夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

水戸偕楽園

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墨東から北へ約100km。昨年よりも早く北上する桜前線を追いかけて四月第一週の土曜日、水戸偕楽園に向かいました。

水戸偕楽園

水戸といえば梅ですが、桜の時期に偕楽園を訪問したことがなかったので、今年は是非にと思っておりました。

水戸偕楽園、遅咲きの紅梅

バラ科サクラ属の紅梅、息を呑むほど色鮮やかな赤です。

それでは順を追って、バーチャルお散歩とまいりましょう。

JR水戸駅前

JR水戸駅に到着すると、まずは水戸黄門さま、助さん、格さんの像が駅前で迎えてくれます。

水戸徳川家、初代当主、徳川頼房と二代目徳川光圀

名君の誉れ高き徳川光圀は徳川家康の十一男、水戸藩初代藩主、徳川頼房(諡号:威公)の第三子としてこの世に生を享けます。

しかし、生まれて間もなく「その赤ん坊は必要なし」と判断され、家来に預けられてしまいます。生まれながらのお殿様ではなく、きわめて複雑なお家事情のなか、その人生は始まります。

徳川光圀が生まれた寛永五年(1628)といえば、江戸幕府が武断政治による全国支配を進めていく真っ只中。

徳川家康から「秀忠の懐刀となれ」と命じられた父、頼房。

徳川頼房は文武両道に優れたものの、幼き頃からややエキセントリックともいえる大胆な行動、言動や性格が裏目に出て、徳川家康に「頼房は切れ者だが要注意」といまひとつ評価を上げさせなかった要因ともいわれます。

後の世で徳川御三家という呼び名が起こりますが、実際は徳川宗家に継嗣問題があれば、紀州、尾張徳川家から世継ぎを迎えるとされていました。

紀州、尾張両家に与えられた石高や大納言という官位に比べると、水戸徳川家には一段低い権中納言という官位や表高(名目上の石高)=高い格式に比べ、実際より低い収穫高との間にはかなりのギャップがあり、入封と同時にいきなり難しい財政運営、藩経営を強いられます。

水戸徳川家の財政負担

また地政学上、水戸は江戸の北東に位置し、しかも尾張、紀州に比べると距離もはるかに近い。そこで江戸に藩士(特に上級武士)の半数を常駐させなければならず、参勤交代こそ免除されていたとはいえ、実際の石高と名目上は高い格式を持っていたため、それに見合う財政負担など、水戸入封当初から父、頼房は徳川宗家=将軍家から一目置かれていたがゆえの複雑な扱いを受け、それが幕末まで影響します。

名君、水戸光圀と仁政

現代では史実と幕末から今日に至るまで数多く著された後の世の創作が錯綜し、フィクションとして黄門様のイメージが形作られています。

公文書、公儀隠密が書いたとされる調査報告書など文字記録が数多く残り、また数千という単位の作品数が存在する水戸黄門題材の映画、テレビドラマ。さまざまな視点で研究された評伝や歴史小説のなかで生き生きと描かれる水戸光圀公に関して、改めてその作品にあたってみると、フィクションのカタチをとっていながらも、実はしっかり歴史の真実があぶりされていることも多いことが分かります。

全国津々浦々、諸国漫遊記で語られる逸話の多くは創作=フィクションですが、隠居後は水戸藩内を中心に、好奇心、向学心旺盛に見て回るという行動する名君でした。

治世下の時代から名君と呼ばれていたことや領民からも慕われ、学識経験豊かな人情味溢れるお殿様であったことが分かっています。つまり彼の実像は今はTBSチャンネル(CS)で観られる勧善懲悪、痛快時代劇「水戸黄門」のイメージにかなり近いものといっても良いでしょう。

水戸藩といい、光圀本人といい、そのスタートから複雑な扱いを受けていました。父、頼房から受けた過酷な試練、藩主になってからも厳しい財政状況のなかにあっても、仁政を心掛けます。

武断政治から文治政治への転換、武士階級への画期的な教育政策、藩校経営や「大日本史」編纂事業をはじめ、250年もの長い時間を掛け、代々その事業が水戸徳川家に受け継がれ、後の世で水戸学と呼ばれようになりますが、前期水戸学の礎作りは光圀の業績です。

水戸光圀 (山岡荘八歴史文庫)

水戸光圀 (山岡荘八歴史文庫)

光圀伝

光圀伝

水戸光圀

水戸光圀

そんな歴史を確認して、それでは散歩に戻りましょう。

水戸駅周辺を軽く一周し、観光案内所でパンフレット、地図をいただいたあと、千波湖に至る遊歩道を歩きます。そこで桜の咲き具合を確認すると、

水戸写真散歩



満開を過ぎ、散りはじめの様子。地面に落ちている花びらもまだ新鮮です。

千波湖

千波湖に到着。


黒鳥が悠々と湖面を泳ぐ姿が目立ちます。

チューリップ

水仙と桜

水仙と桜の競演も鮮やか。

水戸芸術館の塔を彼方に臨み、

ヤマザクラ、ソメイヨシノ

周辺の丘に咲くヤマザクラとソメイヨシノや

SL D51と桜

SLと桜のコラボなど

あたたかい南西風に吹かれながら、心地よいお散歩です。

そこで思い浮かぶのが、春歌の傑作。

梅、桜を詠んだ和歌の傑作

梅や桜の花を詠んだ名歌は数あれど、日本文化史を彩る和歌の傑作といえば、紀友則のこの二首でしょう。

古今和歌集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

古今和歌集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

紀友則/古今和歌集収録

君ならで 誰にか見せむ 梅の花
色も香りも知る人ぞ知る

ユスラウメ(バラ科サクラ属)

紀貫之の従兄弟で宇多天皇の御代に活躍した歌人、紀友則。彼の秀歌は流麗にして優美、豊かな情感が詠み込まれています。

紀友則/古今和歌集、百人一首収録

ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ

齢を重ねるごとにこの二首の深い味わいが増して感じられるような気がしています。

自然観照にも紀友則の心地よい素直さがよく表れていて、文字通り「春風駘蕩」の調べのなかにある儚さと合わせ、この歌のほんとうの美しさがしみじみと感じられます。そして表現技法の巧みさにも思わず唸り、何度でも声に出して味わいたい名歌です。

散り急ぐ桜もまた、春の深い味わいです。

千波公園

千波湖を歩きながら、閉館となった映画「桜田門外の変」のセット外観を眺め、

桜田門外ノ変【DVD】

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そうこうするうちに偕楽園が近くなってきました。

水戸光圀像

千波公園内にも水戸光圀公(徳川光圀)像がございます。

則天文字

ちなみに光圀の「圀」という文字ですが、これは中国の則天武后が使った表意文字「則天文字」と呼ばれるものを使用しています。

「国は八方に広がらなければならない」という鉄のような強い意志を持つ女帝が文字を変えさせたという逸話に則って、国のあり方を考え、「四書五経」をそらんじるほどのインテリであった徳川光圀らしく、国構えの中に「八方」と書く「則天文字」を使用することとなりました。

黄門さまとは?

また黄門様という別称の由来を解説しますと、「黄門」とは中国古代の宮廷の門の扉が黄色に塗ってあったことから、王宮の門の異称でした。秦・漢の時代には、この門の中にあって執務した侍従職の官職名として「黄門侍郎」の名がありました。「黄門」はその略称で、日本で中納言の異称とするのは、その職務内容がよく似ていたためで、当時唐名で呼ぶことが一種の流行であり、倣いでもあったからです。

徳川光圀=水戸黄門、梅を題材に和歌を詠む

みせはやと 手折れる庭の 梅の花
色香もふかき 心とを知れ

スロープを上ると見えてきました。水戸偕楽園です。


階段を上がり、新緑をメモし、

常盤神社

水戸光圀(諡号:義公)、徳川斉昭(諡号:裂公)を祀る常盤神社へ。



東湖神社

摂社、江戸時代後期の水戸学を支えた学者、藤田東湖を祀る東湖神社にも。

地酒の奉納

地酒の奉納もメモ。

天狗納豆

水戸名物「天狗納豆」の幟をメモし、

水戸偕楽園写真散歩

それでは日本三名園水戸偕楽園に入ります。

水戸偕楽園表門、一ノ木戸

偕楽園の正面入り口は本来ここ。やはり偕楽園を造った水戸藩九代藩主徳川斉昭公(諡号:烈公)の趣意を尊重して、ここから歩きます。

孟宗竹林

孟宗竹林を眺め、

水戸偕楽園梅林

梅林を歩きます。

広場からの眺め

千波湖を見下ろす広場に出ると、見事な眺めと

手入れの行き届いた松に見惚れます。

好文亭と左近の桜(山桜)


好文亭とソメイヨシノ

好文亭中門

なぜ梅林だったのか?「偕楽園記」で語られた徳川斉昭の趣意とは。

「偕楽園記」と呼ばれる碑文にその趣意が書かれています。

水戸斉昭の『偕楽園記』碑文 (水戸の碑文シリーズ)

水戸斉昭の『偕楽園記』碑文 (水戸の碑文シリーズ)

「民と偕(とも)に楽しむため」の施設という構想があり、同時に飢饉と軍用に備え、非常食とするために梅の木を植えさせたことがその由来です。また文武修業の場である藩校「弘道館」の建設と、修業の休息も人間には必要と考え、休養の場としての偕楽園造園。「一張一弛」互いに対を為す水戸藩文教政策の一環をなすものと考えていました。

徳川斉昭、そのこころを和歌に詠む

葦原の 瑞穂の国の 外までも
にほひ伝えよ 梅の華園

東日本大震災で大きな被害を受けた水戸偕楽園、一年近い休園期間から復活して、今年も梅の実を付け始めています。金沢兼六園、岡山後楽園と並び、日本三名園と称せられる大名庭園の見事さに改めて感動した春の一日でした。

日本三名園はいつごろ選定されたのか?

追記:日本三名園とはいつ頃から言われ始めていたのかを調べていたら、どうやら日本三名園と呼ばれるようになったそのきっかけは大正九年(1920)発行の「尋常小学校読本」巻一に記載された以下の一文で全国に広まったのではないかと推測されています。

風致ノ美ヲ以テ世ニ聞ユルハ水戸ノ偕楽園、 金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ 之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ッテ 此ノ三公園ニ優レリ。

誰が書いた文章かまでは分かりませんが、id:dango33さまから以前コメントでご紹介いただいた讃岐高松藩松平家の大名庭園「栗林公園」について、大正時代文部省発行の教科書に三名園との比較評価が記載されていました。

そういえば讃岐高松藩松平家は水戸徳川家とは御連枝の間柄、大正時代に書かれたこの文章を読み、これは何とか近いうちに栗林公園も訪問したいと考えています。

文化財保護法に基づいて国=所轄は文部科学大臣が指定した特別名勝が日本全国に35カ所ありますが、いずれも素晴らしく甲乙付け難い芸術上または観賞上価値が高い土地=文化財です。一度は訪ねてみたい場所ばかりです。