「かつしか」歴史・文学散歩
今回は「かつしか」歴史・文学散歩をテーマにご紹介します。
古代日本において律令制国家が形成される過程で、令制国として編成された大国のひとつに下総国(しもうさのくに)がありました。
下総国葛飾郡
住み慣れ縁も深くなった我が家のある「かつしか」という地名はその下総国葛飾郡に存在し、現在に残ります。
下総国葛飾郡は現在の千葉県市川市を中心に、東は千葉県船橋市、西は隅田川東岸にある現在の葛飾区、墨田区、江東区。
南は千葉県浦安市、北は埼玉県北葛飾郡から茨城県古河市にまたがる、現代の行政区分とは異なり、広大な領地を有していました。
この行政単位は律令制国家の成立以後1,000年もの長い間、江戸時代末期まで続くことになります。
現在も「かつしか」という地名は東京都葛飾区だけでなく埼玉県北葛飾郡や千葉県旧東葛飾郡などに残り、柏市にある名門東葛飾高校、市川市八幡にある葛飾八幡宮(下総国総鎮守)、船橋市にも葛飾の名前は神社、学校名などに残っています。
下総国国府
その下総国の国府があった、現在の市川市国府台(こうのだい)付近の高台(真間山麓)には縄文時代の古墳や貝塚などの史跡が発掘されています。
飛鳥時代には下総国の中心地として栄えた史跡も数多く残されています。元々「かつしか」の中心は江戸川の対岸にある市川市国府台、市川真間周辺にあったのです。
万葉歌人が和歌に詠んだ「かつしか」
万葉集に収められた東歌や山部赤人、高橋虫麻呂の長歌、短歌に詠まれた「かつしか」。地名、校名など現在に残る葛飾(かつしか)は「葛餝・勝鹿・勝壮鹿・可豆思賀・可都思加・可豆思加・可都思賀」といったように万葉仮名と呼ばれる漢字によってさまざまな宛字で表記されています。
14巻東歌に
原文 可豆思加乃 麻萬能宇良未乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母 訓読 葛飾の真間の浦廻をこぐ船の船人騒ぐ波立つらしも かな かつしかの ままのうらみを こぐふねの ふなびとさわぐ なみたつらしも
という歌が出てきます。
さらに
葛飾の真間の手兒奈をまことかも吾に寄すとふ真間の手兒奈を 3384 葛飾の真間の手兒奈がありしかば真間のおすひに波もとどろに 3385 にほ鳥の葛飾早稲をにへすともその愛(かな)しきを外に立てめやも 3386 足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ 3387
下総の国の「詠み人知らず」四首が登場します。
なお原文表記は塙書房「補訂版 萬葉集 本文編」、訓読は岩波書店「新訂 新訓万葉集」の表記に倣っています。
真間の手児奈伝説
奈良時代、上記東歌や山部赤人や高橋虫麻呂が詠んだ和歌にも登場する悲劇のヒロイン「手児奈」。市川真間に残され、都人の文学的感性を激しく刺激したこの手児奈伝説を踏まえ、万葉の二大歌人が詠んだことがきっかけになり、1,200年以上語り継がれる有名な存在になりました。
市川市教育委員会による解説、「手児奈伝説」
奈良時代のはじめ、山部赤人(やまべのあきひと)が下総国府を訪れたおり、手児奈の伝承を聞いて、 われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処(おくつきどころ) と詠ったものが万葉集に収録されている。手児奈霊堂は、この奥津城所(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のため人びとの争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入り江に身を沈めたとか、継母の仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生れ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に司える巫女であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられた真間の地は、市川市における文学のふる里であるともいえる。
昭和58年3月 市川市教育委員会
山部赤人が詠んだ手児奈に関する和歌
山部赤人が詠んだ手児奈に関する長歌と短歌(反歌)を原文(万葉仮名)、訓読、現代かなを並べてじっくり鑑賞してみましょう。
さまざまな学者、文人、碩学によって、訓読が施され、現代語訳も存在します。原文(万葉仮名)の漢字をじっと眺めていると新たな気付きもあって、実に面白いと思います。
題詞 | 過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首[并短歌] [東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡] | |
原文 | 古昔 有家武人之 倭文幡乃 帶解替而 廬屋立 妻問為家武 勝壮鹿乃 真間之手兒名之 奥槨乎 此間登波聞杼 真木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳母吾者 不可忘 | |
訓読 | いにしへに ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 伏屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我れは 忘らゆましじ | |
かな | いにしへに ありけむひとの しつはたの おびときかへて ふせやたて つまどひしけむ かつしかの ままのてごなが おくつきを こことはきけど まきのはや しげくあるらむ まつがねや とほくひさしき ことのみも なのみもわれは わすらゆましじ |
題詞 | 過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首[并短歌] [東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡])反歌 | |
原文 | 吾毛見都 人尓毛将告 勝壮鹿之 間々能手兒名之 奥津城處 | |
訓読 | 吾れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ | |
かな | われもみつ ひとにもつげむ かつしかの ままのてごなが おくつきところ |
題詞 | 過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首[并短歌] [東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡])反歌) | |
原文 | 勝壮鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念 | |
訓読 | 葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ | |
かな | かつしかの ままのいりえに うちなびく たまもかりけむ てごなしおもほゆ |
高橋虫麻呂が詠んだ「かつしか」に関する和歌
手児奈伝説と同様、入水伝説の残る悲劇のヒロイン葦屋の菟原娘子や大らかでスタイル抜群の妖艶な美女、上總国の珠名娘子の口承・伝承を題材に歌を詠んでいます。
どれも瑞々しくも生々しい人物表現に、色彩感覚豊かな表現で、伝説の女性を描いています。それでは高橋虫麻呂の長歌、短歌で手児奈伝説を味わってみましょう。
題詞 | 詠勝鹿真間娘子歌一首[并短歌] | |
原文 | 鶏鳴 吾妻乃國尓 古昔尓 有家留事登 至今 不絶言来 勝壮鹿乃 真間乃手兒奈我 麻衣尓 青衿著 直佐麻乎 裳者織服而 髪谷母 掻者不梳 履乎谷 不著雖行 錦綾之 中丹果衣有 齋兒毛 妹尓将及哉 望月之 満有面輪二 如花 咲而立有者 夏蟲乃 入火之如 水門入尓 船己具如久 歸香具礼 人乃言時 幾時毛 不生物呼 何為跡歟 身乎田名知而 浪音乃 驟湊之 奥津城尓 妹之臥勢流 遠代尓 有家類事乎 昨日霜 将見我其登毛 所念可聞 | |
訓読 | 鶏が鳴く 東の国に 古へに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 沓をだに はかず行けども 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや 望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 港入りに 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く港の 奥城に 妹が臥やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも | |
かな | とりがなく あづまのくにに いにしへに ありけることと いままでに たえずいひける かつしかの ままのてごなが あさぎぬに あをくびつけ ひたさをを もにはおりきて かみだにも かきはけづらず くつをだに はかずゆけども にしきあやの なかにつつめる いはひこも いもにしかめや もちづきの たれるおもわに はなのごと ゑみてたてれば なつむしの ひにいるがごと みなといりに ふねこぐごとく ゆきかぐれ ひとのいふとき いくばくも いけらじものを なにすとか みをたなしりて なみのおとの さわくみなとの おくつきに いもがこやせる とほきよに ありけることを きのふしも みけむがごとも おもほゆるかも |
題詞 | 詠勝鹿真間娘子歌一首[并短歌])反歌 | |
原文 | 勝壮鹿之 真間之井見者 立平之 水杷家武 手兒名之所念 | |
訓読 | 勝鹿の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ | |
かな | かつしかの ままのゐみれば たちならし みづくましけむ てごなしおもほゆ |
8世紀初頭山部赤人、高橋虫麻呂が市川の真間の里を訪れた時に聞いた手児奈伝説は少なくとも奈良時代初期以前から、つまり赤人や虫麻呂が訪れた時期より百年以上前からこの地に残っていた伝承であることは間違いありません。
「葛飾記」1749年に記載された手児奈伝説
後世の記録にも手児奈伝説は様々な形で残されています。『葛飾記』(1749)には、「手児奈は都の雲上人が左遷され、この地で真間大納言と名乗った人の娘である」と書かれています。
手児奈の俗伝
また、手児奈の俗伝として、「弘法寺の開山上人が、今の手児奈霊堂のあたりを歩いていると、お産で亡くなった女性が現れ、「自分を供養し祀(まつ)れ」と告げたので、手児奈神として祀り始めた」という伝承を記しています。
太宰春台「継橋記」に記載された手児奈
日本で最初に「経済」という言葉を使った書名の文章を残している江戸時代の学者太宰春台(1680〜1747)は『継橋記(つぎはしき)』のなかで「手児奈は継母に虐げられ、継ぎ橋から身を投げた」と記しています。
江戸名所図会
江戸名所図会にも「手児奈の汲める井なりと云伝ふ」と書かれ、江戸時代中期以降、紅葉の名所として有名になった真間山、手児奈伝説は歌川広重の浮世絵、名所江戸百景にも「真間の紅葉(もみじ) 手古那の社(やしろ)継(つぎ)はし」と題し、描かれています。
真間の紅葉 手古那の社 継はし(歌川広重作、名所江戸百景)
真間山弘法寺
真間山弘法寺の歴史
真間山の由来は天平年間(737年)行基が求法寺(ぐぼうじ)として手児奈を供養するために開山したことが始まりと言われています。
行基といえば、当時の政治権力からは弾圧も受けながら、墾田開発をはじめ架橋、掘削による貯水池など数々の社会事業も有名です。
また開基した道場、寺院、温泉の開湯伝説も全国に多数残る、恐るべきバイタリティーの持ち主で、古式地図・行基図を作ったり、聖武天皇の勅願により参加した東大寺建立の責任者でもあり、畿内にとどまらず、日本全国に数々の伝説を残す僧侶です。この市川国府台、真間山にもかと、その行動力は驚嘆に値します。
桜の咲くころには「伏姫桜」と水戸光圀公が名付けられた古木が見事です。
手児奈伝説とは?
手児奈霊神略縁起
明治39年9月に真間山弘法寺(ぐぼうじ)の日慎上人が書いた「手児奈霊神略縁起」。
そこに書かれた物語を現代文にして要約してみましょう。
推古天皇の次代、第34代舒明天皇(在位629〜641年)のころ、葛飾真間にあった下総国の国府に務める国造の娘に手児奈と呼ばれる容貌も心根もそれはそれは美しい、絶世の美女が住んでいました。
その美貌は遠く帝都、飛鳥の都へも聞こえるほどでした。美貌の噂を聞いた近隣のとある国造は息子の嫁にと、この真間の国造の娘、手児奈を求め、無理矢理婚姻を結ばせてしまいます。
やがて、葛飾の国府と、嫁ぎ先の国との間で不和となり、強く激しい争いごとが発生します。腹黒く情け知らずの国造は憎い相手の娘である手児奈を逆恨みし、濃やかな情をもって仲睦まじく暮らす息子夫婦を引き裂くため、嫁を欺き、言葉巧みに浜辺に誘い出すと船に乗せて海へ流してしまいます。
手児奈はこの意外さに驚き、理由も分からずただ茫然として漂流し、やがて過ごす方行く末を思うと、このまま身を海に沈めようと思いましたが、身重であったため、お腹のなかにいる我が子を巻き添えにするわけにもいかず、せめて我が子が成長するまでは生き長らえようと決意します。
数日漂流したあと、不思議なことに船は再び真間の浦に吹き寄せられますが、嫁家はもちろんのこと、当時は嫁ぎ先から返されることは恥であり、実家にも帰れず、やむなく近くに住む海士や漁師の翁にお願いして庵を営んで近隣の家々の裁縫や網の修繕、炊事洗濯などをしながら、何とか生計を立て、男の子を養っていました。
しかしまったく着飾らなくなっても、「流石に天然の美質、世にも稀なる容貌のいまだ色香も去りやらねば」と原文に書かれていることからも、その美貌は衰えることなく、評判を聞きつけた周囲の男達が連日連夜、手児奈の庵を訪れて争い言い寄るようになります。
手児奈争奪戦は日に日に激しさを増し、遠く都から駆けつけるもの、兄弟間で争うものや命懸けの決闘まで発生したと言われています。
手児奈は、自分のために争いが続く事を厭い、精神的にも追い詰められ、そして貞節を守るため真間の入り江に入水したと伝えられています。
当時の人々は若く輝かしい年齢にも関わらず、男たちの妻争いに苦悶し、自ら入水した彼女の心根を哀れに思い、亡骸を厚く葬って、霊堂を建て、手児奈の霊を祀るようになった…そういう伝説です。
手児奈伝説を題材にした小説も1979年五月書房から刊行され、現在は文芸社から再発売されています。
手児奈霊神堂
追記(2019年5月22日)万葉集とかつしか
市川市には万葉植物園があり、萬葉集に登場する植物と和歌の関係を学ぶことができます。
萬葉集と文学歴史散歩
萬葉集(万葉集)に収録されている和歌ゆかりの地を歩いて撮った文学歴史散歩三題もあわせてご覧ください。
目次:本日の記事を振り返ります