明けましておめでとうございます。謹んで新年のお慶びを申し上げます。
旧年中はたいへんお世話になりました。
年頭にあたり、改めて御礼申し上げます。ありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。
池田山公園の魅力
心新たに2014年新春第一回目の夫婦写真散歩でお届けするのは、
東都、大江戸にあって霊峰富士の龍脈=パワーが流れてくる場所としても有名な場所、池田山公園です。
心を若返らせてくれる清々しい気に満ち溢れ、風水的にも公園全体が龍穴と呼ばれるパワースポットであるという風聞が広がり、近年注目を集めています。
池田山とは?
高級住宅街として瀟洒な一戸建てやマンションが立ち並ぶ品川区東五反田。
その東五反田から目黒通りを挟んで目黒区白金台周辺は荏原台地と呼ばれていました。
標高20〜40メートルの高台が北東から南西に向かって次第に低くなっており、台地南面は目黒川が流れています。
現代の高層建築が立ち並ぶ前は台地からの眺望はよく、遠く北東方向は筑波山、南は江戸湾が広がり、西には霊峰富士と、特に富士山を眺めるには恰好の場所でした。
歌川広重も富士山が見える江戸名所として、この荏原台地からみえる富士見の風景を三枚も残しています。目黒、荏原台地の一角が江戸時代、池田山と呼ばれるようになります。
ではなぜ池田山と呼ばれたのでしょうか?
現代において広大な敷地を持つ旧関東逓信病院、現在のNTT東日本関東病院がある品川区東五反田四丁目から五丁目のほぼ全域、敷地面積13万平方メートル、坪数に換算すると39,325坪の土地が江戸時代、岡山藩池田家の下屋敷として与えられました。
名君池田光政によって全国屈指の雄藩に成長した池田家下屋敷があったため、池田山と呼ばれます。
岡山藩池田家の歴史
では江戸時代、その池田山周辺はどんな場所だったのでしょうか?
池田山のそばを通る相模街道は富くじ興行で江戸市民を熱狂させた目黒不動尊や有名寺院の祐天寺もあったため、縁日は多くの参詣者で賑わいました。現在の目黒通りにあたります。
当時の目黒通り(相模街道)は観光スポットとしても大人気だった目黒不動尊などへの参詣者の往来で日中は賑わうものの、日の短い冬ともなれば、七つ時=午後四時を過ぎ、夜の帳が下りる頃になると辻斬りや追剥が出没し、旅人は足早に通り抜けることを心掛けたと記録に残っています。
そのため往還沿いでは町屋の発達が遅れ、人家も少なく嘉永年間の江戸古地図を見ても大名屋敷も下屋敷か抱屋敷に限られ、周辺は田園風景が広がる場所でした。
岡山藩池田家下屋敷奥庭=池田山公園
日本三名園のひとつ岡山後楽園を造園した池田家ですから、江戸藩邸下屋敷に造った庭も素晴らしい出来栄えで、その名残が現在無料で見ることができます。大名屋敷が果たした役割(上・中・下)
大名屋敷には上屋敷・中屋敷・下屋敷の三種類がありました。
上屋敷とは?
江戸時代に存在した約300に及ぶ全国各地の「藩」では江戸事務所としての庁舎、参勤交代時に江戸勤務となる国元から従ってきた家臣にとっての居住する場所、江戸に常駐する家臣の住宅で構成された「上屋敷」が江戸城に近い場所に置かれました。
中屋敷とは?
一方中屋敷は藩主の世子=幕府公認の後継者やその父親、藩主で隠居した者、または先代の未亡人や側室の住居でした。
下屋敷の果たした役割とは?
大崎屋敷と呼ばれた池田家の下屋敷の役割ですが、江戸の大名屋敷のなかで「下屋敷」は大別すると
- 物揚場を持ち、その藩の経済活動の江戸における中心をなすもの
- 江戸で頻繁に起きた大火の際には緊急避難所に利用され、別荘・保養所の役割を持つもの
に分かれます。
大名の下屋敷は、別荘・保養地としての役割を持っていましたので、江戸郊外に広大な敷地を与えられている例が多く、現在でもそのまま公園などに活用されているところが少なくありません。
有名なところでは、戸山公園(尾張藩徳川家)、明治神宮(彦根藩井伊家)、新宿御苑(高遠藩内藤家)、青山墓地(郡上藩青山家)などがあり、池田山公園の近くにも、国立自然教育園(讃岐高松藩松平家)があります。
また上屋敷跡の中にも、赤坂御用地(紀州藩徳川家)、小石川後楽園(水戸藩徳川家)、東京大学(金沢藩前田家)、芝離宮(小田原藩大久保家)のように今も庭園としての面影を残している例もあります。巨大都市東京ですが、意外にも感じる緑の多さは、こうした江戸時代の貴重な遺産とも言えるでしょう。
池田山公園の歴史
それでは岡山藩池田家が大崎に広大な下屋敷を構えるまでの経過を歴史資料をもとに辿ってみましょう。
名君の誉れ高き藩主・池田光政のとき、明暦三年(1657)1月18日から20日にかけて、江戸の町を焦土に変えた「明暦の大火」が発生し、岡山藩は、丸の内大名小路(千代田区)に拝領していた上屋敷をはじめ三ヵ所の屋敷を焼失してしまいます。
そのため岡山藩は、新たに中屋敷を浅草三十三間堂前(現在の東京都台東区)に拝領しますが、翌年この屋敷を相対替して、下谷寺町に「下谷邸」を建て、池田家の世継ぎであり、名君池田光政のあと藩主となる池田綱政とその妻の屋敷としました。
ところが、寛文八年(1668)2月に起きた上野周辺の大火によって、この屋敷も焼失してしまったのです。
藩主光政は、藩の重臣たちに、新たな下屋敷の候補地を選定させ、その結果、候補地を上渋谷村と大崎村の二ヵ所にしぼり、実地調査の結果、大崎を下屋敷候補地に決定します。
候補地決定後、藩主池田光政は、下谷邸を返上するかわりに、大崎に下屋敷拝領を願い幕府に文書を提出しました。
幕府に拝領を認められると同時に屋敷畑や菜園を大崎の地に所有していた大和新庄藩主・桑山家と上総飯野藩主・保科家から1万5,800坪余を抱屋敷地として購入します。
寛文十年(1670)四月には、この抱屋敷に隣接する1万1,500坪余を拝領屋敷として下賜され、合計2万7,300坪余の大崎下屋敷となりました。
同じ月の23日に、藩主光政がこの地を訪れたといいます。その後も隣接する百姓地や武家地を抱屋敷として購入し、敷地の拡張をはかっていきました。
最後に購入した、宝永五年(1708)の表門外側左右の百姓地3,000坪余を合わせると、40年近くかけて手に入れた下屋敷の総面積は3万7,600坪におよぶ壮大な規模でした。
このように敷地は拝領部分と抱え部分が入り組んでいましたが、屋敷を使う際には取得形態に拘らなかったようです。
池田家は寛文10年(1670)以降、江戸時代を通して総面積3万7,600坪余の「大崎屋敷」を所持していました。
明治以降池田家下屋敷「大崎屋敷」が辿った歴史
明治になってからも、多くの部分を池田侯爵邸として使用していましたが、大正時代末期から次第に宅地として開発、分譲されていきました。
現在公園として残っているのは奥庭部分で、昭和に入り東京電力社長が購入後、東京荏原青果社長に売却されるなど個人の邸宅となっていたのを品川区が購入し、公園として整備、昭和60年に開園しました。
池田家の大名庭園として存在した当時に比べると規模が小さくなったとはいえ、三田用水を引き込んで作られたという池泉回遊式庭園は充分にその雰囲気を残しており、手入れの行き届いた公園は今や住民の憩いの場となっています。
現在の池田山公園
池田山公園外観
パワースポット巡りに関心の薄い方でも、この周辺は各国大使館の瀟洒な建物など緑の多い街並みを味わう散歩を楽しめます。
この季節は特に水分補給と念入りなストレッチしながら歩くと、心地よい散歩になります。JR五反田駅から白金・自然教育園方向へ向かって歩くコースがおススメです。
noir555.hatenablog.jp
今年も一年元気よく歩きましょう。
それではまた。