夫婦写真散歩のススメ

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旧芝離宮恩賜庭園

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国指定名勝・旧芝離宮恩賜庭園

東京都港区海岸一丁目、JR浜松町駅の目の前にあり、都営地下鉄大門駅からも楽々徒歩圏内。

まさに交通至便の位置にある江戸・東京の名庭園にして現存する江戸時代に造られた大名庭園の中で小石川後楽園とともに最も古い歴史を持つ庭園です。

今回は文字通り回遊式泉水庭園の典型といえる旧芝離宮恩賜庭園をご紹介します。

旧芝離宮恩賜庭園ウェブサイト


旧芝離宮恩賜庭園の歴史

庭園のある土地は明暦年間(1655〜1657)頃に大普請により埋め立てられており、延宝六年(1678)に江戸幕府四代将軍徳川家綱によってこの地を拝領された老中・大久保忠明によって八年の歳月をかけ、造られた「楽寿園」と名付けられた庭園がはじまりです。

大久保家は相模小田原藩主で、この土地を上屋敷として延宝六年から文政元年(1818)まで140年間、この土地の占有を許されました。

その後この庭園の所有者は幾度も変わり、幕末には紀州徳川家の所有となり、御浜御殿と呼ばれていました。

明治維新を迎えると有栖川家の所有になりますが、明治八年(1875)に宮内庁の管轄となり、芝離宮となりました。

明治24年には(1891)には洋館竣工にあわせ、迎賓館としても使用されています。

都営地下鉄大門駅からJR浜松町に向かう地下道には、古い航空写真のパネルが現在展示されています。

竹芝桟橋もなく、このあたりが海辺、海岸のすぐそばであった時代の様子をうかがい知ることができます。現在の地名も港区海岸一丁目です。江戸時代の典型的な潮入り林泉庭園であることが空からの眺めでもよく分かりますね。

写真手前が浜離宮、奥が芝離宮です。かつては潮の満ち干によって庭の表情が変わるという天下の名庭園だったといいます。

芝離宮は大正12年(1923)に起きた関東大震災によって建物と樹木のほとんどを焼失する壊滅的な打撃を受けます。震災をきっかけに東京市にその所有と管理が移管され、復旧が進められます。

大正13年(1924)春に復旧工事が完成し、同年四月一般公開されることになりました。

昭和54年(1979)文化財保護法によって国指定の名勝(文化財)に指定されています。

入園手続きの窓口までの道には、見どころ解説のパネルがあり、ゆっくり読んでみるとこの大名庭園、回遊式泉水庭園の魅力を理解することが出来ます。

庭園八景

中島


大名庭園といっても、どういう歴史的経緯で造られたものなのかは、案外正確には知られていないような気がします。そこで、今回は基本に立ち返り、そもそも大名とは何かということから振り返ってみることにします。

大名とはなにか。

江戸時代、将軍の直臣で知行が一万石以上の武士を「大名」と呼んでいました。

もともとは大名は、大名主より転じた語です。大いに名の轟く者のことを指していました。もともと地方で勢力をふるう者のことを言いましたが、武家社会において、多くの所領や部下を所有する武士を意味する語となったのです。

徳川幕府政権下では260〜270家があったと考えられており、大名家はその経歴によって、親藩、譜代、外様などと区分されていました。

御三家(尾張・紀伊・水戸)は徳川氏一族の家門大名は別格として扱われますが、以下に示すように区分された大名は巧妙に配置され、徳川幕府は寛永12年(1635)に発布された武家諸法度によって大名統治を推し進めます。

大名の区分、親藩・譜代・外様
  • 親藩…徳川将軍家との親疎の関係によって、徳川家康男系男子が始祖となっている藩を親藩もしくは親藩大名と呼びました。御家門、親藩の代表といえば徳川家康の次男結城秀康の子孫を始祖とする越前松平家、第二代将軍徳川秀忠の庶子保科正之の子孫が始まりの会津松平家などがあります。
  • 譜代…もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え、家政にも関わってきた家臣のことを言います。三河以来の家臣で江戸幕府開闢後、徳川将軍家により取り立てられた大名を譜代と呼びます。関ヶ原の戦いの後には37家でしたが、その後、大きな貢献などを残し、幕府の篤い信任を得た大名家のなかには譜代大名として扱われ、大老、老中など幕府の要職に就く資格を得た家もありました。譜代大名の数も幕末には145家まで増えています。
  • 外様…関ヶ原の戦い以降徳川家に臣従したもので、加賀の前田家(102万石)、薩摩の島津家(73万石)、陸奥の伊達家(56万石)といった有力大名も多く、基本的には江戸から距離の遠い場所に配置されていました。もともとは主家と緩い主従関係を持った家臣を指す語で、室町時代には使われていた言葉です。

こうした大名統治のなか、参勤交代と呼ばれる国元と江戸を一年交代で往復することを義務付け、妻子の江戸居住を強制します。

大名はこれによって莫大な出費を強いられますが、江戸と諸国を結ぶ街道と宿場が整備され、栄えることとなり、交通が発達します。

参勤交代と江戸藩邸

江戸に住まうことを強制された大名家(武家)には江戸幕府により、江戸城付近から郊外にかけて複数の屋敷用地が与えられます。

江戸藩邸は屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷・中屋敷・下屋敷など呼ばれる邸宅を持ち、これらを総称して江戸藩邸といいます。

禄高の高い雄藩の大名はその江戸藩邸とした屋敷地に、競って日本庭園を造ります。

現在その原型を留めているのは、六義園、浜離宮恩賜庭園、清澄庭園、小石川後楽園、そして今回ご紹介する旧芝離宮恩賜庭園などがあります。

旧芝離宮恩賜庭園写真散歩、秋

小田原藩主であった大久保家は小田原から庭師を呼んで潮入り林泉庭園を造りましたが、当時から残る広々とした見晴らしの園地の五分の一は泉水です。

松の雪囲い

西湖の堤




東京という高層ビルが林立する都市空間にあって、この晴れやかな空間は心地よいものです。






紅葉も色づきはじめから見頃を迎える時期の訪問でしたので、目にも鮮やかな紅葉が青空を背景に映えていました。




風雅の極致ともいえる庭石も見事です。

石柱


広々とした園内ではベンチや休息所も多く、都心では受動喫煙防止の条例など法規制も厳しくなり、禁煙で居場所を失くした愛煙家にもところどころ喫煙スペースが残されています。

とはいえ吸わない方の健康に配慮することと、吸い殻の処理や紙ゴミを灰皿に捨てないことなど、当たり前のことですが、大人の喫煙マナーをお忘れなく。

近年問題視される高齢者の写真撮影

また近年至るところで問題視されている三脚利用の撮影マナーに関して、まずもって植栽を傷つけないよう、周囲への気配りもよろしくお願いします。

趣味として楽しくなってくると、ついつい撮影に夢中になってしまう気持ちも分かるような気もします。しかし、その姿が他人から常に厳しく見られていることを忘れないようにしましょうね。

三脚の足を広げたまま担いで移動したり、ひとつの場所を五分以上占有したり、グループで三脚を並べ、立ち話を延々と続けたり、場所取りなどで園路を塞ぐなど、他の来園者に不快な思いをさせることなく、どうか写真愛好家の皆様におかれましてはスマートかつスムーズに撮影していただくようご配慮お願いします。

せっかく、こうした風雅な庭園で人々の多様性に関する配慮がなされているのですから、日本の大人はしっかりとマナーを守って、冷静に我と我が身を振り返りながら、穏やかにどんな人でもホッと一息つくことができる大都会の貴重なオアシスを守りたいものです。



短時間で園内を一周できますが、のんびりこの空間を味わってみてください。

十月桜も見頃でした。


仰ぎ見る空と紅葉を最後に本日はこれまで。

次回は浜離宮恩賜庭園をご紹介します。