下谷七福神めぐり+小野照崎神社
江戸開府から410年、その歴史と文化を味わう新春開運散歩。
今回は下谷七福神とその道中、学問芸能のご利益で有名な小野照崎神社を歩く散歩コースをご紹介します。
江戸時代の大規模災害と復興の歴史
さて江戸開府後、267年という長い時間のなかには、明暦の大火をはじめとして、49回も町を焼き尽くした大火を経験します。江戸時代栄えた他の大都市と比較すると、京都が9回、大阪が6回、金沢が3回とその多さが突出していることが分かります。
また大規模な地震も267年間続いた江戸時代には分かっているだけで190回と地震国日本を象徴するような記録も残っています。
現代の東京と江戸古地図を対照しつつ、神社仏閣を巡っていると江戸時代の火事、地震、そして大正時代の関東大震災、昭和20年の東京大空襲によって何度も焦土と化したものの不屈の精神と人々の献身によってその都度復興を遂げ、現代の繁栄、発展があるのだということがよく分かります。
歌川広重作「下谷広小路」
江戸城本丸を中心にして、北東の方角にあった上野山、その上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが下谷という地名の由来でした。
江戸時代以前から下谷村という地名で、現在の上野広小路あたりを指します。この絵に描かれている大店は「伊藤松坂屋」、現在の上野松坂屋と同じ場所です。
奥は上野山下。安政江戸大地震によって倒壊、焼失した店舗を15,000両の大金を投じ、立て直した新装開店の広告絵でもあります。焦土と化したわずか一年後にはこんな活気あふれる逞しい江戸っ子の姿が見て取れる浮世絵です。
今回歩いた下谷七福神は、台東区の北部に位置します。現在の地名でいうと、東で竜泉、南東で入谷及び北上野、南西で上野、西及び北で根岸、北東で三ノ輪と隣接している地域に点在する神社仏閣を巡ります。
東京都メトロ日比谷線三ノ輪駅からJR鶯谷駅へ向かうルートでスタートです。両駅で下谷七福神めぐりのパンフレットがもらえます(無料)。
寿永寺<台東区三ノ輪/浄土宗・布袋尊:清廉度量>
飛不動尊(龍光山正寶院)<天台宗単立寺院/恵比寿神:愛敬富財>
2012年9月27日の記事でもご紹介した飛不動尊(龍光山正寶院)。台東区竜泉三丁目十一番地にある航空業界、宇宙開発の現場関係者からも尊崇を集めるお不動様です。江戸時代の地図を見ると、寺号より飛不動と記されている物が多く、また江戸砂子や日本国華万葉記などでは、江戸名尊不動として挙げられています。 古くより病魔や災難を飛ばしてくれる「空飛ぶお不動様」として信仰されていました。
さらにこのお寺を有名にしたのが日本じゅうに勇気と希望をあたえてくれた歴史的快挙「はやぶさ」の帰還。はやぶさのプロジェクトリーダー川口淳一郎博士がここへ来て、お祓いを受け、無事の帰還に至ったというエピソードです。過去記事に詳述しています。興味のある方はこちらからどうぞ。
朝日弁財天<台東区竜泉/福徳:芸道富有>
朝日弁財尊天は、古来芸道富有、結縁の御利益の尊像で、霊験あらたかで多くの信徒より崇敬されてきた。開基は備中松山城の水谷伊勢守で寛永初年不忍池に弁天堂を創建すると同時に、その下屋敷であった水の谷の池にも弁財天祠を祀り、これを姉弁天とし、西方の不忍を夕日、東方の水の谷を朝日弁財天と称した。堂宇は関東大震災並びに大東亜戦争に相次いで災禍を受けたが、宗仙直後地主市島徳厚が土地解放を機とし、此境内を関係者に寄附したので、これから人々柏寄り直ちに宗教法人弁財天となし、本堂、庫裡等を建立し、更に昭和56年本堂の増改築を行い輪魚の美を加えた。
法昌寺<法華宗/毘沙門天(勇気授福)>
法華宗本門流の日照山法昌寺は、慶安元年(1648年)の創建で、下谷七福神のひとつ毘沙門天が祀られています。元プロボクサーのたこ八郎の菩提寺であったことから、たこ地蔵が傍らに祀られています。法昌寺は、慶安元年(1648年)下谷御切手町付近に創建、元文2年(1737)当地へ移転しました。
小野照崎神社
小野照崎神社公式ウェブサイト
樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で登場する小野照崎神社。祭神は小野篁(たかむら)。嵯峨天皇の御代に「文章天下無双」といわれ、明法道に明るく、政務能力に優れていて「令義解」の編纂に関わり、さらに漢詩に秀で、「和漢朗詠集」や「古今和歌集」「百人一首」にも入首しています。書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたといいます。その天才、奇才ぶりは数々の伝説を残しています。
小野篁 百人一首11番
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣舟
嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐島に配流されるときに厳寒の日本海を前にして詠んだとされる歌ですが、深い悲哀と落胆、絶望を感じるというよりはむしろ背筋がピンと伸びた矜持を感じるのは私だけではないでしょう。この歌からは自らの無実に対する自信と頑固で清廉潔白で、多感多情な彼の人柄が読みとれるのではないかと思っています。
そう考えると夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという逸話も小野篁らしいものだと思えてきます。
小野照崎神社と渥美清さん
そしてこの神社は日本の芸能界でも有名で、渥美清さんがまだ売れずに苦労していた頃、この神社を訪れ、「タバコを一生吸いませんので仕事をください」と祈願したところ、映画「男はつらいよ」の主役への抜擢の話が舞い込んできたといわれています。
私の周囲でも友人の俳優さんに主役の座が来たり、ヒット祈願が奏効したりといろいろ有難いご利益があったので、ここ一番は小野照さまにお願いにきます。また関東大震災、東京大空襲という東都を襲った大きな災禍、被害にも遭わず、守られた神社です。
境内には都内でもトップクラスの規模で作られた富士塚、浅間神社もあります。
下谷富士塚
1828年(文政11年)建造で、重要有形民俗文化財に指定されています。普段は立ち入り禁止ですが、毎年富士山の開山に合わせて6月30日と7月1日に一般の登拝出来ます。
この塚は模造の富士山で、文政11年(1828)の築造と考えられている。「武江年表」同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。 境内の“富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山信仰は室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。 ここの富士塚は高さ約5m、直径約16m。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定された。(台東区教育委員会掲示より)
英信寺<浄土宗/三面大黒天(有富蓄財)>
入谷鬼子母神真源寺<法華宗/福禄寿(人望福徳)>
「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」という地口(=江戸の言葉遊び)にある真源寺に向かいます。この地口は太田蜀山人の狂歌に由来するといわれます。『放歌集』に収録されるものに「いまさらに恐れ入谷のきしも神あやうく過ぎし時を思へば」があり、相手の言うことには同意するが、そのまま認めるのは癪に障るとの意で用いています。
法華宗本門流の真源寺は、仏立山と号します。光長寺第20世高運院日融上人日融上人により万治2年(1659年)創建され、入谷鬼子母神として有名なほか、毎年7月の七夕に朝顔市が行われます。下谷七福神のひとつ福禄寿が祀られています。雑司ヶ谷鬼子母神堂、中山法華経寺とともに江戸三大鬼子母神として多くの崇敬を集めています。
元三島神社<寿老神(延命長寿)>
境内掲示にある元三島神社の由緒
当社はご祭神は大山祇命、伊佐那岐命を頂き、和足彦命、身島姫命、上津姫命、下津姫命を配祀申すものである。例大祭はご祭神勧請の時にちなみ5月14、15日とする。元三島神社は円融天皇御代日本総鎮守の称号を賜って名高い愛媛大三島の元国幣大社大山祇神社を御本社頂くものである。当社由来の源は弘安4年の役の勇将河野道有大山祇神社に必勝祈願し出陣したる処神恩加護の下武功赫々として帰陣したところ夢中に神のお告げを得て大山祇大明神を武蔵国豊島郡に勧請の願を発し上野山内に分霊を鎮座申上げた事に始まったと伝えられる。
JR鶯谷駅近く、ホテル、飲食店に囲まれた社殿ですが、熱心にお参りされる方も多く、ここを起点にするか、終点にするかはお好みでどうぞ。我が家の下谷七福神めぐり、ご朱印集めはここで完成です。
谷中七福神めぐりとはJR山手線を挟んで、南側の下谷七福神めぐり。上野、浅草にもほど近く、学問芸能にご利益のある小野照崎神社と併せ、歩いてみるのも楽しい歴史文化散歩になります。