夫婦写真散歩のススメ

歩く速さで、街の新陳代謝や季節の移り変わりをゆっくり、丁寧に味わってみましょう。

宮沢賢治のふるさと、イーハトーブの森を歩く。

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宮澤賢治37年の人生

1896(明治29)年2万人の犠牲者を出した「明治三陸地震」の2カ月後に岩手県花巻市に生まれ、1933(昭和8)年病床で「昭和三陸地震」に遭遇し、その年、37年の短くも烈しい人生の幕を閉じ、この世を去った「宮澤賢治」。

東日本大震災後、改めてその存在が注目される国民的作家、宮沢賢治(本名:宮澤賢治)は数多くの評伝や遺族、友人知人の証言などからも多感な少年時代を過ごしたようです。

宮澤賢治の青春

病気などの理由で鬱屈とした青春時代を送ることになり、けっして優秀とは言えなかった盛岡中学での生活でも、進学を許されてからの集中力は凄まじく、名門盛岡農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席入学を果たし、優秀な学生として卒業後、研究生としての在学も認められるほどになります。

県立花巻農学校に就職

就職は現在の県立花巻農学校で教師として、ユニークな授業の実践など豊かな教育活動を展開していきます。たぶんこのころは彼の人生でも最も気力にあふれ、明るい時期だったのではないでしょうか。

音楽を愛し、特にベートーベンをはじめとするクラシック音楽は彼のこころを癒し、創作意欲を刺激していたようです。

Karajan, Beethoven: The Symphonies

Karajan, Beethoven: The Symphonies

羅須地人協会時代

そんな充実した教員生活を過ごすものの、理想の農村社会の実現に向け、教職を辞め、独居生活を始めます。自ら設立し、一心不乱にその身を捧げた羅須地人協会時代。

農民講座を開設し、たくさんの青年たちに農業を指導しています。その頃教育指導のなかで残した優れた教材絵図や花壇の設計図、水彩画においても芸術家としての豊かな才能を発揮してみせていました。

闘病生活と再起

夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症後、約2年間はほぼ実家での療養生活を送ります。重く暗い闘病生活から再起し、東北砕石工場技師としての仕事に取り組んだ晩年。

迷いや嘆き、宗教的寛容との振れ幅のなかを行き来し、大きな葛藤も抱えながら残した創作メモにあった名作「雨ニモマケズ」はこの頃、書かれたものです。実はこの作品が残された一冊のメモ帳について、亡くなる直前に家族に「あれは僕の迷いが現れているものだから、どうにでもしてくれ」というような趣旨の言葉も残したそうです。

図説 宮澤賢治 (ちくま学芸文庫)

図説 宮澤賢治 (ちくま学芸文庫)

そんな彼の創作活動は、学生生活や仕事と並行して創作に励んだ童話や詩のほとんどは彼の生前から現在のような評価を受けていたわけではなく、むしろ無名といっても差し支えないほどです。彼は存命中に童話作家、詩人として生計を立てていたわけではなかったのです。

作家「宮沢賢治」誕生

しかし宮澤賢治没後、草野心平氏らの尽力によって、同人誌「歴程」に掲載され、それを契機として次々と「宮沢賢治」の作品は出版されることとなり、世に広く読まれることとなります。やがて国民的作家として、多くの人々に影響をあたえる存在になりました。

東北地方を襲った冷害による大凶作や妹トシとの死別や自らの病に暗く沈んだときも彼の言葉には、瞬間を切り取る鋭さが溢れ、イメージの壮大さ、限りなく広がる世界観、宇宙観などは悲しみによって奪われることなく、弱きもの、傷ついたものへの限りなく優しいまなざしと深い思索が透き通るように創作物へと昇華していきます。

また高校時代から親しんだ仏教、特に法華経信仰や父親をはじめ、さまざまな人々との軋轢、37年間の人生において様々な影響を与えた自然との交感…。生きることのすべてを受け入れ、彼の類まれなその力、輝きを養い、圧倒的魅力となって、いまもなお科学者、文化人、作家に影響を与え、われわれ市井の読者を魅了してやみません。

宮沢賢治の世界 (筑摩選書)

宮沢賢治の世界 (筑摩選書)

ザ・賢治 (グラスレス眼鏡無用)

ザ・賢治 (グラスレス眼鏡無用)

あなたの方からみたら
ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青空と
すきとほった風ばかりです。

病床でそんな言葉を残している彼のふるさとにあり、賢治自身が30回も登ったといわれる東北地方を代表する名峰「岩手山」を望む場所に向かった記録から。

三ツ石山登山

宮澤賢治が愛した岩手山、その岩手山が一番美しく見えるといわれる場所のひとつ、三ツ石山へ向かいます。

宮沢賢治「ポラーノ広場」

あのイーハトーヴォの透き通った風、

夏でも底に冷たさをもつ青いそら、

うつくしい森で飾られたモリーオ市、

郊外のぎらぎらひかる草の波

『ポラーノ広場』より引用

その途中まずは原子力発電の代替エネルギーとして、風力発電などに比べると地味ながら、いま注目を集めつつある「地熱発電所」を見学しました。

松川地熱発電所

日本初、世界でも四番目に作られた岩手県松川地熱発電所。

地熱発電の評価と可能性

地熱発電の評価は、自然エネルギー推進者からも保守派の学者からも、非常に高いといえます。主義主張、それぞれの立場を超えて、注目度も高まっています。しかも自然環境保全活動家や温泉事業者の一部を除いては、反対する人も少ないと言ってもいいでしょう。




火山国日本の発電ポテンシャルは世界第三位、しかも、発電関連設備の製造は、日本メーカーが世界で7割のシェアを誇ります。これからの世界のエネルギー政策においても、新しい国内産業の育成と発展効果も期待できそうです。

地熱発電量と原子力発電の代替エネルギー議論

しかし発電量はいうと、そのポテンシャルに見合ったものではありません。それはこれまでのエネルギー行政の位置づけに負うところが大きいのですが、環境行政上からくる立地制約や自然環境保護団体と称する活動家による反対もこれまでは大きかったのだそうです。

東日本大震災後180度転換した世論の流れで代替エネルギー議論が沸騰する昨今、長い間進まなかった地熱利用による発電も今一度改めてコストとリスクを精査し、正しい情報開示が行われ、脱原子力依存の代替エネルギー確保に向け、ベース電源となる地熱発電の価値が大きく高まったことは文字通り建設的な話だと思います。

八幡平市松川国有林、究極の森林浴

さあ、それでは宮沢賢治の詩を思い出しながら、

わが雲に関心し、

風に関心あるは

ただ観念の故のみにはあらず

そは新たなる人への力

はてしなき力の源なればなり

本物の森林浴を味わうため、岩手県八幡平市松川国有林を歩きます。

ブナやミズナラの原生林に囲まれ、やはり本物の森林パワーは違います。


澄み渡る空気、頬を撫でる心地よい風、森の呼吸が聞こえてきそうなほど透き通った静寂。

光と風をたっぷり味わいながら、高低差500メートルの写真撮影しながらの登山となりました。

厳しい風雪に耐え、風の吹く方向に折れ曲がった樹木を見上げ、生命の力強さに感動。

イーハトーブの森、花木を撮る

岩手県八幡平、この国有林もイーハトーブの森ではないかと、そんな気がします。


森の精に会えそうなそんな気がする緩やかな坂道。


この日は盛岡市の最高気温35℃、標高860メートル付近でも30℃近くあったため、汗だくでしたが、

朝晩は冷え込むため、強い日差しのなか、残暑と秋が交差する風景を荻やススキが風になびく姿で味わいます。


生き生きとして咲く花も実も、この山の保水力のおかげです。松川の森はブナやミズナラ、カエデ、豊富な熊笹が支えます。

ヒヨドリソウ

梅鉢草

りんどう

舞鶴草の実

ムシカリ(オオカメノキ)<スイカズラ科ガマズミ属>

優雅菊

アカツメクサ

三ツ石山登山道入り口

登山道

ブッシュを掻き分け、険しい坂道を登ったり、下ったり。



蒸し暑いブッシュを抜けると、晴れ渡る青空と涼風が迎えてくれました。

三ツ石山荘

ようやく頂上近くの山小屋も見え、一安心。

そして、この光景が本日のクライマックス、岩手山を眺めます。

岩手山


ああ、岩手山、美しきその姿。
下山途中もブッシュを掻き分け、木々の隙間からカメラを構えます。


それにしても、美しい。

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

なにがしあはせかわからないのです。
ほんたうにどんなつらいことでも
それがただしいみちを
進む中でのできごとなら
峠の上り下りもみんな
ほんたうの幸福に近づく
一あしづつですから。
『銀河鉄道の夜』から

下山後、地元産ブルーベリー、りんご、プルーンのジュースをいただきました。美味し。

次回は東日本大震災後、再びクローズアップされる国民的作家「宮沢賢治」が学んだ盛岡市を歩きます。

最後にこの言葉を。

宮沢賢治「書簡」(大正九年)

かなしみはちからに、

欲りはいつくしみに、

いかりは智慧にみちびかるべし

『書簡(大正九年)』