夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

吉備津神社

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比翼入母屋造=吉備津造

全国で唯一の独創的な「比翼入母屋造」、それゆえ「吉備津造」と呼ばれるようになった美しい本殿および拝殿が国宝に指定されている吉備津神社。

日本書紀にもその名前がある由緒も格式もあるこの立派な社は岡山市西部、歌枕にもある「吉備の中山」、その西麓に鎮座しています。

記紀が語る吉備津神社の歴史

主神に祀られているのは大吉備津彦命。日本書紀によると第十代崇神天皇の時代、ヤマト王権に従わない各地の豪族に対し、教えを受けない者があれば兵を挙げて討伐するようにと、北陸、東海、西道、丹波に派遣された四道将軍の一人として将軍の印綬を授けられます。

大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の第三皇子、もとの名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコミコト)といい、西道のちの山陽道にやってきた武勇の誉の高い皇族だったといわれています。その子孫が後の世で代々吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされています。

神話の世界まで遡る吉備津神社の社伝によればという前提を理解したうえで、考える必要はありますが、大吉備津彦命は吉備の中山に茅葺宮を築き、長生きして、仁政を行ったと伝えられています。

神話の世界では281歳まで生きたとされ、平和と秩序と安定を築き、この地に薨去。

のちに仁徳天皇が吉備国に行幸した際に大吉備津彦命の功績を称え、宮跡に社殿を創建したことがはじまりとされています。

吉備津神社公式サイト

吉備津神社

古代吉備王国

古代吉備王国の中心であったと推測される岡山市西部から総社へと続く旧山陽道に沿った吉備路一帯は、大和(畿内)、北九州と並ぶ巨大文化圏を築いていたと推測されています。

考古学の進化

ちょっとここで考古学的アプローチの進化とその成果について、少し話を広げてみます。日本史の源である縄文時代、弥生時代について、近年様々な調査方法が開発され、その結果、従来の歴史観そのものが大きな見直しを迫られています。

放射性炭素14を利用した年代測定法

例えば、放射性炭素14を利用した年代測定法によって「弥生時代の始まりは従来よりも500年早い紀元前10世紀ではないか」という報告がなされ、「縄文から弥生への移行は、数百年かけて多様に進行した」という考え方が生まれてきました。

「クニ」の胎動

その弥生時代に「クニ」の胎動となった大きな転換期が、紀元前4世紀の「首長集団の渡来」にあったと考えられるようになってきました。

鉄器を大陸から日本列島に持ち込んだ首長集団は、首長を頂点とした組織で、北九州を中心に他集落の支配と統合を繰り返し、瀬戸内の温暖な気候風土のなかで暮らしていた土着豪族や出雲からきた豪族などとも長い時間を掛け、交流し、その一大勢力が吉備の国に築かれたとの説もあります。

当時としては巨大な文化圏を築いた吉備王国は、後に圧倒的な武力を整備し、覇権を広げていったヤマト王権にとって対立せざるを得ない状況になっていったのでしょう。

古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036))

古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036))

いずれにせよ「神話」の世界から「歴史」=史実を検証し、振り返ることのできるようになるまでには長い時間を要する頃のお話です。

古代国家の成立時期「七五三論争」

さて、古墳時代とも呼ばれるこの時期に日本において、古代国家の形成時期があったと考える学者も多くいます。古代国家の成立時期をめぐってはいまだに解明されていないことも数多く、それゆえ歴史学者、研究家の見解も分かれ、「七五三論争」と呼ばれている3世紀説、5世紀説、7世紀説があります。

今回の旅で訪れた吉備路には古代の伝説が数多く残され、それは私たち日本人のルーツを探り、古代ロマンと呼ばれるように想像力を刺激するドラマチックな昔話、神話の舞台に立ち、時間旅行という名の想像を膨らませ楽しむ旅でもあります。

吉備の古代史―王国の盛衰 (NHKブックス)

吉備の古代史―王国の盛衰 (NHKブックス)

吉備津神社

再び話を吉備津神社に戻しましょう。

岡山県指定郷土記念物に指定されている松並木の参道を抜け、石段を上ると、

冒頭でも申し上げた日本屈指の神社建築として知られる国宝の本殿、社殿が姿を現します。現在の本殿は1425年(応永32)に足利義満の命により25年の歳月を掛け再建されたものです。京都の八坂神社に次ぐ大きさで、出雲大社の約2倍強の広さを誇ります。

比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)

白い基壇の上に多数の円柱、天竺様の肘木に支えられた檜皮の大屋根、それに比翼の破風があり、入母屋造の同形の屋根を前後に並べ、棟と棟に縦一棟を通してつなぎ一つの大きな屋根にまとめた独創的な様式は「比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)」と呼んでいます。

全国でここにしかない唯一のものであることから「吉備津造」とも称されています。優美で軽やかな印象を与えてくれます。美しさに見惚れる社殿です。

吉備津神社社殿

南・北随身門

また国の重要文化財に指定されている南・北随身門や

室町時代、中世の建築様式を色濃く残した見ごたえのある建造物が配置されています。

そして何と言っても本殿から続く総延長360mの美しい回廊も吉備津神社のみどころのひとつ。信仰の場所ではありますが、歴史文化遺産としての興味も尽きないお社です。

吉備津神社回廊


えびす宮など多くの摂社をつなぐ美しい回廊沿いには季節の花々、樹齢600年以上といわれる大銀杏をはじめ樹木が整備され、参詣客の目を和ませてくれます。


温羅伝説

吉備津神社に残る伝承に、日本昔話「桃太郎」の鬼退治、そのルーツともいわれるものがあります。それは第十代崇神天皇の頃、吉備国にやってきた百済の王子「温羅」に関する伝説です。

この伝承には当時の為政者ヤマト王権の視点から語られた、温羅を鬼神とし、極めて凶暴で悪事を働いたとする伝承と、朝鮮半島での戦いに敗れ、吉備国に逃げ延びてきた百済の王子「温羅」を快く受け入れてくれた地元の人々に感謝し、百済の優れた造船技術や製鉄技術を伝授し、そのおかげで吉備国が繁栄していたという真逆の設定で語られる伝承があります。

いずれにせよ、神話、歴史は勝者、為政者の視点から語られることが圧倒的に多いので、何とも言えませんが、温羅を中心に勢力を増す吉備国の存在はヤマト王権にとっては脅威となっていたことは共通しています。

吉備平定の任を命ぜられたのは四道将軍と呼ばれることになった、武勇の誉高き、五十狭芹彦命(イサセリヒコミコト)=大吉備津彦命。吉備津神社がある吉備の中山に布陣し、変幻自在な温羅に苦戦を強いられたといいます。

吉備路を舞台に繰り広げられた古代の熱い戦い、いずれにも正義があり、それゆえ1,700年以上の時を超え、温羅が閉じこもったとされる「鬼ノ城」をはじめ、

鬼ノ城


二人の矢がぶつかり落ちた場所「矢喰宮」、大吉備津彦命が放った二本の矢のうち、一本が温羅の左目を射抜き、噴き出した血で水の流れが真っ赤に染まったとされる「血吸川」、鯉に変身した温羅と鵜に変身した大吉備津彦命が攻防を繰り広げた「鯉喰神社」などがあり、

矢置岩と矢立の神事

吉備津神社にも大吉備津彦命が矢を置いたとされる「矢置岩」が史跡として大切に残され、正月3日には矢置岩のそばから東西南北に神矢を射て災いを祓い、その年の安寧を祈る「矢立の神事」も行われています。

七十五膳据神事

また大吉備津彦命が温羅を倒し、凱旋したときにたくさんの供物があがってきたその様子を加味し、伝えられる「七十五膳据神事」というたいへん珍しい大祭が春夏二度、春は五月の第二日曜日に五穀豊穣を祈り、秋は十月の第二日曜日に収穫への感謝を捧げる神事として粛々と行われています。

鳴釜神事と温羅伝説

さて温羅伝説の続きです。

大吉備津彦命が射た矢によって、左目を射抜かれ血を流したまま温羅は雉になって逃げます。それを大吉備津彦命が鷹になって追いかけますが、血吸川で温羅は鯉に変じて逃れようとします。しかし大吉備津彦命が鵜となり噛みつき、ついには温羅を捕らえます。

囚われた温羅は首を刎ねられますが、唸り声をあげ続け、吉備津神社の「御竈殿」の釜の下に埋めたところ、13年間声は止まず釜を鳴らし続けたといいます。

ある夜、大吉備津彦命の夢に温羅が現れ、「わが妻、阿曽女(あぞめ)に御竈殿の火を炊かせば、この釜を鳴らして吉凶を占おう」と告げたと伝えられています。

これにも異説があり、吉備国の人々にあたたかく受け入れられた温羅が死してなお吉備の人々を思い、世に吉凶を告げるようになったとする伝承も残されています。

これが江戸時代、上田秋成が中国の古典からヒントを得て書いた怪奇小説『雨月物語』「吉備津の釜」にも登場する「鳴釜神事」です。

改訂 雨月物語 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

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雨月物語

雨月物語

吉備津宮が歴史上、文字記録として最初に名を残している文献は現時点で「続日本後紀」とされ、平安時代に朝廷が崇める「名神神社」に名を連ね、神階の最高位である「一品」の位を授けられたことで、「一品吉備津宮」または吉備国総鎮守「三備(備前・備中・備後)の一宮」と称せられたと推測されています。

「吉備津神社」をめぐる神話と吉備王国の古代ミステリーを味わい、美しい国宝の拝殿を参詣すると、一段と有難味も増してくるような気がします。

次回もまた吉備路をご紹介する予定です。それではまた。

吉備の歴史、備中国、岡山県の歴史をたどる夫婦写真散歩記事をご紹介します。