山陽道を歩く歴史散歩の第三回。今回は小藩ながら岡山県だけにとどまらず、日本における近代化の歴史に深く関わる功績を残し、重要な人物も輩出した備中足守藩、現在の岡山市北区足守にある史跡を訪ねます。
備中足守藩の歴史
備中足守藩は関ヶ原の戦いの後に備中国賀陽(かや)郡・上房郡の一部を領地に二万五千石を与えられた尾張・杉原家出身の木下家定が初代藩主です。
この木下家定は豊臣秀吉の正妻「北政所(ねね)」の実兄で、彼の五男は小早川家に養子に出された戦国武将として名高い小早川秀秋です。
大河ドラマや歴史小説にも数多く登場する秀吉の正室、ねね(北政所・高台院)と木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)はこの時代にはたいへん珍しい恋愛結婚であり、ねねの実家である尾張・杉原家の方が結婚時には格式も身分も上でした。
織田信長に仕え、戦国時代という下剋上、乱世を生き抜き、ついには天下人となった秀吉から尾張・杉原家は木下姓に改姓するようにという拝命を受け、その後、豊臣の称号も与えられることになりました。
身よりが少なかった秀吉はねねの実家である尾張・杉原家や、ねねの養家であった浅野家の人間を積極的に取り立てていたのです。
木下家(=杉原家)は当初所領として播磨国姫路藩二万五千石を任されますが、備中国足守に移されます。
しかし慶長十三年(1608)木下家定が亡くなると、いったん足守藩は消滅します。
その後、世にいう「大阪夏の陣」で豊臣家と所縁の深い家定の子であった木下利房が天下統一への道をひた走る徳川家康に付いて武勲をあげ、失地挽回となります。幕府直轄領になっていた父、家定の遺領である足守藩の相続を徳川家康によって認められ、明治維新の廃藩置県まで備中足守藩は木下家が代々藩主を受け継いでいきます。
城下町・陣屋町の形成
現在の岡山県という行政単位で考え、歴史を紐解いてみると、江戸幕府が開かれ、その政治が安定し始めると、一国一城令のもと岡山、津山、備中松山に城郭を構えた城下町が形成されます。
そのほかの知行地を与えられた大名は陣屋を構えるにとどまり、旗本や大名の家老もその知行地に陣屋を置きました。これらの陣屋町には陣屋を中心に武家地、町人地、寺社が計画的に配置され、小規模ではありますが城下町と同じような空間構成をとっています。ただし武家地と町人地を囲む惣構えの堀は造られないことが多かったようです。
前回・前々回をはじめ、これまで何度かお話ししてまいりましたが、現在の岡山県には江戸時代は大名、旗本が幕領支配した小知行地が錯綜していました。
江戸時代初期、備中国奉行に任命された小堀遠州も錯綜する小知行地をまとめる役割を担っていたわけです。
山陽道・吉備路
奈良時代=令制国時代からの伝統と名を残し、古代から発展していた吉備国(備前・備中・備後・美作)では中世においても数多くの荘園が経営され、穏やかな気候・風土に育まれた歴史と文化、そして豊かな経済圏が瀬戸内海と山陽道を中心に形成されました。
なかでも古代から吉備王国によって開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった備中国。
七世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられたなかのひとつである備中は奈良時代、律令制のもとでは上国とされ、その管理下に都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀陽(当時は賀夜という漢字が当てられました)、英賀、哲多の九郡が置かれていました。
中世に入り大規模荘園が経営され、鎌倉時代には賀陽(かや)郡の一部を割いて上房郡、下道郡の一部を割いて川上郡が置かれ、11郡と行政単位も増え、複雑になっていきます。
さらに江戸時代には吉井川・旭川・高梁川というこの地域に流れる大河川下流域の沖積平野の開発が全国に先駆け圧倒的な規模で開発が進められ、江戸開府から安定政権となり、揺るぎなき権勢を誇るまでの100年は大開発の時代とも呼ばれていますが、特にこの地域は徳川幕府から重要視されていました。
山陽道、吉備路をめぐる旅六選
倉敷市児島ジーンズストリート
備中国分寺
吉備津神社
岡山城、岡山後楽園、名君の条件
倉敷美観地区
吉備真備、箭田大塚古墳(倉敷市真備町)
列挙した通り、これまで何度か山陽道・吉備路を旅しながら、その歴史をご紹介してきましたが、今回は小藩ながらその後の岡山県にとっても、地域社会の形成に大きく貢献し、日本の歴史に足跡を残す人物を輩出した足守藩の歴史を掘り下げながら歩いてみます。
足守藩と木下家
豊臣秀吉の正室・ねね(北政所)の兄・木下家定が慶長6年(1601)播磨国姫路藩から転封し、石高も同じ二万五千石で足守に陣屋を構え立藩したわけですが、その史跡、陣屋跡はいまも残ります。
さらに木下家は小堀遠州流の大名庭園「近水園(おみずえん)」を残しました。
近水園(おみずえん)
この庭園は、足守藩主木下家の居館である屋形構の奥手に設けられた大名庭園で、御殿山(宮路山)を背景にして造られ、小堀遠州流の園池を中心とした池泉回遊式の築庭方式をとっています。
訪問した七月中旬の真夏日、地元気象台による天気予報通りのゲリラ雷雨に遭遇。備えは十分とはいうものの、無理せず、しばし近水園に建てられた吟風閣の軒先で雨宿り。雨もまたよし、小堀遠州流作庭の妙を味わいました。
近水園の築庭時期は、文章記録からは定かではありませんが、六代藩主の木下きん定の時代、18世紀初めと推定されていて、岡山県下では岡山の後楽園・津山の衆楽園と並ぶ大名庭園です。(※きん定は「公定」と電子媒体では表記されることが多いのですが、正確な漢字表記は機種依存文字にすら登録されていない特殊な漢字で「八」の下に「白」と書きます)。
約5千5百平方メートルの園地の外寄りに、東側を流れる足守川から水を取り入れて園池を設け、池内に蓬菜島を兼ねた鶴島・亀島の2つの島を浮かせ、往時は足守川との境に竹薮をめぐらし、庭園と周囲の風景とがみごとに調和させたと伝えられています。
池のほとりの山際には数寄屋造りの吟風閣が建ち、備中足守藩六代藩主木下きん定が宝永5年(1708)に徳川幕府の命を受けて、京都の仙洞御所と中宮御所の普請を行った際に、残材を持ち帰って庭園整備に活用したものです。
屋根は茅葺の切妻造りで、造作は二階が舟底天井、一階が差し天井とかなり凝っています。
雨戸は、戸袋が奥側だけにあり、開閉のとき部屋の隅柱で直角に敷居をすべらせる特殊なカラクリが施されています。
吟風閣からの庭園の眺めは、足守川を隔てた宇野山を借景にした眺望が開け、大名庭園の醍醐味を今も堪能することができます。
猛暑でしかもゲリラ雷雨、人影もほとんどなく、ゆったりとした気分で静謐を味わう近水園散歩となりました。
文人大名としても知られる六代藩主木下公定(1679〜1729)は領内の空き地に梅や柿、梨を植えることを奨励し、飢饉への備えとする政策も実行しています。
のちにこれを見習った十三代藩主木下利恭は幕末の動乱期に家臣を上州群馬に派遣し、当時名声を誇っていた上州梨の栽培方法を学ばせ、苗木を足守に送らせます。
実はこれが明治時代になって本格的に梨が岡山県下で栽培されるきっかけとなったのだそうです。果物王国岡山が誕生する影の功労者に木下家の存在があったといえるのかもしれません。
緒方洪庵と適々斎塾(大阪・適塾)
備中足守藩出身でもっとも有名な歴史上の人物、偉人といえば、緒方洪庵先生です。
緒方洪庵は江戸時代後期、文化七年(1810)備中足守藩士・佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男として生まれます。文政八年(1825)父・惟因は大阪蔵屋敷の留守居役を命ぜられ、洪庵を連れて、大阪に赴任します。この地で洪庵は医学の道を志し、洋方医、中天游(なか てんゆう)の門人となります。当初は中天游の私塾「思々斎塾」に足守藩の大阪蔵屋敷から通いますが、勉学に専念するため、天游の家に身を寄せ、四年後、師のススメで江戸修学を決めます。
江戸では坪井信道の塾に入り、さらに信道のススメもあり、宇田川玄真や美作出身で、津山洋学と呼ばれるほどの名を残す蘭学者となった箕作(みつくり)阮甫(げんぽ)といった当時江戸在住であった日本の洋学・医学をリードしていた俊英たちの門を叩きます。
薬物学・病理学をはじめ、洋学・医療全般の研鑽を深め、多くの翻訳・編述を手掛け、四年間にわたる江戸修学は実り多き成果を挙げます。その後当時最先端の医学知識を学ぶことが出来た長崎での蘭学修業へと向かいます。最先端の医学知識が集まる長崎で研鑽を積んだあと、大阪の地に「適々斎塾」を開き、医療活動も並行して行い、種痘の普及事業とコレラ対策に奔走します。
多士済々、適塾出身者の活躍
医療活動、翻訳事業を意欲的に進化させながら、人材育成においても通称「適塾」で学んだ緒方洪庵門下からは、
大鳥圭介
岡山の閑谷学校で儒学・漢方医学を学び、西洋軍学・兵法の指導から明治維新後はさまざまな殖産興業に関わり、大鳥活字と呼ばれる日本初の合金製活版を作ったことでも知られる技術官僚・大鳥圭介。その多才な能力、見識、経験をもって外交官としても活躍し、のちに学習院の院長も務めます。
長与専斎
肥前国大村藩(現在の長崎県)出身で内務省初代衛生局長として日本における衛生思想の普及に尽力した長与専斎。ちなみに彼の五男・長与善郎は白樺派の小説家・劇作家です。
佐野常民
佐賀の七賢人とも称される日本赤十字社初代総裁・佐野常民も適塾出身です。
1877年に起きた西南の役(西南戦争)で、あまりの惨状に心を痛めた彼は博愛社を創設し、敵味方の区別なく負傷者を救護しました。
これが日本における赤十字事業のはじまりです。十年後、博愛社は日本赤十字社となり、佐野常民は初代社長に就任しました。
のちに大蔵卿、元老院議長など、政府の要職を歴任する一方で、工部大丞兼燈台頭として洋式燈台の建設、さらには内国勧業博覧会による伝統美術・工芸の発掘、日本美術協会の前進「龍池会」の会頭として芸術家の保護・育成に力を尽くすなど、佐野常民は近代日本の形成過程において、多方面にわたり数々の足跡を残します。
高松凌雲
筑後国(現在の福岡県)で庄屋の子として生まれたものの20歳で久留米藩士の家に養子に出してもらい、医師を志し、適塾に学んだ高松凌雲。
彼はオランダ語を徹底的に学び、その語学力は西洋医学の知識のみならず、オランダ語を意のままに操るほどであったといいます。彼の学才を知った一橋家から専属医師に抜擢され、ほぼ時を同じくして一橋家出身の徳川慶喜が第15代将軍となったため、江戸幕府から奥詰医師として登用されました。
倒幕寸前であった徳川幕府から留学費用の全額を負担してもらい、パリ留学も行くことが出来、オテル・デュウ(HOTEL-DIEU:神の家)という病院を兼ねた医学学校で麻酔を用いた開腹手術を学びます。
帰国後、民間救護団体の前身と言われる同愛社を創設し、日本における赤十字運動の先駆者として活躍します。
このように枚挙に暇がないほどの有為な人材を育てた適塾の教育内容は医学だけにとどまらず、当時蘭学を志すものは「皆此塾に入りて其支度をなす」といわれたほどでした。適塾姓名録
幕末の日本全国から俊才が集まっていたといっても決して過言ではない適塾。弘化元年(1844)から元治元年(1864)までの適塾姓名録には637人の署名が残っていますが、出身都道府県別分布でみると
- 山口県:56人
- 岡山県:46人
- 佐賀県:34人
- 石川・兵庫・福岡各県:33人
- 広島県:31人
- 京都府:26人
- 福井県:25人
- 愛媛県:22人
- 大分県:21人
- 大阪府:19人
と西日本を中心に青森、沖縄以外の45都道府県から蘭学を志す優秀で意欲溢れる若者が集い、明治維新以降の近代化に大きな功績を残し、活躍することになります。
中央で活躍した英才は歴史小説やドラマで演じられることが多く、勇名をはせますが、それぞれの出身地域に帰り、地道に教育や医療の発展に努めた人材を多数生み出したことも適塾の大きな功績といえるでしょう。
当時即時実現不可能な「正論」に酔いしれ、武威をもって、理想を実現しようとする血気盛んな若者も多い幕末にあって、
医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其の業の本旨とす。
安逸を思わず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし。
人の生命を保全し、人の疾病を復活し、人の患苦を寛解するの他事あるものにあらず。
という医の倫理を説いた日本近代医学の祖と評価される緒方洪庵。適塾は現在の大阪大学医学部の前身ともいわれ、大阪大学のHPにはその詳しい歴史が記載されています。
適塾ー大阪大学の原点
小堀遠州流の日本庭園を歩き、緒方洪庵と適塾、日本の近代化に貢献した人々の功績を辿った今回の備中足守藩の史跡めぐりは「雷雨にも負けず」当初想像した以上に充実したものとなりました。
ということで、本日はこれまで。