江戸、東京の名園をご紹介するシリーズも早八回目を迎えました。
今回は東京23区の地図を俯瞰で眺めていると、緑地の広大さに驚く白金の森を中心にお届けします。
前回ご紹介した池田山公園からも近く、
港区白金台五丁目に松岡美術館と自然教育園はあります。
白金台、目黒駅からも近く、白金の森周辺は各国の大使館や聖心女子学院・明治学院をはじめ瀟洒な建物が多く、大人の散策にはうってつけの場所でもあります。
以前、真夏の自然教育園をご紹介しましたが、四季折々の魅力に溢れるこの場所は我が家も年に数回訪問しています。
自然教育園【夫婦写真散歩・過去記事】
そこで今回は紅葉の季節、色づく園内の風景をご紹介いたします。
ここは江戸時代、広大な讃岐高松藩松平家の下屋敷だった場所です。現在は港区白金台五丁目にあたります。
自然環境の保護という観点から考えると、明治維新以降、長く軍事施設および皇室御料地であったことが幸いし、園内には国指定の天然記念物・史跡も多く、珍しい花木、植物を見ることができます。
また現在は工事中ですが、東京都庭園美術館も讃岐高松藩松平家の下屋敷跡に建てられています。
東京都庭園美術館
大正時代には皇室御料地であった一万坪余りが宮家である朝香宮に下賜され、同家の邸宅として昭和八年(1933)に建てられた建物を、そのまま美術館として公開したものです。
戦後の一時期、外務大臣・首相公邸、国の迎賓館などとして使われてきましたが、建設から半世紀後の昭和58年(1983)10月1日、美術館として新しく生まれかわりました。
東京都庭園美術館は平成26年(2014)年度中にリニューアルオープンの予定とのことです。開館が楽しみです。
それでは讃岐高松藩松平家の下屋敷跡である「しろかねの森」を歩いてみましょう。
国立科学博物館附属自然教育園の紅葉
明治維新から100年近く手つかずの森であったことで、端正に手入れされた大名庭園とは違う風趣を味わうことができます。
この場所を訪れるたびに思うことですが、
何と貴重な自然環境なのかと、
都会の雑踏、喧噪から離れ、こころも静かに落ち着きます。
業上憂悶やコンクリート・ジャングルである都心にいることを忘れさせてくれる場所です。
かつては讃岐高松藩松平家の大名庭園として造園されたと考えられている場所も、
明治、大正、昭和、平成と100年以上の時を経て、
味わい深い空間となっています。
紅葉の見頃は例年11月下旬から12月中旬までですが、自然教育園のウェブサイトで確認してからお出掛けされることをおススメします。
四季折々の動植物に関する情報発信はとても丁寧ですので、訪問者にとっては有難い配慮です。
国立科学博物館付属自然教育園ホームページ
自然教育園バーチャルガーデン
http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/sizenen/index.html
縁起物植物もヤブコウジ十両、カラタチバナ百両、センリョウ、マンリョウと自生したものが見られます。
雌雄異株の木で、一年ごとに豊作と凶作を繰り返すイイギリも今年は豊作でした。
たっぷり自然教育園の紅葉を味わったあとは、隣接する松岡美術館を訪問します。
松岡美術館
http://www.matsuoka-museum.jp/
実業家であり、新宿美術学院を設立した松岡清次郎氏の人となりについては公式サイトでぜひご確認ください。
http://www.matsuoka-museum.jp/about/
「人はどんなに偉くなっても、やがて忘れられる。そこへいくと、古代の第一級の美術品はずっと後世に残る。自分が集めたものを、未来の人々に鑑賞してもらう。これが私の夢ですよ」
清次郎は80歳を契機に「これまで自分のためだけに蒐集してきた美術品を一般公開し、広く愛好家に楽しんでいただこう」と美術館設立を決意し、昭和50年(1975)11月、東京港区新橋の自社ビル内に「松岡美術館」を創設しました。
その後もコレクションは増え続けたため、東京両国にビルを建設し、その中に規模の大きな新美術館を入れる計画を立てていましたが、志半ばにして亡くなりました。
遺志を継いだ遺族が選んだ場所は、お気に入りだった港区白金台の自宅でした。平成12年(2000)4月に新美術館が完成し現在に至っています。
松岡美術館が白金台に移転したのは比較的最近のことですが、中庭が見事で、ここはデジタルカメラのAF合焦音やシャッター音などを消して、手持ちでなら撮影も許可される珍しい場所で、美術館の懐の深さを感じます。
松岡美術館中庭
ガラス越しですが、周囲の方に迷惑にならないようご配慮お願いします。
ちなみに現在松岡美術館のある場所は江戸時代、三河西尾藩松平家の下屋敷でした。
江戸幕府八代将軍徳川吉宗の大抜擢で、老中となった松平乗邑の子、松平和泉守乗佑が初代藩主です。
大給松平家出色の人物と評価された父・松平乗邑(のりさと)は元文二年(1737)幕府の農財政の最高責任者である勝手掛老中となり、神尾春央・堀江芳極および「新代官」と呼ばれる農財政官僚群を率いて、幕府財政の再建に取り組んでいます。
この結果、延享元年(1744)には享保の改革期における年貢徴収量の最高値を記録します。
移封・転封を繰り返し苦労を重ねた若き日から享保の改革で功労者となるものの、老中職を罷免されるという波乱万丈の人生を送った父・松平乗邑の後を継ぎ、三河西尾藩初代藩主となった松平和泉守乗佑の下屋敷であった土地は、明治に入ると渋沢栄一の長男として生まれるも裁判で廃嫡となった渋沢篤二氏が入手し、新橋の芸者・玉蝶と白金のこの地で暮らし、遊蕩三昧の余生を送ったといいます。
いまほどではないのでしょうが、これは明治時代のスキャンダルとして世間を騒がせた渋沢家の話です。現代ならテレビドラマ化の格好の話題になりそうな話ですね。
その後、昭和に入り、実業家として成功した松岡清次郎氏が購入、風雅な私邸を築いたと伝わっています。
まさに文字通り、土地と人に歴史あり、でございます。
このあと、白金高輪周辺の紅葉を撮りながら、のんびり歩き、
明治学院大学の銀杏をメモしてから、
高輪消防署経由で泉岳寺へと向かった一日でした。
大名庭園を中心にお届けしてきた江戸・東京の名園シリーズはここでひとまず一区切り。
まだまだご紹介したい場所はありますが、次回は趣向をちょっと変えた歴史散歩をお届けする予定です。それではまた。