日本の街道 吉備路・山陽道: 出雲街道 / 庄原街道 / 長門路 (写真でみる「日本の道」)

日本史の教科書に必ず出てくる、いわゆる「七道」と呼ばれるものです。

七道のなかで当時もっとも重要視されたのが山陽道でした。

駅路には原則として約16kmごとに駅を置き、駅ごとに駅馬が常備されました。播磨以西の山陽道には51の駅家があり、それぞれに25頭の駅馬が置かれていました。

大路であった山陽道には駅家ごとに多くの馬が必要であり、他の官道と比較してみると、七道のなかで、中路の東海・東山両道には10頭、ほかの四道では小路として扱い5頭であった記録が残っています。

山陽道に置かれた駅家には往来する人馬の休息・宿泊施設が整備され、乗り継ぐための馬や道案内の駅子を提供するという役割が与えられていました。

それでは、なぜ山陽道がこのように重要視されたのでしょうか。それは外交使節団の入京路であったからです。山陽道の駅家は白壁の舎屋を造るように指定されていて、天平元年(729)にはそのための特別財源が充てられたという記録があります。

官道、特に大路は可能な限り直線路をつくることを原則にしていて、低丘陵地は切り通しで直線路を造った例が発掘調査で確認されています。

国家事業として進められた七道の整備、各地に設けられた駅路は歴史地理学的研究や考古学的研究によるアプローチなどにより、その実態が明らかになりつつあります。


吉備と山陽道 (街道の日本史)

吉備と山陽道 (街道の日本史)

吉備真備

備中国の古代豪族下道(しもつみち)氏出身の吉備真備は当時の日本における律令国家形成と国際化を進めたきわめて重要な人物です。

717年に遣唐使に従い留学し、経史を学び、「日本留学生で唐で名を成したものは吉備真備と阿倍仲麻呂の二人のみである」とまで称せられます。17年間さまざまな学問・知識を学び、僧玄纊らとともに帰国。

帰国後朝廷では聖武天皇に重用され、のちに孝謙=称徳天皇となる皇太子・阿倍内親王の東宮学士、東宮大夫の座につくことになります。つまり吉備真備が皇太子の教師となり、体系化された当時最先端の知識・実学を教えたのです。

吉備真備 天平の光と影

吉備真備 天平の光と影

称徳天皇が皇太子時代に教師であったという関係性は二人の間に大きな信頼を育み、やがて吉備真備が「蔭位の制」という畿内の有力豪族以外は高位高官に着くことは困難とされた制度があった時代に異例ともいえる出世を果たす政治家としての信任の篤さにもつながっていきます。

中央政界進出後はめざましい活躍で、橘諸兄のブレーンとして活躍し、藤原広嗣の反乱に巻き込まれますが、遣唐使として17年間命懸けの努力で身に付けた知識・学問は儒学・歴史・算術・兵法・建築・天文学・暦学・音楽・書道と多方面にわたります。

最先端の知識・実学を学んだ吉備真備は以下に整理して示すように朝廷の中央集権的支配体制に関わる制度面の確立・整備と学問・芸術など人として豊かに生きるために必要な知識・道徳も広めることに大きく寄与します。

制度面
  1. 律令法(中央集権的な支配体制・秩序に関する法整備)
  2. 都城制(唐の長安にあった城に倣って平城京を建設)
  3. 元号の制定と国史の編纂(朝廷支配の正当性を示す)
  4. 貨幣制度の確立(和同開珎の鋳造)
  5. 鎮護国家の使命を担う仏教の経典や戒壇を紹介した
実学・文化・芸術面
  1. 天文学・暦学・算術の知識を伝える
  2. 唐の政治情勢や唐・新羅と渤海をめぐる国際情勢に熟知
  3. 国際的緊張下に兵法を教え、恰土城(筑前国)を築造する
  4. 儒教や漢詩文の紹介(貴族階級・官人の教養教育)
  5. 国際色豊かな美術工芸品を伝える(正倉院宝物など)


吉備真備は日本の歴史を彩る政治家のなかでも、きわめて大きな人間としてのスケールを持つ人物でした。

当時、世界を広く見渡しても最先端といえる知識・教養に支えられた行動力を身に付けたスーパーマンのような存在であったといえるでしょう。

まきび公園とまきび記念館


門窓、円形の開窓から望む六角亭や池はさながら中国にいるような雰囲気が漂います。

晴れの国岡山にしては珍しく雨の降る五月中旬の訪問です。



桜や藤、牡丹の季節は美しい花に彩られる公園です。

吉備寺

現在の吉備寺は飛鳥時代に建てられた箭田廃寺の跡にあり、礎石は現在、庭石に利用されています。吉備真備を輩出した吉備氏の氏寺です。真言宗御室派の寺院で山号は鏡林山。

本尊は薬師如来で行基作と伝えられ秘仏となっています。



吉備大臣宮

学問で身を立て、朝廷の信任が篤かった吉備真備。二度にわたる命懸けの入唐によって培われた不屈の精神は、藤原仲麻呂に疎まれ、大宰府左遷の憂き目にあっても九年間頑張り通し、恰土城(筑前国)を築造と兵法の指導などで大きな功績を残し、中央政界に復帰し、見事に右大臣まで上り詰めます。

藤原仲麻呂: 率性は聡く敏くして (ミネルヴァ日本評伝選)

藤原仲麻呂: 率性は聡く敏くして (ミネルヴァ日本評伝選)

中央政界を引退し、晩年は郷里の下道郡(現在の真備町)で過ごしたともいわれています。当時としては異例の長寿、81歳(83歳説も)で没しています。真備は真吉備とも書かれるようにその名は真の吉備人を意味します。真備自身も父が託した思いを叶えたいと思っていたのかもしれません。そんな歴史ロマンを感じます。


平安時代の文献にも吉備真備が如何に朝廷の信任が篤く、学問レベルが高かったかを讃える文章が残っており、桓武天皇が吉備真備の功績を讃え述べた言葉や平安時代の学者三善清行が菅原道真に宛てた書簡にも「吉備真備と並び称せられる」と道真を褒め称えるために吉備真備を引き合いに出しています。

現在では知る人ぞ知る学業成就、受験などにもご利益のあるパワースポットとして、受験シーズンには多くの参拝客を集めているそうです。

鉄道ファンの間でも人気の井原鉄道、吉備真備駅から徒歩15分くらいの場所に史跡は集中しています。興味のある方、学業成就の祈願にぜひどうぞ。

さて、数万年前から瀬戸内の沿岸では人々の暮らしがあった確認されていますが、縄文後期には稲作が始まった跡も確認され、古代吉備王国と呼ばれる日本列島でも先進的な技術や知識が集積され、活かされていた歴史ロマンを感じる古代遺跡が数多く点在しています。

箭田大塚古墳

そのなかでも重要な箭田大塚古墳もご紹介しましょう。

岡山県下三大巨石古墳のひとつに数えられる箭田大塚古墳。内部にある石室は、巨大ないくつもの石を精密に組み合わせた横穴式の大空間で、入口の羨道とその奥の玄室に分かれています。

明治34年の調査で、須恵器や土師器などとともに、権力の強大さを示す刀剣・馬具・金環・勾玉などが発見されました。

石室全長は19.1m、うち玄室の長さ8.4m、幅3m、高さ3.8m。従来は前方後円墳とか帆立貝式古墳などと言われてきましたが、昭和58年の確認調査で周溝が検出され、直径54m、高さ7mの円墳であることが判明しています。6世紀後半の築造と考えられています。

井原鉄道井原線吉備真備駅から徒歩約23分の距離にありますので、歩いても苦にならないでしょう。


近年の研究成果によって、下道朝臣氏との関連も指摘されている箭田大塚古墳。

静かな場所にあり、穏やかな瀬戸内の空気と光を道端に咲く季節の花々とともに味わいながら、ゆっくり歩いてみました。


この日のお昼は和懐石風のランチ、瀬戸内の豊かな恵みを有難くいただきました。

次回も吉備路、山陽道をめぐる旅をご紹介します。それではようやく猛暑も一段落でしょうか、平年並みの暑さは残るかもしれません。どうぞ御身大切に。それではまた。

本日のBGM

Antonio Carlos Jobim with Herbie Hancock (Live)「Wave」


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