夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

倉敷美観地区

この記事の情報を以下のSNSで共有(シェア)するためのボタンです。ご活用ください。

倉敷川の流れに沿って白壁の建物が立ち並び、美しい掘割りがあり、柳の並木が風に揺れる倉敷美観地区。

歴史・文化の保存、町並み整備を全国の自治体の中でも先端を走って推し進め、他のお手本となってきました。

世界的にも有名な「大原美術館」を筆頭に数多くの文化施設があり、私設の美術館、記念館をあわせると一日ではとても回りきれません。

江戸時代、幕府の天領地として生活物資の集散地であった商都、倉敷。

そこには豪商たちが育んだ旦那文化やこれぞまさにMade in Japanという手仕事の伝統と気風が街並みにも反映され、さらには趣きを残した町屋、古民家再生も50年前から取り組んできた長い歴史があります。

瀬戸内の温暖な気候と情緒豊かな古き良き日本の空気が体感でき、一年に数回訪れても飽きることなく散策を楽しめる倉敷美観地区周辺を今回はご紹介します。

美しい町並みはどうやって今日に至ったのか。まずは倉敷の歴史を振り返ることとします。

現在の倉敷美観地区と呼ばれる観光スポットは備中国に属していました。

時計の針を関ヶ原の戦い直後まで戻すと、この頃の備中国は小知行地が錯綜する状況であったため、江戸幕府は小堀正次とその子、政一(のちに別名を小堀遠州という)を国奉行として派遣しました。

国奉行とは江戸時代初期、慶長・元和年間(1596〜1624)に畿内とその周囲に限って置いたものです。徳川政権にとって全国支配の重要な地域と考えた場所であったことを示しています。

豊かな自然環境を背景に、農業生産のみならず、古代から始まった鉄をはじめとする備中国の工業生産は江戸時代初期には全国の60%を超える生産量を誇り、なかでも備中倉敷は瀬戸内の水運を活用し栄えた商品流通の重要拠点でした。

しかし小知行地が乱立し、錯綜したため、農工業生産、水運、陸運と経済的に高いポテンシャルを持ち、地政学上も重要な備中国諸藩を連携させ、上手にまとめながら、権力や財力の集中を防ぐという徳川幕府の深謀遠慮がそこにはありました。

備中国奉行に任ぜられた小堀親子は次に示す五つの活動を行います。

  1. 備中国で生産される鉄や銅の集荷
  2. 備中特産の檀紙の生産・集荷
  3. 瀬戸内水運の確保(塩飽諸島・小豆島・真鍋島・倉敷・笠岡・連島の水主浦などの掌握)
  4. 備中各地に幕府直轄領を設定し、旗本領・公家領などの割り渡しを行う
  5. 備中松山城(高梁市)とその城下町の整備

小堀遠州

小堀遠州 綺麗さびの極み (とんぼの本)

小堀遠州 綺麗さびの極み (とんぼの本)

小堀遠州と聞けば、まずは駿府城修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営や備中松山城の再建等の宮中や幕府関係の作事奉行をはじめ、作庭家としても有名です。
現在では「きれいさび」と呼ばれる小堀遠州流を確立した大名茶人として、また華道でも後世までその名を残す粋人と思い起こす方も多いことでしょう。
小堀遠州―「綺麗さび」のこころ (別冊太陽 日本のこころ 160)

小堀遠州―「綺麗さび」のこころ (別冊太陽 日本のこころ 160)

徳川将軍上洛の際の休泊所である水口城(滋賀県甲賀市水口町)、伊庭御茶屋(滋賀県東近江市伊庭町)、大坂城内御茶屋をはじめ、江戸では品川東海寺(徳川家の菩提寺兼別荘)、京都では将軍側近者・崇伝長老の住坊である南禅寺金地院内東照宮や御祈祷殿(方丈)側の富貴の間、茶室および庭園、同寺本坊の方丈庭園など準公儀の作事に参画しています。
小堀遠州―気品と静寂が貫く綺麗さびの庭 (シリーズ京の庭の巨匠たち)

小堀遠州―気品と静寂が貫く綺麗さびの庭 (シリーズ京の庭の巨匠たち)

  • 作者: 北岡慎也,田畑みなお,野村勘治
  • 出版社/メーカー: 京都通信社
  • 発売日: 2008/10
  • メディア: 大型本
  • 購入: 1人 クリック: 24回
  • この商品を含むブログを見る

元和三年、小堀政一(遠州)が河内国奉行に転出し、その後は池田家が備中松山城に入り、備中松山藩が成立します。

備中国は江戸時代、諸藩が分立し、倉敷は国奉行小堀遠州の時代には地先(じさき)漁業の占有権を認められた水主役(かこやく)を請け負った水主浦(加子浦)として栄え、のちに寛永19年(1642)代官所が置かれます。

代官所門前には庄屋、掛屋、郷宿など有力町人の屋敷が軒を連ね、繰綿・綿実・菜種・干鰯・油・酒・醤油・雑穀などを扱う商人も数多く、寛文12年(1672)には2,536人だった人口が、江戸後期、文化文政年間には7,200人を超えたと記録に残っています。倉敷は西日本を代表する一大商業都市のひとつでした。

かくして幕末まで一貫して倉敷代官所を中心とした陣屋町として存続することとなります。

ちなみに陣屋町とは江戸時代の日本における都市形態のひとつで、行政の中心施設として陣屋や代官所が置かれた町地を指す言葉です。

幕末の動乱と備中松山藩、山田方谷

ペリーの黒船来航は江戸から遠く離れた現在の岡山県にあった諸藩にも少なからず影響を与えます。

今年4月にアップした「岡山城、岡山後楽園、名君の条件」と題した記事のなかで詳しく紹介した名君池田光政を祖とする池田家が代々藩主を務めた岡山藩は安房・上総という現在の千葉県房総半島の警備を命じられます。

遠く岡山から房総半島へ1,100名もの軍勢を派遣したり、文武振起を家臣に命じ、西洋流砲術修業など房総警備による多大の財政支出が生じ、藩の財政は急激に悪化します。そのため安政年間には近国への配置換えを幕府に願い出て、鳥取藩、土浦藩とともに大坂表警備に変わります。

さらに文久三年(1863)には讃岐塩飽島と備中海岸警備に移され、翌元治元年(1864)には讃岐直島警備に振り替えられるなど地元での湾岸警備や砲台場建設など有事を想定した財政支出は領民へ厳重な倹約を求めることとなり、藩は窮乏していきます。

その頃、備中松山藩は軍政改革、農政の刷新、地方役人の風紀を正し、動乱のなかにあっても積極的に山野を開墾し、道路・水路を整備します。さらに殖産興業と人材の育成=教育改革を強力に推し進め、備中特産の檀紙・煙草・陶器などの増産を図り、領内の鉄山・銅山を直営化します。その結果財政再建にいち早く成功します。その立役者が山田方谷でした。

山田方谷―河井継之助が学んだ藩政改革の師 (人物文庫)

山田方谷―河井継之助が学んだ藩政改革の師 (人物文庫)

山田方谷(1805〜1877)は、朱子学や陽明学を学び、学問の道で身を立てたいと考えていましたが、幕末期に破綻寸前であった備中松山藩五万石において財政の再建を任されます。

まず彼は農民からの年貢の取立てを減らし、商人への税を増やす一方、武士の俸禄を減らし、かなり厳しい質素倹約を命じます。

備中松山藩の藩士はもちろん、有力商人からも大きな反感を買ったといいます。

山田方谷の藩政改革の多くは命がけで行わなければならないものでした。

儒教における「四書」のひとつである「中庸」に「素行自得」(そこうじとく)という言葉があります。「どのような環境であっても素直に順応し、新しい境地を自力で開拓していくことが大切」という教えです。

厳しい役回りを与えられた彼はその「素行自得」という言葉を信条とし、改革に挑みます。

陽明学を学んだ山田方谷は天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり、度を超えた贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっていたため、私欲に駆られた心で行為に走ると、道理の判断を誤ることが多いという人間の欠点を深く洞察し、自らが学んだ陽明学の欠点をもしっかりと理解していました。

そのため役人の綱紀を正し、政令をもって進むべき方向を明らかにするのが「義」であると説きます。

その「義」を明らかにせず、バラ撒きなど誰にでも分かりやすい形で「利」であるその場しのぎの窮乏や飢餓を逃れようとする改革では成果は上げられないと指摘し、さまざまな改革においてその精神を実践に移します。

まずは旧態依然とした考えに支配され、自己保身と既得権にしがみつく、役人から慣れ親しんだルーティンワークを奪います。

厳格な身分制度に支配されていた江戸時代、しかも動乱の時期に武家や有力商人を敵に回す危険性のある大胆な改革を推し進めるのです。

財政の天才 幕末を駆ける ~山田方谷・奇跡の藩政改革~ [DVD]

財政の天才 幕末を駆ける ~山田方谷・奇跡の藩政改革~ [DVD]

現状が「いまのまま」で推移することを前提とし、「年貢は対前年度比でこの程度は入るだろう。ならば利子はこれくらい払わないといけない」というような「現状の延長」だけで考えると、将来は絶望的であるといったような悲観論に心は簡単に支配されてしまいます。

しかし、山田方谷はどこかに売るものは必ずある。ならば、その商品化や換金方法だけでなく、商品としての流通機構そのものを考え、構築する。現在借金をしているところには自ら行って支払猶予や支払い方法の変更などを説得して歩く。

米に頼らず、産業を興せば、必ず財政は再建できると彼は考えていたのです。

そのためには教育が重要だという長期ビジョンの提示と改革の実行に努めます。身分に関係なく、優秀な生徒は、役人に抜擢していったこともそのひとつの現れといえるでしょう。

あえて苦渋の決断を選ぶことが多かった山田方谷の改革断行でした。

財政改革にせよ、綱紀粛正にせよ、山野の開墾・農政の刷新・農兵隊の組織化、困窮者の救恤など、いずれも幕末の動乱期の改革です。それはそれは辛い仕事であったことでしょう。しかし「義」と「利」の分別をつけていけば、おのずと道は開け、領内に飢餓する者はいなくなることを説いたのです。

藩政改革断行の結果、わずか八年間で借金10万両、現在の貨幣価値に換算すると約300億円を返済し、余剰金10万両を作ったといわれています。見事、藩財政の立て直しに成功した卓越した政治家、理財家として後世まで名を残しています。

財政破綻を救う山田方谷「理財論」―上杉鷹山をしのぐ改革者 (小学館文庫)

財政破綻を救う山田方谷「理財論」―上杉鷹山をしのぐ改革者 (小学館文庫)

尊王攘夷運動と長州戦争の影響

幕末期の政局は日米修好通商条約の勅許と将軍継嗣という二つの問題をめぐり、さらに動揺していました。山田方谷の上司でもある備中松山藩主、板倉勝静(かつきよ)は藩政改革を成功させた手腕を評価され、安政四年(1857)寺社奉行に大抜擢されます。

その後安政の大獄をめぐり、大老井伊直弼と対立し、寺社奉行を罷免されます。安政七年(1860)桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、寺社奉行に復帰し、文久二年(1862)には外国掛と勝手掛老中になります。ところが幕閣内の争いから老中職を罷免されてしまいます。

元治元年(1864)に起こった禁門の変(=蛤御門の変)では前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げ、京都市中も戦火により約25,700戸が焼失するなど、徳川幕府開闢以来270年近く続いた太平の世を揺るがす大事件となりました。

勅命による長州藩征討が幕府に命ぜられ、西国二十一藩に出兵が要請されます。第一次長州戦争です。

備中松山藩には「征長先鋒」が命ぜられ、藩主板倉勝静みずから藩士の大半を率いて広島へ出陣します。そして倉敷代官所は幕府軍を支える兵站基地となりました。備中幕領で集められた食料、燃料は年貢の一年分近い膨大な量となります。

幕府軍の圧倒的な軍事力をまえに長州藩は戦いを避け、降伏、その年の末には撤兵令が下されます。

撤兵後、板倉勝静は一橋慶喜、松平容保、松平定敬(さだあき)などの要請により老中に復帰することになります。

倉敷代官所襲撃事件

第二次長州出兵の準備が進められていた慶応二年(1866)、長州第二奇兵隊の脱走兵士100人余りが倉敷代官所を襲撃するという事件が起こります。彼らの目的は幕府軍の軍備を混乱させるとともに長州軍を鼓舞することにあったといいます。

しかし、その行動は長州藩の軍規に違反した独断的なものでした。

襲撃当時、倉敷代官は広島に戦争準備のため出張していた留守を突かれたため、防戦の手立てもなく陣屋の主要部分が焼失しました。

その遺構が鶴形山に現在も残っています。

観龍寺山門


槍の突き跡です。

やがて時代は明治維新へと移り変わりますが、現在の岡山県にあった諸藩は新政府への帰順の態度を明確にし、諸藩は存続することになりました。

鶴形山公園と阿智神社

文字通り鶴の形をした小高い山の上には、

阿智神社があります。

阿智神社公式サイト

阿智神社の由来を引用しますと、

応神朝に朝鮮半島より渡ってきた漢の霊帝の曾孫、阿知使主(あちのおみ)一族。彼等は「製鉄」「機織」「土木」等の先進文化を担う技術集団として、吉備国の繁栄の礎を築き、当時、島(内亀島)であったこの鶴形山に神々の天降られる斎庭として、日本最古の蓬莱様式の古代庭園を造ったと伝えられている。


白壁の蔵の町、倉敷美観地区の一角にある鶴形山の頂上に鎮座する当社は、この阿知使主一族の大いなる功績を称え、明治時代に現社名になったが、社伝によると神功皇后がこの付近を航行の折、嵐に遭い祈願されたところ、三振の剣が天空より明るく輝いてこの山に天下ったため、「明剣宮」として、宗像三女神をお祀りしたとされている。中世、神道が仏教と習合し、明治までは「妙見宮」と称され、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた。


神の宗像三女神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神で、海の守護神であり、交通交易、財宝、芸術、美の神でもある。その他、応神天皇を始め、約三十柱の神々をお祀りしている。


また山には神々をお祀りする磐坐(いわくら)が点在し、古代から神の島として崇められてきたと思われる。

拝殿の注連縄が立派です。

雨に煙る本殿。

それではバーチャル参拝をどうぞ。

鶴形山公園を降り、美観地区を散策してみましょう。

寛政年間の常夜燈。


四季を通じて風情のある町並みですが、夏の写真2013は倉敷美観地区でも。
初夏(5月中旬)と盛夏の二回、今年は訪れることができました。

倉敷美観地区夏景色







現在プロ野球パ・リーグの首位、楽天の監督、星野仙一さんも倉敷出身。

倉敷アイビースクエア

我が家はここで結婚生活をスタートしました。記念の場所です。

蔦の絡まる風情のある建物です。



ここは倉敷紡績所があった場所です。

大原美術館

大原家といえば、倉敷の豪商。倉敷紡績の社長、倉敷銀行の頭取を務め、倉敷中央病院を開設し、大原美術館を開いた大原孫三郎や大原総一郎親子の名を知らぬ倉敷人はいないでしょう。現在の倉敷美観地区を形成した原動力となったことも忘れていけない歴史であると思います。

橘香堂美観地区店

この日は最高気温36℃を超える猛烈な暑さ。


かき氷と言いたいところでしたが、倉敷銘菓「むらすずめ」を熱い珈琲と共に。

新渓園

明治26年、倉敷紡績の初代社長大原孝四郎氏の別荘として建設されたもので、和風建築として高く評価されました。その後、広く一般に開放されて、市民の憩いの場として親しまれています。





そして倉敷美観地区のランチに美味しいものは数多くあれど、いつも我が家はこれ。

ふるいちのぶっかけスペシャル@ぶっかけ亭本舗 ふるいち 仲店

最高ですよ、ふるいちのぶっかけスペシャル。
讃岐うどん文化圏でもある倉敷。
ぶっかけの元祖は「ふるいち」さんです。
うどん好きはぜひ、倉敷駅からも近い仲店で。

歩くほどに味わいの深い倉敷美観地区。
倉敷グルメ、スイーツも盛りだくさんです。
ぜひ一度ゆっくり散策してみてはいかがでしょう。



次回から岡山県、瀬戸内、山陽道、吉備路を巡る旅シリーズ第二弾とまいります。

前回は

  1. 備中国分寺
  2. 吉備津神社
  3. 岡山城、岡山後楽園、名君の条件


とご紹介しましたが、第二弾はただいま資料整理と写真選択に励んでおります。乞うご期待(苦笑)。

それではまだまだ残暑厳しいようです。皆様御身大切にご自愛くださいませ。

本日のBGM

Pamela Driggs_Mairzy Doats_feat.Romero Lubambo


Itacuruca

Itacuruca