夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

太田天神山古墳、義重山大光院新田寺(太田金山子育吞龍)

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上州路歴史散歩(前編)

今回は「つる舞う形の群馬県」、「太田金山子育吞龍」と「上毛かるた」にある群馬県太田市、大泉町に残る史跡巡りの記録をお届けします。

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

「群馬」という地名

奈良時代、和銅六年(713)に中央政府からの命令で、郡や郷の名を改め、好字二字で地名を表すことになったとき、それまでの「上毛野国車評」を「上毛野国群馬郡」と改めたことがその名の由来です。

馬は奈良時代、それはそれは貴重な財産でした。

人々の暮らしを支え、生産活動に、文物の流通に、移動手段に活用と、人間の貴重なパートナーとして大切にされ、重宝されてきた馬が群れをなし、育てられている豊かな土地。

またそういう土地でありたいという人々の願いがこの地名に込められているのではないでしょうか。

上州路の名山、風と利根川(坂東太郎)

古代史研究の画期ともいえる「岩宿遺跡」の発見を契機に、県下において旧石器文化の遺跡が発見された数も150を超えます。

約四万年以前から人々が暮らしていた事実が徐々に明らかになっている関東ローム層、関東平野の北に位置する群馬県。

上毛野、上野(こうずけ)、群馬と歴史を切り拓いてきた人々の生活をかえりみるとき、まず思い浮かぶのが「空っ風」。

そして浅間山、榛名山という活火山をはじめ、赤城山、妙義山、谷川岳という名山の存在。

さらに流域面積日本一、流路延長第二位の大河川、坂東太郎こと「利根川」が挙げられるでしょう。

この土地独特の風の名前には赤城おろし、榛名おろし、浅間風(あさまつ)という山の名前を冠したものから、南風のシタケ、ツナミと春先に吹く強い南風の名前があるように、風の名前も上州の歴史とともにあり、その起源はかなり古い時代まで遡ることができます。

また浅間山、榛名山という火山の活動の歴史も赤城山、榛名山のすそ野に広がる土地に住む人々の歴史を遡ってみると、この二つの火山(浅間・榛名)噴火が大きな影響を与えてきたことが分かります。

浅間山、榛名山噴火の主な歴史
  • 縄文時代中期、浅間山噴火…考古学的地質調査によると火山灰と軽石の堆積層が見つかっている。
  • 古墳時代四世紀中頃、浅間山噴火…榛名山南麓の同道遺跡では水田の上に20cmの火山灰が降り積もった痕跡があり、水田が不毛の地に。
  • 六世紀初頭と中頃、二回にわたる榛名山噴火…黒井峰の集落には短時間で2mに及ぶ火山灰と軽石で覆い尽くされた痕跡がある。
  • 平安時代、天仁元年(1108)浅間山大噴火…上野国すべての田畑が火山灰で全滅。
  • 江戸時代、天明三年(1783)浅間焼け…東北地方にも大きな影響を与え、天明の大飢饉を引き起こした原因と長い間考えられてきましたが、近年異説も唱えられています。

戦後考古学の進歩により、解明が進んでいる縄文時代にはじまる火山被害はこの土地に住む人々に直接被害をもたらします。

周辺地域も含む生産活動をはじめとする生活の場を奪い、荒廃させることも少なくなかったといえます。

しかしその都度、災害を乗り越える不屈の精神は火山灰の上に土を盛り、水田を作った跡が考古学調査によって掘り起こされた地層から発見されていることにも如実に表れています。

火山被害からの復興と集団移住を受け入れてきた歴史

火山被害からの復興のために他地域からの人々や渡来人までも集団移住を積極的に受け入れる歴史があり、古墳時代四世紀にもすでに存在していることが確認されています。

近世では花の都、大消費地「お江戸」に近いこともあり、養蚕、生糸、絹織物の発展はめざましく、越後(新潟)、下野(栃木)など多くの人々が集まり、あるいは散じて、人の出入りが多い土地柄でもありました。

出入りの激しかった上野国ではムラや家を捨てる「不斗出(ふとで)」も多く、江戸時代、宝暦・天明年間にかけて特に顕著でありました。この頃、農間渡世人が現れ、その活動範囲をしだいに広げ、有利な働き場所を求めて移動、交流が活発になっていきます。

「上毛かるた」にみる群馬の歴史

上州名物ともいわれる「上州の嬶(かかあ)天下」とは封建制度下の秩序や厳格な身分制度のなかでも、経済活動に参加し、賃金を手にすることができた機織工女のめざましい活躍がこの言葉を流行させる原動力でもあったのです。

「繭と生糸は日本一」、「日本で最初の富岡製糸」、「県都前橋生糸(いと)の市(まち)」、「銘仙織りだす伊勢崎市」と上毛かるたに数多く採用されているように経済活動の繁栄をこの地に住む女性たちが支えたきたことも特筆すべきことです。

明治維新以降は工業県として、多くの製造業がこの地を中心に生産活動を展開し、古代東国の中心地であった上毛野の時代から脈々と受け継がれる新しい文化を受け入れる気質、広く他地域、海外に進出する気風を育んだのかもしれません。

「歴史に名高い新田義貞」、「老農舩津伝次平」、「誇る文豪田山花袋」、「和算の大家、関孝和」、「沼田城下の塩原太助」、「平和の使徒(つかい)新島襄」、「心の燈台内村鑑三」と上毛かるたにあるだけでも多彩な人材を輩出しています。

新田義貞(上)

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蒲団・一兵卒 (岩波文庫)

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関孝和の数学

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小説・新島八重 新島襄とその妻 (新潮文庫)

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代表的日本人 (岩波文庫)

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「理想の電化に電源群馬」1960年代には戦後の経済復興に伴う電力需要の拡大により、大容量・高効率の火力発電所を中心とした電源開発が進められました。

このように上毛かるたで郷土史の普及と定着を図る、群馬県の試みも素晴らしい。

歴史を学ぶことは、いまをより良く生きることや未来を切り拓くことに必ず繋がっていきます。

さらに戦後最多の四人(福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫)という総理大臣輩出数も忘れてはならない事実でしょう。

基本的な群馬県の歴史知識を駆け足かつ大掴みで辿ってみましたが、それでは今回の歴史散歩、最初のテーマ、東日本最大の前方後円墳である「太田天神山古墳」を訪ねた記録をお届けしましょう。

太田天神山古墳


群馬県太田市役所のホームページにも古墳の説明があります。
太田市|天神山古墳

東武伊勢崎線太田駅東方約1kmの市街地に隣接する平地にあります。男体山ともいわれます。墳丘の長さは210mで、東日本では最大、全国でも30位以内(近畿地方を除くと3位)の規模を誇る大前方後円墳です。

墳丘の周りには二重に堀が巡らされ、北東には天神山古墳に付属する小古墳(陪塚)も造られています。江戸時代には、棺(ひつぎ)として使われた大型の長持形石棺が発見されました。

これまでに確認された埴輪には、家形埴輪のほか、楯や水鳥(白鳥)形のものがあります。埴輪は墳丘上のほか、中堤帯の一部にも円筒埴輪が立てられていた事もわかっています。古墳が造られた時期は5世紀中頃と推定されます。

大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長と考えられています。

史跡太田天神山古墳案内


緑豊かな森にお社も設営されています。

太田天神山古墳の森



現在の前橋市、高崎市、伊勢崎市にも大型の古墳、遺跡が残されていますが、上州の地に五世紀前半に併存していた地域連合体のなかでも太田市周辺にあった勢力、有力豪族はヤマト政権がその地位を承認し、保証したものであったと考えられます。

畿内を中心に分布する長持形石棺を使用したものが見つかっているのは群馬県の二例のみであり、古墳の副葬品には当時大変貴重であった大量の鉄製品=武器、武具、農工具が納められています。

これは地域支配者の基盤が祭祀権の掌握から軍事・生産面の掌握まで広がり、大和政権に参画し、深いつながりを持った古代東国の中心地であったことを物語っています。

古代、上毛野の息遣いが聞こえてくるような森に佇んで、パワーをもらいました。

有難いことに我が家のプチ旅=日帰り旅行に今回同行してくれた地元財界人のY社長に案内してもらい、上州名物でエネルギー補給も忘れません(笑)。

上州名物やきまんじゅう

香ばしい味噌の香りとふわふわの生地、いくらでも食べられそうな気がします。

焼きまんじゅうの始まりには、諸説がありますが、その一つには今の群馬県前橋市のお店が起源と言われています。

安政4年(1857年)に小麦粉ともち米を原材料に、どぶろくをタネ(発酵材)としてまんじゅうをつくりました。

どぶろくをタネにして発酵させたところが従来のものと違って珍しかったのですが、ただの白いまんじゅうでは面白味がないと考え、 長い竹の串に刺し、味噌を付けて焼いて売り出しました。焼きまんじゅうはこの時代が始まりといわれています。

この頃の名称は「味噌付きまんじゅう」といって1尺3寸ほどもある長い竹串に5個刺しのもので、1本2文であったそうです。

また、前述のただの白いまんじゅうのことを「すまんじゅう」といいますが、名前の言われには3通りの解釈があります。

まず、香りに酸味があり酸っぱいので「すまんじゅう」。

割ると中に「す」が入っているので「すまんじゅう」。

さらに、あんこも何も入らず、味噌付まんじゅうとして未完成なもの、すなわち「素まんじゅう」という意味があると言われています。

この「すまんじゅう」に味噌ダレを付けて焼いたのもが「焼きまんじゅう」ということになります。

『日本の食生活全集10「聞き書 群馬の食事」より』

聞き書 群馬の食事 (日本の食生活全集)

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熱い緑茶もいただき、心地よい気に満ち溢れ、次の目的地、上毛かるたに「太田金山子育吞龍」とある名刹に向かいます。

徳川氏発祥の地と新田義重の菩提寺建立

譜代大名が多かった上州では徳川家康を祀る東照宮が境内社まで含めると49社もあります。

徳川氏という苗字は徳川家康が創始した日本の苗字ですが、その発祥の地は現在太田市の南西部を占める旧名・新田郡尾島町にあります。

天下統一を達成し、盤石の幕藩体制を確立する過程において、徳川家康は武家の棟梁としての最高の官位を朝廷に対し望みます。

そこで家康は清和源氏の末裔であり、武家の貴種であることを証明する必要がありました。

平安時代末から鎌倉時代の初め頃を支配していた上野国の豪族で、清和源氏、源義家の孫にあたる新田義重の四男・義季とその子である得川頼有(下野守、下野四郎太郎)を祖とする系譜が浮上します。

そのため上野国新田郡(新田荘)得川郷をゆずられた新田義季(よしすえ)を先祖とし、その子孫、新田親氏(ちかうじ)が時宗の僧侶となり、各地を遍歴して、松平家に婿入りして、徳川氏になったという伝承が作成されます。

また得川、得河とも表記される郷名も嘉字の「徳川」に直して、使用しています。

かくして朝廷から征夷大将軍の位を受けるにふさわしい系譜が整います。

この伝承によって江戸時代には徳川郷(現在の太田市徳川町)は朱印地300石とされ、諸役免除などの手厚い保護と特権を与えられた土地となります。また、その管理を正田隼人に任せ、支配権を与え、年頭御礼では江戸登城も許します。

先祖として崇めることになった新田義重の故地調査を芝・増上寺の観智国師と土井利勝、成瀬政成に命じた徳川家康は新田氏ゆかりの地として、金山南麓に新田義重の菩提寺を建立します。それが義重山大光院新田寺です。新田義重は法然上人に帰依していたところから浄土宗のお寺として開山されました。

義重山大光院新田寺

観智国師門下の四哲の一人、然誉吞龍を開山とした大光院は浄土宗関東十八檀林とされ、末寺は上野、武蔵、下野三カ国に65を数えたといいます。


開山堂前ではこの日、関東山野草展が開かれ、テントの内と外にはさくら草をはじめ、数多くの花々、鉢植えが展示され賑わっておりました。

関東野草展

サクラソウ





姫空木、白花立浪草

太田金山子育吞龍、新田寺境内写真散歩

開山堂彫刻

鬼瓦

手水舎


境内大仏

回廊



開山の吞龍上人は長く続いた戦乱の被害で捨てられたり、貧困にあえぐ子供たちの救済に励み、七歳になるまで寺で子供を預かり養育したので、子育て吞龍として篤い崇敬を集めました。

寺領石高として幕府から与えられた300石のほとんどを恵まれない子供たちに与えていたため、これを知った幕府は驚いて呑龍上人に善処方を命じます。

しかし子供たちを7歳まで名義上大光院の弟子とする名案を考え、子供たちの救済を続けたと言います。こうした有難い善行がもとになり、上毛かるたにも「太田金山子育吞龍」と残されています。

吞龍上人お手植え臥龍の松


生き生きとした臥龍の松に感激しました。

凛としたなかにも温かみのある境内に、山野草展と想像以上に充実したひとときを過ごすことができました。

イワチドリ

八重咲きエンレイ草

白花イリスクリスタータ(アヤメ科アヤメ属山野草)

サクラソウ(玉孔雀)

義重山大光院新田寺境内裏

アオダモの花

野球で使用する木製バットの原料としても有名なアオダモ、その白い花が五月の風に揺れ、美しく輝いておりました。

と本日はここまで。次回も上州路歴史散歩をお届けする予定です。