広さ8,000坪にも及ぶ潮入りの池を中心とした大泉水の眺めは潮の干満によって繊細にその表情を変え、園内に造られた二つの鴨場も往時の面影をいまに伝える国指定特別名勝・特別史跡、浜離宮恩賜庭園。
浜離宮の海水を引き入れた東京都内唯一の潮入りの池には管理事務所によるとボラ、セイゴ、ハゼ、ウナギなどの海水魚が棲息しているといいます。
また隅田川から東京の街を眺め、リバーフロントや隅田川に架かる個性的な14の橋、そして新しい東都のランドマーク、東京スカイツリーをたっぷり味わうことが出来る水上バスの発着場でもあります。
かつては江戸城の出城としての機能も果たし、明治維新まで徳川将軍家の別邸・浜御殿と呼ばれたこの地の歴史をまずは簡単に振り返ってみましょう。
浜離宮恩賜庭園の歴史
https://teien.tokyo-park.or.jp/contents/index028.html
甲府藩主松平綱重別邸時代
この地は葦の生い茂る将軍家の鷹狩の場でした。承応三年(1654)四代将軍徳川家綱の弟で、甲斐甲府藩主であった松平綱重がこの地を拝領し、海を埋め立て造成し、「甲府殿浜屋敷」または「海手屋敷」と呼ばれる別邸を建てたことが始まりでした。
松平綱豊(徳川家宣)による大改修
甲府宰相と呼ばれた松平綱重の長男・綱豊が宝永六年(1709)六代将軍家宣として将軍の座に就いてから、父の意志を受け継ぎ「浜御殿」として園内を大改修し、景観を整えていきます。茶屋、鴨場などを設け、将軍家の行楽や接待の場としても活用されたと記録に残っています。
六代将軍徳川家宣以降、歴代将軍はこの浜御殿にさまざまな改造を加えます。将軍自身の休息や釣り、鴨猟などの遊興にあわせたものや京都の公家たちを接待し、武家と公家が饗宴を共にする場という、他の庭園にはあまり見られない独自の性格を持たせていきます。
徳川吉宗時代
八代将軍徳川吉宗は倹約による幕政改革に挑んでいたため、当時人気を博していた園芸や造園にほとんど興味を持っていなかったのですが、ベトナムから海路、長崎まで運ばれてきた象を博物学には興味のあった吉宗は「それは珍しい、ぜひこの目で見たい」と享保二年(1729)江戸までほとんどの行程を徒歩旅行させ、当初この浜離宮でオスの象を飼育したといいます。
徳川家斉時代
また大奥を肥大化させ、55人とも、またそれ以上ともいわれる実子を儲け、徳川将軍家一の子だくさんで有名な十一代将軍徳川家斉は園内に茶屋を数多く造り、茶屋群を形成します。
その影響もあって、大奥の女性たちもこの浜御殿の庭園でよく遊び、徳川家斉の正室・繁子は奥女中を引き連れて釣りを楽しみ、あまりの楽しさに予定の時刻を過ぎても江戸城に帰りたがらず、駄々をこねて周囲を困らせたというエピソードまで残っています。
やがて徳川幕府は崩壊し、明治維新ののちは皇室の離宮となり、名称も「浜離宮」となります。
その後関東大震災、東京大空襲などで園内の建造物や樹木も壊滅的な被害に見舞われ、往時の面影を失ったといいます。
しかし戦後、東京都に下賜されてから、復興事業が進み、整備の後に昭和21年4月から「浜離宮恩賜庭園」として公開され、長い年月を掛け、着々と整備が進められ、現在のような景観となっています。
三百年の松
六代将軍徳川家宣による庭園の大改修が行われた時にその偉業を讃え植えられた松です。
低く張り出した太い枝が見事な三百年の松は四季を通じて来園者の目を楽しませてくれます。
春には梅林、桜も楽しめ、牡丹園も見事です。
お花畑では菜の花、秋にはコスモスが咲き誇る浜離宮。
レインボーブリッジも望める築山の眺めも現代人ならでは楽しみです。
歩いては立ち止まり、立ち止まってはじっくり眺めを楽しむ。
見飽きぬ眺望は復原されたお茶屋で抹茶、和菓子セットをいただきながらというのも楽しいものです。
珍しい潮入りの庭園は十一代将軍徳川家斉の時代に現在の姿に近いものになったといいます。
江戸時代に発達した大名庭園の代表格、浜御殿。
明治以降は浜離宮と呼ばれ、皇室の観桜会、迎賓・謁見の場としても利活用されていた貴重な文化財庭園です。
一度この海辺の庭園で過ごす時間をゆっくり味わうと、東都にお住まいの方なら年に数回は訪ねたい場所になることでしょう。
次回は名石の庭をご紹介する予定です。それではまた。本日のBGM
Denny Zeitlin & David Friesen 「Echo of a kiss」