残暑お見舞い申し上げます。
台東区上野公園
上野公園で行われた暑気払いイベントの氷も見る見るうちに溶けていきます。
ヒートアイランド現象で夜もなかなか温度が下がらない毎日が続きます。
街中を歩けば、足元から熱気が伝わってきますが、
真夏の散歩は体調にあわせ歩く距離を減らしたり、歩くコースを工夫しています。
エアコン頼みの生活で、カラダの機能を衰えさせずに、
夏ですから汗腺をよく働かせ、水分補給と休息を上手にとれば、夏の散歩も味なもの。
程よい夕立なら大歓迎。それくらいの心持ちが夏散歩を楽しむ元気を維持できる気がします。
とはいえ、有難くない記録更新が続くゲリラ豪雨では被害も出ます。
隅田川の花火大会も開始30分後、突如吹き始めた北からの冷たい風に花火の大輪が崩れたあと、激しい雷雨で中止となりました。
夏の散歩では入道雲も味わい深く感じますが、
一天俄かに掻き曇り、
突然の雷雨に足止めということもあります。
雨宿りも夏の写真散歩では楽しみのうち、暑い夏も歩くことでしか気付かない街の光景もあります。
夏の写真2013
路地に咲く百合の神々しさに感動したり、
ほうき草の緑に心和んだり、
浜木綿をはじめとする夏の花に出会うのも、散歩ならではの楽しみ。
今回は風が流れる水辺、江戸湾(東京湾)から江戸の街を流れる数々の河川、水路を辿ります。
江戸の時代に行われた大開発において水路と河川の整備は経済の発達と共に幕府の重要な課題でした。
18世紀後半から19世紀にかけて世界最大の都市に成長した江戸の町は水の都でもあったのです。
しかし工業化社会の到来で、戦後の復興、さらに高度成長は実現するものの、その反作用として公害による河川の汚染をもたらしました。
昭和30年代半ばには隅田川も「関東一のドブ川」と有難くない呼ばれ方もしました。
隅田川、佃大橋付近にて
『銀河鉄道999』、『宇宙戦艦ヤマト』などの作品で有名な松本零士さんデザインの「ホタルナ」と遭遇。
川の有機物がアンモニア、硫化水素を発生し、隅田川付近にあった真鍮板に化学反応による被害を与えるようになり、刺激臭とあわせ川には人が近づきたくない状態でした。
昭和37年2月には世界で初の1,000万都市になったものの河川の環境悪化は最悪の状態だったといえます。
隅田川、蔵前付近にて
東京の急激な人口増加、都市機能の急激な一極集中による弊害は生活環境において顕在化します。
社会基盤の整備が遅れていた東京に大きな変化が訪れたのは昭和39年(1964)の東京オリンピック開催と昭和42年(1967)公害対策基本法の制定だったといえるでしょう。
さらに昭和48年(1973)10月の第四次中東戦争による石油ショックが起こった頃には環境への意識が高まり、緑地の整備、工場への規制強化、下水処理場の建設が進みます。
それに伴い、江戸川、中川、綾瀬川、荒川、隅田川などの水質改善も少しずつではありますが進み、
昭和53年(1978)には早慶レガッタや隅田川花火大会が、翌1979年には前回の記事エントリーでご紹介した江戸川花火大会が開催されます。
めまぐるしく景観を変える大都市東京も、生活都市として河川の水質改善のさらなる努力は必要です。
環境改善に寄与する技術の開発がビジネスとしても尊ばれ、いずれは世界に冠たる「水の都 東京」と呼ばれるような街づくりこそ閉塞感の打破に通じるのではないでしょうか。
水道橋から御茶ノ水方向を望む
江戸の名残、史跡も残る神田川の周辺で感じることが多かったドブ臭さも実際歩いてみると、徐々に改善されているような気がします。
学生時代、神田川近くに下宿していた友人宅に夏訪れると、エアコンが当たり前でなかった時代です。
当時は窓を開けると刺激臭やドブ臭さがあったものですが、先日夜の早稲田周辺を散歩した時には随分改善されてきたことを実感しました。
穴八幡宮
由緒書きも立派に作られ、
30数年前、学生時代によく上った階段や門も随分キレイに、そして立派になりました。
光寮門(随神門)は室町時代の様式で1998年(平成10年)に再建されました。
境内で遅くまで語り合う学生にも出会い、「そんな時代もあったね」と懐かしさがこみ上げます。
ノスタルジーから未来へ。
東京ウォーターフロントは進化、変貌を遂げ、さらに開発は続く大都市の新陳代謝の象徴です。
定点観測しつつ、撮る、見る、歩き続ける夫婦写真散歩。
東京ゲートブリッジ
2016年には超近代的な橋梁を間近に眺める緑あふれる公園が完成するはず。
こうして水辺を歩き、風に吹かれ、サラサラの汗を掻き、心地よい疲れで眠りにつくと、睡眠の質も向上しているような気がします。
夏の写真2013、江戸東京水辺散歩。
最後は地元葛飾区の水辺散歩、水元公園です。